第11話 パニーニ旋風!? 黒猫亭に訪れる新たな波乱!
黒猫亭の扉が開くたび、店内に小さなベルの音が響く。
以前なら、その音が鳴るたびに「今日は何人来てくれるだろう」と気にしていたものだが、最近はそんな心配をする暇すらない。
「すみません! 例のパニーニ、今日もお願いします!」
「はい。鴨の燻製肉とチーズのパニーニですね。少々お待ちください」
注文を受けた俺が厨房へ目を向けると、ルーシアはすでに鉄板へパンを並べていた。
香ばしい匂いが店内に広がり、焼けたパンの間から溶けたチーズがゆっくりと姿を見せる。
ルーシアが慣れた手つきで鉄板を押さえ、焼き目を確認している姿は、以前よりずっと頼もしく見えた。
「ルーシアさん、パニーニ追加できる?」
「今焼いている。あと三つならすぐ出せる」
「了解」
返事をしながら、俺は店内を見回した。
昼時ということもあって、テーブル席はほとんど埋まっている。
商人らしい男たちが仕事の話をしながらパニーニを頬張り、その隣では職人らしき女性が熱いコーヒーを片手に一息ついている。
以前の黒猫亭とは違う。
昼食を目的に訪れる客が増え、そこでコーヒーを飲み、気に入った客がまた誰かを連れてくる。
小さな変化が、少しずつ次の変化を生み始めていた。
「なあ、兄さん!」
カウンターから声をかけられ、俺は振り向く。
「はい?」
「このパニーニ、めちゃくちゃ美味いな! 俺、同僚に勧められて初めて来たんだけど、噂以上だったよ」
「ありがとうございます」
頭を下げると、その客は嬉しそうに笑った。
「今度はその同僚と一緒にくるよ。コーヒーも美味かったしな」
「ぜひお願いします」
客が再びパニーニを頬張る。
その光景を見ながら、俺の胸にはじんわりとした熱が広がっていった。
日本にいた頃、ネットの記事で読んだマーケティングの知識。
バンドワゴン効果だの、口コミだの、そんな言葉を知っていたところで、それだけでは何も生み出せない。
実際に客が来て、料理を食べて、誰かに勧めてくれる。
その一つひとつを積み重ねて、ようやく「人気」というものが形になっていく。
「カズキ」
「ん?」
厨房からルーシアがこちらを見る。
「少し、外を見てきてくれないか」
「外?」
「うん。さっきから店の前が騒がしい」
言われて扉を開ける。
そして、俺は思わず足を止めた。
「……マジか」
黒猫亭の前に、人が並んでいる。
店内に入りきれない客が数人、外で順番を待っていた。
窓から漏れる明かりと、厨房から漂ってくる焼きたてのパニーニの香りに誘われるように、通りを歩いていた人まで足を止めている。
以前は、客が一人来ただけでルーシアと二人して喜んでいたというのに。
「すごいな……」
思わず笑みがこぼれた。
そのときだった。
「おいおい。随分と繁盛してるじゃねぇか!」
豪快な声が背後から飛んでくる。
振り返るとコレットが笑っていた。
「コレットさん!」
「ガハハ! 繁盛店らしくなってきたな!」
「おかげさまです。ギルドでパニーニを広めてくれたのもコレットさんでしょう?」
「美味いものを美味いと言っただけだ。商人ってのは、得になる情報なら黙っていられねぇからな!」
豪快に笑いながらも、コレットの目は店の行列をしっかりと見ていた。
「だが、こいつは面白くなってきたな」
「面白い?」
「ああ。客が客を呼び始めてる。こうなったら、しばらくは勢いが止まらねぇぞ」
その言葉に、俺は頷いた。
そう、ここまでは、狙い通りだった。
けれど商売が上手くいき始めたときほど、周囲の目も変わってくる。
それを俺は、日本にいた頃にネットの記事で何度も読んでいた。
「……ん?」
ふと、行列の向こうに目を留める。
白い――。
まず目に入ったのは、それだった。
黒猫亭の黒を基調とした外観の前に、まるで別の世界からきたような白いスーツの女性が立っている。
すらりとした長身、無駄のない立ち姿。
胸元まで流れる銀色の髪は丁寧に整えられ、白い衣服と相まって雪のような清潔感を感じさせる。
整った顔立ちには、感情をむやみに表へ出さない冷静さがあった。
けれど、その鋭い瞳はただ冷たいだけではない。
店の外観から客の動き、行列の長さまで、まるで商売の数字を読み取るように静かに観察している。
俺は、なんとなく背筋を伸ばした。
「……あの人、誰だ?」
コレットも女性へ目を向ける。
「ほう」
珍しく、コレットの笑顔が消えた。
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も……あいつは、シュヴァン・テラスの支配人だ」
「シュヴァン・テラス?」
聞き覚えのない名前に首を傾げる。
コレットは腕を組んだ。
「この街じゃ有名な高級カフェだ。昔から貴族や金持ちを相手にしてきた店でな。最近は庶民向けの商品にも力を入れ始めてるらしい」
「……なるほど」
俺はもう一度、白い女性を見る。
彼女はこちらを見ていた。
正確には、黒猫亭そのものを。
敵意があるわけではない。
ただ、何かを確かめるような目だった。
その視線に気づいたのか、女性はほんのわずかに目を細める。
そして、退店していく客を見ると、彼女は静かに店へ向かって歩き始めた。
「……来るぞ」
コレットが呟いた。
俺も店内へ戻る。
扉が開き、ベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
俺が声をかけると、女性は店内を見渡した。
黒を基調とした落ち着いた空間。
木製の家具。
そして、厨房でコーヒーを淹れているルーシア。
女性はそれらを一つずつ確認するように眺めてから、俺へ視線を戻した。
「店主は?」
「中で作業中です」
そう答えると、女性はわずかに目を見開いた。
「……あなたは?」
「この店の店員です」
「へぇ……」
聞いてきた割にはそっけない返事をする。
なぜそんな反応をするのか分からない。
女性は一瞬だけ考えるように黙ったあと、優雅に頭を下げた。
「失礼いたしました。私はアデリナ・フォン・バルツァー。シュヴァン・テラスの支配人をしております」
ルーシアが厨房からこちらを見ると、手を止めてカウンターまで出てくる。
けれど、その瞳は明らかに警戒していた。
アデリナはそんなルーシアへ視線を移す。
「黒猫亭店主のルーシア・エルバートさん」
「……そう、だけど」
「最近、黒猫亭の名前を聞く機会がありましたので参りました」
淡々とした言い方だった。
褒めているようにも、牽制しているようにも聞こえる。
俺は少しだけ身構えた。
「それで、今日は何か?」
「率直に申し上げます」
アデリナは姿勢を正した。
その仕草一つだけで、場の空気が変わった。
「シュヴァン・テラスでは、ここ最近、客足に変化が出ています」
「……!」
ルーシアの動きが止まった。
「黒猫亭が原因だと?」
「原因の一つ、と考えています」
アデリナは否定も肯定もしない。
ただ事実を述べるように続けた。
「特に、こちらのパニーニです。商人や職人の間で評判になっている。実際、本日もこの行列ですから」
アデリナは窓の外へ目を向けた。
「私たちの店にも、黒猫亭の話をするお客様が増えました」
俺は黙って彼女を見る。
敵意をむき出しにして怒鳴り込んできたわけではない。
むしろ、驚くほど冷静だった。
だからこそ、次に何を言うのかが気になった。
「そこで、急な話ではありますが、一つ提案がございます」
「提案?」
「ええ」
アデリナはまっすぐルーシアを見る。
「黒猫亭で提供されている、鴨の燻製肉とチーズのパニーニ。こちらを、シュヴァン・テラスでも提供させていただけませんか?」
「……」
店内が静まり返った。
(ちょっと待て。黒猫亭で生まれた人気商品を、自分たちの店にも取り込みたいということか)
ルーシアはゆっくりと顔を上げる。
俺も思わず彼女を見る。
「悪いけど、その提案には乗れない」
「……ほう?」
「そもそもパニーニという料理は私のオリジナルというわけでもない。好きにしたらいい」
アデリナの口元が、わずかに笑みを浮かべた。
「わかりました。ルーシアさん、やはりあなたは出来る人のようだ」
「そうですか……」
ルーシアは淡々とした態度を突き通す。
「今日は、黒猫亭がなぜこれほど急成長したのか。それを確認しに来ただけです。要件は済みました。では、私はこれで……。お邪魔いたしました」
俺は一抹の不安を抱えつつ、満足そうに去っていくアデリナの背中を眺めていた。
「な……味のチェックはなしかよ」
偵察なら味も見て行けよと思い、つい言葉に出てしまった。
でも、ルーシアの言い返す姿はカッコよかった。
「……なんだったんだ、あの人」
俺が呟くと、コレットが豪快に笑う。
「ガハハ! 面白い女だろ?」
「面白いっていうか……怖いですよ」
「そうか? ありゃ仕事ができる女の目だ。お前らの店を敵として見るだけじゃなく、ちゃんと価値を見に来てやがる」
俺は窓の外を見る。
白いスーツの背中が、人混みの向こうへ消えていく。
その隣では、ルーシアが無言でコーヒー豆を見つめていた。
「ルーシアさん?」
「ごめんね、カズキ。二人で考えた商品を好きにしたらいい、なんて言って」
「そんな、いいんだ、ルーシアさん。それに、類似品があちこちで売られるなんてのは、流行り物の宿命だよ」
「でも……」
ルーシアは先ほどまでの毅然とした態度とは変わって、明らかに落ち込んでしまっている。
“二人で考えたもの”を大事にしてくれているのは正直うれしいわけだが……。
こんなとき、どうしてあげればいいのかわらかない。
そんなことを考えながら出たセリフは――。
「顔が怖いぞ?」
「怖くない」
「怖いよ、ルーシアさん?」
「怖くないって」
そう言いながら、ルーシアは少しだけ頬を膨らませた。
その姿が妙に可愛くて、俺は笑ってしまう。
「……笑うな」
「悪い。でも、ちょっと安心した」
「何が?」
「いつものルーシアさんになったこと」
「なっ……」
「それにさ、シュヴァン・テラスみたいな大きな店に目をつけられるくらい、黒猫亭が成長したってことだろ?」
ルーシアは黙った。
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……そうかもね」
そう。
黒猫亭はもう、誰にも見向きもされない小さなカフェではない。
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