第10話 そろそろ軽食も出していきたい
黒猫亭の扉のベルが、今日も忙しそうに鳴っている。
カラン、カラン。
「すみません、深煎りとチョコビスコッティを一つお願いします」
「はい、ただいまお持ちしますね」
注文を受けて振り返ると、カウンターの奥ではルーシアが新しいビスコッティをトレイへ並べていた。
少し前までなら、一日に一人来ればいいほうだった黒猫亭が、今では昼前になると席が埋まることもある。
もちろん、まだ大繁盛と呼べるほどじゃない。
それでも、店の中に人がいるだけで、以前とはまるで違って見えた。
「ビスコッティの計量をしておくから、こっちはお願い」
「うん、コーヒーの注文が入ったら呼ぶよ」
そう言って袖をまくるルーシアを見て、俺も気を引き締めた。
忙しくなった店の中で、ルーシアは以前にも増して生き生きしているように見える。
注文が入れば豆を挽き、湯を注ぎ、おいしいコーヒーを出していく。
忙しいはずなのに動きに焦りがなく、むしろ客が増えれば増えるほど、職人としての集中力が研ぎ澄まされていくようだった。
そんな姿を眺めているうちに、俺はふと気づいた。
「……そろそろ次の手を打たないとな」
「ん?」
ルーシアが顔を上げる。
「何か問題があるの?」
「ビスコッティはあくまで期間限定だろ? それに、さっきから店を見ていて思ったんだけど……」
俺は昼時の客席へ目を向けた。
「コーヒーと甘いものだけじゃ、昼飯にはならない」
「……それはそうね」
ルーシアも客席へ視線を向けた。
「朝から働いている人なら、昼には何か食べたいだろうな」
「そう。黒猫亭は商人や職人が多い場所にあるんだから、そこを狙わない手はない」
「だけど、ここは食堂じゃないよ」
「もちろん。だから、がっつりした料理じゃなくていいんだよ」
俺は少し考えながら言葉を続けた。
「仕事の合間に食べられて、そんなに時間もかからない。量も重すぎない。でも、ちゃんとお腹に溜まる。なにより、ルーシアのコーヒーにも合うもの」
「コーヒーにも合う軽食……」
「うん。そろそろ考えてみない?」
ルーシアは腕を組み、しばらく黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「分かった。考えよう」
「よし、新メニュー開発だ!」
俺は拳を握った。
「ただし」
「うん?」
「コーヒーの味を邪魔するものは出さない」
黄色の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「そこは譲らない」
その言葉を聞いて、俺は思わず笑った。
「分かってる。むしろ、そこは絶対に譲らないでほしい」
ルーシアが少しだけ目を見開く。
「……わがままじゃ、ない?」
「わがままっていうか、そこはルーシアさんの武器だろ」
「武器?」
「うん。俺は売り方を考える。でも、商品を作るのはルーシアさんだ。そこを妥協したら、黒猫亭じゃなくなる」
しばらく黙っていたルーシアが、ふっと視線を逸らした。
「……そういうところよね」
「え?」
「何でもない」
耳が少し赤くなっているように見えたが、俺にはその理由までは分からなかった。
ただ、なんとなく、いつもより嬉しそうに見えた。
◇
夕方になると、黒猫亭から客の姿が消えていった。
昼間の賑わいが嘘だったかのように店内は静まり返り、窓の外ではオレンジ色に染まった街を人々が行き交っている。
俺はいくつか思いついた料理を書き出していた。
「うーん……」
「まだ考え中?」
カウンターの向こうからルーシアが尋ねる。
「うん。パン系がいいとは思うんだけど」
「確かにパンなら、調理に時間がかからない」
「それにコーヒーとも合わせやすいしね」
俺は紙を眺めながら考え込んだ。
「サンドイッチ……いや、普通すぎるかな」
「なら、パニーニはどう?」
「パニーニ?」
「パンに具材を挟んで、鉄板で両面を焼く。表面を香ばしく仕上げれば、短い時間でも満足感が出る」
ルーシアの説明を聞いた瞬間、頭の中に料理の姿が浮かんだ。
焼き目のついたパン。
その間から覗く具材。
熱でとろけたチーズ。
「それだ!」
思わず立ち上がった。
「忙しい商人や職人でも食べやすいし、見た目もいいから新メニューとして映える!」
「……ずいぶん嬉しそうだな」
「だって、想像しただけで美味しそうじゃないか」
ルーシアは呆れたように笑いながらも、すでに厨房へ向かっている。
「問題は具材だ」
「普通のハムとチーズじゃ、ちょっと弱いよな」
「黒猫亭で出すなら、何かひとつ特徴が欲しい」
俺は腕を組んだ。
そして、ふと頭の中に蘇ったものがあった。
「……鴨の燻製肉」
「鴨?」
「ほら。俺がここへ来たばかりのとき、ルーシアさんが作ってくれたスープに入ってただろ」
あの日の味を思い出す。
まだ異世界に来たばかりで、何も分からず、これからどうなるのかも決められなかった俺に、ルーシアが出してくれた料理。
湯気の向こうから漂ってきた燻製肉の香りと、温かなスープの味は、今でもよく覚えている。
「あれ、美味しかったんだよなぁ」
そう言うと、ルーシアの手が止まった。
「……覚えていたのね」
「そりゃ覚えてるよ、心に沁みたなぁ」
「そんな、たいした料理じゃない」
「俺にとっては、たいした料理だったよ」
ルーシアがこちらを見る。
彼女の瞳が、夕方の光を受けて柔らかく揺れていた。
「この国に来て、最初に食べたまともな料理だったから」
「……そっか」
ルーシアはそれ以上何も言わなかった。
けれど、横顔を見ると、少しだけ嬉しそうにしている。
「じゃあ、鴨の燻製肉を使ってみる。燻製肉なら仕入れ先にも心当たりがある。保存も利くし、扱いやすい」
「さすがルーシアさん」
「……ふふ」
ルーシアは小さく笑った。
「じゃあ、作ってみる」
「ああ、頼む!」
厨房へ入ったルーシアが、奥から一枚の古びた鉄板を取り出した。
「こんなのあったんだ?」
「前に買ったは良かったけど、結局使わなくなってね……」
「わかる~。俺もそういう経験ある」
ルーシアが鉄板を魔導コンロの上へ置く。
魔石から供給された熱が鉄板へ伝わり、じわじわと表面が温まっていく。
パンに薄く“ハチミツとバルサミコ酢のソース”を塗り、鴨の燻製肉を重ね、その上からチーズを乗せる。
最後にもう一枚のパンを重ね、熱くなった鉄板へそっと置いた。
しばらくするとジュッ、と音がする。
「……いい音」
「まだ」
ルーシアが鉄板を上から押さえる。
パンが熱でじわりと潰れ、表面に焼き色がついていく。
やがて、香ばしいパンの匂いに燻製肉のスモーキーな香りが重なり、静かな店内にゆっくりと広がっていった。
「これは……」
腹が鳴りそうになる。
「カズキ」
「何?」
「あなた、さっきから顔に出ている」
「……そんなに?」
「うん」
「だって、美味しそうだから」
ルーシアは呆れたように息を吐きながらも、どこか楽しそうだった。
やがて鉄板から取り出したパニーニを包丁で斜めに切る。
断面から、とろりと溶けたチーズがゆっくりと流れ出した。
「うわ……」
思わず身を乗り出す。
「絶対うまいやつじゃん」
「はい。熱いから気をつけて」
ルーシアが皿を差し出してくる。
俺は勢いよくパニーニへかじりついた。
サクッ。
表面は香ばしく、中から熱々のチーズがとろりと溶け出す。
そこへ鴨の燻製肉の旨味と、ほんのり甘く酸味のあるソースが重なった。
「……美味い!」
思わず声が大きくなる。
「本当に?」
「ああ。これ、かなり好きだ」
ルーシアが少し安心したように息を吐く。
「コーヒーにも合うと思う」
「じゃあ、試してみよう」
ルーシアが淹れたエルダの深煎りを口に含む。
苦みのしっかりしたコーヒーが、燻製肉の香りをさらに引き立てる。
「……うん。合う」
「よかった」
そう言いながら、ルーシアは笑っていた。
そのとき――。
「おっ? なんだ、今日はずいぶん腹の減る匂いがするじゃねえか!」
扉のベルが鳴り、聞き覚えのある豪快な声が店内へ飛び込んできた。
「コレットさん!」
コレットが、大きな身体を揺らしながら店へ入ってくる。
「ちょうどいいところに来た!」
「おう、何だ?」
俺は出来上がったばかりのパニーニを見せた。
「新しい軽食を試作したんです。鴨の燻製肉とチーズのパニーニ。商人や職人が昼に食べやすいものを作ろうと思って」
「ほう!」
コレットの目が輝いた。
「そいつは俺向きじゃねえか。腹が減って仕方なかったところだ」
「コレットも食べてみて」
ルーシアが焼きたてを渡すと、コレットは豪快にパニーニへかじりつく。
「……っ!」
数秒、無言になる。
それから、満面の笑みを浮かべた。
「こりゃうめえ!」
店内に響く声に、俺とルーシアは思わず顔を見合わせた。
「燻製肉の香りにチーズのコク、それにこのパンの焼き加減がいい! 腹にもたまりそうなのに、重すぎねえのがまたいいな!」
「コーヒーと合わせて」
「もちろんだ!」
コレットはコーヒーを一口飲み、さらに大きく頷いた。
「むしろ、こいつはコーヒーが欲しくなる味だ。昼飯を食って、午後も仕事を頑張ろうって気になる」
その言葉を聞いて、俺は嬉しくなった。
まさに、狙っていたものだった。
「このメニューなら、黒猫亭の昼の顔になれる」
俺はパニーニを見つめ、それからルーシアを見る。
「ルーシアさんのコーヒーを美味しく飲むための軽食。しかもちゃんとお腹を満たせる」
「……なら、出してみようかな」
ルーシアが頷く。
「『鴨の燻製肉とチーズのパニーニ』。明日から試してみよう」
「決まりだな!」
コレットが笑いながら、残ったパニーニをもう一口かじった。
「こりゃ、また商人連中に教えたくなる味だ」
チョコビスコッティで憩いの時間を楽しんでもらい、パニーニで昼の空腹を満たしてもらう。
そして、その中心には、ルーシアが淹れる一杯のコーヒーがある。
店の形が、少しずつ見えてきた気がした。
二人で考えて、二人で手を動かしたからこそ生まれた新しい一皿を前に、俺は自然と笑っていた。
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