第9話 黒猫亭、お客さんが増えてきた!
カラン、カラン。
黒猫亭の扉についた小さなベルが、今日何度目か分からない音を立てた。
「すみません。表の看板を見て……チョコビスコッティって、まだありますか?」
「はい、ありますよ。焼きたても用意してるので、どうぞ!」
笑顔で答えながら、俺はカウンターの奥を振り返った。
「ルーシアさん、ブレンドとビスコッティを一つ!」
「分かった」
返事と同時に、ルーシアは手早く用意していく。
黒い長髪を後ろへ流し、袖を肘までまくった彼女は、相変わらず無駄な動きがない。
ビスコッティを形を崩さないよう皿へ乗せ、その隣にコーヒーを置いた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
笑顔でビスコッティを頬張る姿を見送ってから、俺は店内を眺めた。
メニューを増やしてから2日しか経っていないが着実に客数は増えている。
以前なら、客が一人いるだけでも「今日は来てくれた」となっていた黒猫亭に、今は何人もの客がいる。
窓際の席では二人の商人がコーヒーを飲みながら仕事の話をしていて、カウンターには一人でビスコッティを楽しんでいる男性がいる。
入口近くでは、初めて来たらしい若い女性が店内を物珍しそうに見回していた。
コーヒーの香ばしい香りに、焼き菓子から漂う甘い匂いが重なり、以前の静まり返った店とは比べものにならないほど、人の気配が感じられる。
「……本当に、増えたな」
思わず呟くと、隣で食器を拭いていたルーシアがちらりとこちらを見た。
「うん、こんなに店の中が賑やかになるなんて想像できなかった」
「でも、まだまだこれからだよ。この店、このコーヒーにはもっとポテンシャルがある」
「うん……そう言ってくれるとうれしい」
ルーシアの思わぬ反応にちょっと照れを感じ、隠すように店内を見渡した。
「前はコーヒーの香りしかなかっただろ。でも今は、人の話し声がして、食器の音がして、焼き菓子の匂いまでしてる。ちゃんと『店』になってきた気がするんだ」
ルーシアは何も言わずに客席を見た。
その横顔に、ほんのわずかに笑みが浮かぶ。
「……そうね」
短い言葉だった。
けれど、その声はいつもより柔らかかった。
俺がこの世界に来たばかりの頃、黒猫亭は「潰れかけた店」だった。
今だって、繁盛店と呼べるほどではない。
それでも、扉を開けてくれる人がいて、コーヒーを注文してくれる人がいて、ビスコッティを「また食べたい」と言ってくれる人がいる。
それだけで、今までとはまるで違っていた。
「カズキ」
「ん?」
「ビスコッティ、残りが少ない」
ルーシアがトレイを示す。
「え?」
覗き込んでみると、朝に用意したビスコッティが、いつの間にか半分以下になっていた。
「……もうこんなに?」
「昼まで持つと思ってたけど、予想より早い」
「じゃあ追加で焼いてくれるかな?」
「うん。準備してくる」
そう言ってルーシアは、次の生地を作り始めた。
ボウルの中で材料を混ぜる手つきも、焼き上がった生地を切り分ける動作も、迷いがない。
忙しくなればなるほど、ルーシアの仕事はむしろ静かになっていく。
余計なことを話さず、必要なことだけを見て、黙々と手を動かしている。
その姿を見ていると、ふと胸の奥がくすぐったくなった。
――やっぱり、格好いいな。
初めて会ったときは、ただ「綺麗な人だ」と思った。
でも、こうして一緒に店をやってみると、それだけじゃないことが分かる。
「……カズキ?」
「え?」
「さっきから、何を見てるの」
「いや、その……」
慌てて視線を逸らした。
「仕事、すごく早いなと思って」
「それだけ?」
「……それだけ」
ルーシアはじっと俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「変なの」
「よく言われる」
ルーシアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その笑顔を見ていると、さっきまでの忙しさが不思議と楽しく思えてくる。
……なんて考えていた、そのときだった。
「カズキ」
「はい」
「見てるだけなら、手伝って」
「……はい」
完全に見透かされていた。
「でも俺、まだ店の中の仕事に慣れてなくてさ」
「だから覚えてほしい」
「ですよね」
俺は苦笑しながら、客席から下げてきた食器を手に取る。
「じゃあ、洗い物するよ」
カウンターの内側へ入ろうとした瞬間だった。
足元に置かれていた木箱の角へ、靴先が引っかかった。
「うわっ――!」
身体が前へ傾く。
次の瞬間、腕を強く引かれた。
「危ない!」
腰を支えられ、そのまま倒れ込むようにルーシアの胸元へ身体が寄った。
「……っ」
鼻先に、コーヒーとは違う、ほのかに甘い香りが触れる。
すぐ目の前に、ルーシアの黄色の瞳があった。
驚いたように見開かれている。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫!」
慌てて身体を起こそうとしたものの、ルーシアの腕がまだ俺の身体を支えていることに気づく。
彼女もそれに気づいたらしく、少し遅れて手を離した。
「……ごめん」
「全然全然! 助けてもらったのは俺の方だから!」
ルーシアの柔らかさに触れてめちゃドキドキする。
口が上手く回らない。
「あなた、危なっかしい」
「そ、そうかな……」
「昨日も店の掃除で椅子にぶつかっていた」
「それは……うん」
「だから危なっかしい」
ルーシアが小さく笑った。
からかわれた。
それだけなのに、なぜか胸が妙に熱い。
「……まずは、ゆっくり覚えて」
ルーシアはそう言って、俺の足元にある木箱を端へ寄せた。
「お客さんが増えたからといって、無理をする必要はない。店を続けるなら、今日だけ頑張るより、明日も同じように動けるほうが大事」
「……ルーシアさん」
「何?」
「そういうところ、店主って感じする」
「今さら何を言っているの」
「いや、なんとなく」
俺は笑って、シンクの前に立つ。
「じゃあ、できることからやるよ」
「うん」
それから俺は、少しずつ店の仕事を覚えていった。
注文を聞き、食器を運び、客が帰ったあとのテーブルを拭く。
まだ手際は悪いけれど、最初の頃のように何をしていいのか分からず立ち尽くすことはなくなった。
◇
「ご注文は、チョコビスコッティとコーヒーでよろしいですか?」
「はい。それと……今日のおすすめのコーヒーってあります?」
「おすすめですか?」
俺はカウンターの奥を見る。
「ルーシア、今日はどれがおすすめ?」
「エルダの深煎り」
「だそうです。香りがしっかりしているので、ビスコッティとも合いますよ」
「じゃあ、それでお願いします」
「ありがとうございます」
注文を受けて振り返ると、ルーシアがこちらを見ていた。
「……今の、悪くなかった」
「本当?」
「うん。最初より」
「最初より、か……」
「褒めてる」
「分かったよ」
そんな何気ないやり取りが、妙に嬉しかった。
俺はまだ、この世界のことを何も知らない。
商売だって、ネットで読んだ知識を頼りにしているだけで、実際の店を経営するのは初めてだ。
それでも、ルーシアと一緒なら、少しずつやっていける気がした。
そんなことを考えていた昼下がり。
再び扉のベルが鳴った。
カラン、カラン。
「おう! 聞いたぞ、黒猫亭が忙しくなってきたってな!」
豪快な声とともに入ってきたのは、コレットだった。
「コレットさん、いらっしゃいませ!」
「ほとんど客がいなかった店が、今はこうだ。お前、何を仕掛けた?」
「いろいろですよ」
俺は胸を張って答えた。
「店の印象を整えて、新しいメニューを作って、それを期間限定で出して……まずは黒猫亭の存在を知ってもらうところから始めたんです」
「なるほどな」
コレットは頷きながら、カウンターの上に置かれたビスコッティを見る。
「で、今日はそれを食いに来た」
「はい、ちょっと待ってて」
ルーシアはてきぱきとブレンドを淹れ、コレットの前へビスコッティとコーヒーを並べる。
コレットはまずビスコッティを一口かじり、それからコーヒーを口に含んだ。
「……うん、やっぱり、いいな」
「本当ですか?」
「ああ。これなら仕事の合間に食いたくなる。手軽につまめるし、コーヒーだけじゃ少し物足りないって奴にも丁度いい」
コレットはビスコッティをもう一口かじると、何かを考えるようにカウンターを指で軽く叩いた。
「こいつは商人ギルドの連中に広めてもいいかもしれねえな」
「商人ギルドに?」
「商人ってのは口が軽い。良い意味でも悪い意味でもな」
コレットはニヤリと笑った。
「一人が気に入れば、次の奴が試す。その次の奴がまた誰かに話す。そうやって評判ってのは広がっていく。黒猫亭が本当にいい店なら、俺たちの口を使う価値はある」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中にひとつの考えが浮かんだ。
「……だったら、コレットさんにお願いがあります」
「なんだ?」
「黒猫亭のアンバサダーになってもらえませんか?」
「……アンバサダー?」
「簡単に言えば、黒猫亭を気に入ってくれた人として、周りに紹介してもらうんです。コレットさんは商人ギルドの会頭という立場だから、普通のお客さんよりずっと多くの人に黒猫亭を知ってもらえる」
「ほう」
コレットは面白そうに眉を上げた。
「つまり、俺を使って店の名前を売るってわけか」
「そういうことです」
「面白えじゃねえか!」
コレットが豪快に笑った。
「いいぜ。俺もこの店は好きだ。うまいコーヒーが飲めて、甘いもんまで食えるなら、紹介する理由はいくらでもある」
「ありがとうございます!」
「ただし――」
コレットが人差し指を立てる。
「名前を貸すだけじゃねえ。俺が紹介した奴らに、ちゃんと『また来たい』と思わせろよ?」
俺は一瞬だけ言葉を失い、それから笑った。
「もちろんです」
「よし。それなら話は決まりだ」
コレットは大きな手を差し出した。
「これから忙しくなるぞ、カズキ」
俺がその手を握ろうとした、そのときだった。
「……待って」
低い声が横から飛んできた。
ルーシアだった。
「アンバサダーの話は分かった。けど、店主である私にも確認して」
「……あ」
完全に忘れていた。
「ごめん」
「あなたは、思いつくとすぐに動く」
「反省してます」
ルーシアは呆れたように俺を見る。
けれど、怒っているわけではないらしい。
「……ただ」
ルーシアはコレットへ視線を向けた。
「黒猫亭のことを、本当に気に入ってくれてるなら……私からも頼みたい」
ほんの少しだけ、声が震えた。
「この店を、もっと多くの人に知ってもらえるようにしてほしい」
コレットは一瞬だけ目を丸くしたあと、満面の笑みを浮かべた。
「任せときな!」
差し出された手を、ルーシアが握る。
「……よろしく、お願いね」
「ああ!」
大きな手と細い手が、しっかりと重なった。
その光景を見ながら、俺は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
黒猫亭は、もうルーシア一人の店じゃない。
俺が加わり、コレットが力を貸してくれて、少しずつこの店を知ってくれる人が増えている。
まだ、黒猫亭は小さな店だ。
けれど、その扉を開ける人は確実に増え始めている。
カラン、カラン。
また扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
今度は、俺とルーシアの声が重なった。
その瞬間、俺たちは顔を見合わせる。
ルーシアが小さく笑い、俺もつられて笑った。
黒猫亭の新しい日々が始まろうとしていた。
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