第12話 コーヒーの魅力を売る
昼過ぎ。
ようやく客足が落ち着いた黒猫亭で、俺はカウンターに肘をつきながら、一枚の紙を眺めていた。
そこに書かれているのは、最近の売上と客の注文内容を簡単にまとめたものだ。
「……順調に増えてる」
パニーニを出し始めてから、客数は明らかに増えた。
商人や職人の間で口コミが広がり、昼食を目当てに訪れる客も多くなっている。
以前なら一日の売上を心配していたのに、今では「材料が足りるか」を気にするようになったのだから、大した変化だ。
けれど――。
「カズキ」
向かいで入荷したコーヒー豆を整理していたルーシアが、こちらを見る。
「何か気になることがあるの?」
「うん。ちょっと考えてた」
俺は紙を指先で叩いた。
「パニーニは順調。でも、このままパニーニの人気だけに頼るのはよくないと思う」
「……どうして?」
「黒猫亭はパニーニ専門店じゃないからだ」
俺がそう言うと、ルーシアの表情は柔らかくなる。
「それは、私も思うところではある」
「だよな」
俺は笑った。
「だからこそ、今のうちに考えたい。黒猫亭が本当に売るべきものは何なのか」
その言葉に、ルーシアはしばらく黙っていた。
店内には、さっきまで客がいた名残が残っている。
窓から差し込む午後の日差しが木製のテーブルを照らす。
やがてルーシアが、カウンターの奥へ目を向ける。
そこには、いくつものコーヒー豆の袋が並んでいた。
「……コーヒー」
「え?」
「黒猫亭が売るものなら、コーヒー」
その答えに、俺は思わず笑った。
「やっぱりそうなるよな」
「何かおかしい?」
「いや、俺もそう考えてたからさ」
「ふぅん。まあとにかく、私はコーヒーを淹れるために、この店を続けてる」
その声には、いつものぶっきらぼうさがあった。
きっと彼女にとって、コーヒーを淹れることそのものが、この店のある理由なのだ。
「……なら、決まりだな」
俺は紙を裏返し、新しいページを開いた。
「ここからは、コーヒーをもっと主役にしよう」
「でも、具体的には?」
「まずは、シュヴァン・テラスとの差別化だ。競合店との差別化は絶対に必要」
「うん、差別化」
「幸いなことに、この店の周辺には酒場や食事処はあってもカフェはない。なら気を付けるべきはシュヴァン・テラスのみ」
先日、店を訪れたアデリナの姿が頭に浮かぶ。
白を基調とした上品なスーツ。
整えられた銀色の長い髪。
立っているだけで周囲の空気まで引き締めるような、あの女性。
シュヴァン・テラスが持っているのは、ああいう洗練された雰囲気だ。
「聞いた話によるとシュヴァン・テラスは、高級感や格式を前面に出してる」
「……そうね」
「平民向けのメニューも置いてるって話だけど、メインの客層は貴族や上流商人が中心だろ? あの店の強みは『高級感』や『洗練された料理』だけど、逆に弱点もある」
「……それは?」
「コーヒーを主役にしていないこと!」
俺は胸を張って説明する。
「シュヴァン・テラスは紅茶やワインが中心のお店。コーヒーも出してるけど、貴族向けの味付けで、格式ばった雰囲気があるから、コーヒー本来の魅力を楽しむっていうより、ただの贅沢品になってる」
ルーシアは少し考え込むように腕を組んだ。
「……確かに、それはこの店との差別化になる」
「でしょ?」
「だったら、俺たちは同じ土俵に立たなくていい。コーヒーが主役の店にする」
俺はカウンターに並ぶ豆を指差した。
「そして、黒猫亭にはルーシアさんのコーヒーがある」
「……私のコーヒー」
「そう。これが一番の武器だ」
ルーシアが少し驚いたように目を瞬かせる。
「私のコーヒーは、そこまで特別なものじゃない」
「いや、特別だよ」
思ったことを、そのまま口にした。
「少なくとも、俺はそう思ってる」
「……」
ルーシアが黙る。
なぜか耳が少し赤くなっている。
「ルーシアさん?」
「……急にそういうことを言うな」
「え?」
「……何でもない」
そう言って、彼女は顔を背けた。
その横顔を見ていると、俺まで妙に落ち着かなくなる。
最近、こういう瞬間が増えた気がする。
ただ褒めただけなのに。
ルーシアの反応を見ると、どうしてか胸の奥が少しだけ熱くなるのだ。
「それで、どうやってコーヒーを主役にする?」
ルーシアが話を戻す。
俺も頭を切り替えた。
「まず思いつくのは、飲み比べセットだな」
「飲み比べ?」
「この店で扱っている品種、エルダ、ベルウェル、フローレ。それぞれを小さめのカップで出して、味の違いを楽しんでもらう」
俺は三種類の豆を順番に見る。
「深煎りのエルダ、香ばしさのあるベルウェル、華やかな香りを楽しめるフローレ。同じコーヒーでも、豆が違えば味も香りも全然違うだろ?」
「そうね」
ルーシアが豆の袋を手に取る。
「それぞれのコーヒーの違いをお客さん自身に比べてもらうんだ。それで、自分の好きな味を見つけてもらう」
「なるほど。それならコーヒーに詳しくない人でも楽しめる」
ルーシアは三つの豆を見比べながら、少し考える。
「面白い」
「だろ? 気に入ったものがあればリピートもされる。それに、やろうと思えば明日にでも始められる」
「いいね。ただ、私は説明が上手くない」
「なら俺が説明するよ」
「あなたが?」
「もちろん」
胸を張ったものの、すぐに苦笑する。
「……まあ、俺は専門家じゃないから教えてもらわないといけないけどな」
「ふふ、そうね」
ルーシアの口元に、小さな笑みが残っている。
それを見ていると、不思議とこちらまで嬉しくなった。
「もう一つ考えてる」
俺は新しい紙に書き始める。
「コーヒーとお菓子のセットメニューだ」
「セットメニュー?」
「うん。例えば、エルダにはチョコビスコッティが合うし、ナッツの香りが強いベルウェルにはバター強めのスコーンとか?」
「うんうん」
「まあ、正直どういう組み合わせがいいかは俺には分からないから、そこはルーシアさんに任せる」
これは“お客様満足度”を上げる戦略としては間違っていないはず。
客単価も上がるし、ルーシアさんのコーヒーの評価も上げられる。
「……なるほど。コーヒーの味を引き立てる組み合わせを推奨するわけね」
「そう! 『このコーヒーには、このお菓子がおすすめ!』ってセットで売り出せば、お客さんも迷わず注文できるし、より楽しめる。もちろん組み合わせは好みで変えてもらってもいい」
ルーシアは少し考えてから、棚に置かれたビスコッティへ目を向けた。
「いろいろ考えてくれてありがとう、カズキ」
「俺が売り方を考えて、ルーシアさんが味を考える。それで黒猫亭をもっと良くしていく。そういう経営方針だろ?」
「……そうだったね」
小さな声だった。
けれど、その表情は穏やかだった。
ふと、昨日のアデリナの顔が頭をよぎる。
あの人もまた、店を守るために働いているのだろう。
シュヴァン・テラスにはシュヴァン・テラスのやり方がある。
だったら、俺たちは俺たちのやり方でいい。
貴族向けの高級感で競う必要も、真似する必要もない。
黒猫亭には、黒猫亭にしかないものがある。
「……よし」
俺は紙の一番上に大きく書いた。
『黒猫亭のコーヒーを、もっと知ってもらう』
「これでいこう」
ルーシアが文字を覗き込む。
「……ずいぶん普通ね」
「いいんだよ。大事なのは、何をするかだから」
「わかった。それならまず飲み比べ用に豆の発注する量から考えておく」
「頼む」
ルーシアは棚の前へ戻り、豆の袋を一つずつ手に取っていく。
その横顔には、仕事をしているときだけ見せる真剣さがあった。
俺はそんな彼女を眺めながら、ふと思う。
黒猫亭を立て直したい。
それは最初から変わっていない。
でも今は、それだけじゃない。
この人が大切にしているものを、もっと多くの人に知ってもらいたい。
そんな気持ちが、いつの間にか俺の中にも芽生えていた。
「カズキ」
「ん?」
「……ありがとう。あなたが来てから、店が変わった」
「……」
「だから、ありがとう」
夕方の光が窓から差し込み、彼女の黒髪を柔らかく縁取っている。
俺は何か返そうとして――結局、照れ隠しのように笑った。
「じゃあ、これからも頑張らないとな」
「……うん」
ルーシアも、少しだけ笑った。
黒猫亭の次の改革は、こうして始まった。
パニーニで注目を集めたこの店が、次に売り出すもの。
それは、料理でも流行でもない。
ルーシアが誰よりも大切にしてきた、黒猫亭のコーヒーそのものだった。
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