第13話 セットメニューは“3択の原則”
ある日の午後のこと、黒猫亭には昼の喧騒が嘘のような静けさが戻っていた。
カウンター内には洗い終わったカップやお皿がいくつか並び、その向こうではルーシアがコーヒー豆の残量を確認していた。
「……よし」
俺は手元の紙に視線を落とした。
そこには、考えていた新しいメニューの案が書かれている。
「ルーシアさん」
「なにかな?」
「そろそろ、チョコビスコッティの販売を終わりにしよう」
ルーシアの手が止まった。
「……ビスコッティを?」
「ああ」
黒猫亭の人気を押し上げてくれた、最初の新メニュー。
ナッツとチョコレートの香りがコーヒーによく合い、コレットが商人ギルドで広めてくれたことで、多くの客がこの店を知るきっかけにもなった。
だからこそ、ルーシアが少し寂しそうな顔をしたのが分かった。
「……人気なのに?」
「人気だからこそ、期間限定の商品として綺麗に終わらせたいんだ」
「でも、まだ注文するお客さんはいる」
「うん。だから急に消すんじゃなくて、『期間限定販売終了』ってちゃんと知らせる。むしろ今日のうちに書いておく。それなら最後にもう一度食べたいって人も来てくれると思う」
ルーシアはビスコッティが入った保存容器を見る。
「……そういうものなのね」
「そうなんだけど、もう一つ理由がある」
俺は厨房へ視線を向けた。
「ルーシアさんの負担だよ」
「私の?」
「パニーニも増えたし、コーヒーの注文も増えてる。そのうえ、セットメニューの追加も予定してる」
「……別に、大したことではない」
「大したことあるよ」
思わず少し強い口調になった。
ルーシアが驚いたように俺を見る。
「俺がここに来たばかりの頃、黒猫亭には客が一人しか来ない日だってあっただろ?」
「うん」
「今は違う。客が増えて、パニーニも焼いて、コーヒーも淹れて、そのうえ新しいスイーツまで作り続けたら……そのうちルーシアさんが倒れる」
「……」
「店を繁盛させるために、店主が無理をするんじゃ本末転倒だよ」
ルーシアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……あなたは、そういうところだけ妙に細かい」
「どういう意味だよ」
「いつも勢いで動いているくせに、変にこだわりがある」
「それは……」
言葉に詰まった。
ルーシアはそんな俺を見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
「でも、分かった。ビスコッティは予定通り、期間限定で終わらせよう」
「おう」
「ただし、最後まで手を抜くつもりはない」
そう言って、ルーシアは保存容器を手に取った。
「これを食べて黒猫亭を知ってくれたお客さんもいる。なら、最後まで美味しく食べてもらう。それが作った私の責任」
その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。
ルーシアは不器用だ。
商売のことはからっきし。
それでも、自分が作るものについてだけは絶対に妥協しない。
それが、彼女の強さなのだと思う。
「よし、じゃあ、新メニューの話をしよう! 前に話した、コーヒーを主役にするためのスイーツセットだ」
「うん」
俺はテーブルの上に紙を広げた。
彼女は椅子を引き、俺の向かいに座る。
普段、厨房に立っているときとは違う。
黒髪を耳へかけながら、真剣な顔で豆の袋を一つずつ手に取っていく。
「相談したあの日からいくつか案は考えてた。まず、エルダの深煎りなら……」
ルーシアは少し考えた。
「苦味とコクが強いから、甘さのあるものが合う。ただ、甘すぎるとコーヒーの味が負ける」
「なるほど」
「チョコレートは相性がいい。だからビターショコラタルトを試してみたい」
「ビスコッティとは違う方向だな」
「うん。ビスコッティよりも濃厚にして、エルダの苦味を受け止められるものにする」
ルーシアの目が少し輝いた。
こういうときの彼女は、本当に楽しそうだ。
「次はベルウェル」
ルーシアは別の豆を手に取る。
「これはコクがありながら、エルダほど重くない。ナッツのような香ばしさもあるから……」
「ナッツ系で合わせるとか?」
「そうだなぁ。キャラメルの甘さとも合うと思う」
ルーシアはしばらく考えたあと、紙へさらさらと書き込んだ。
「キャラメルナッツフィナンシェ」
「名前でもう、美味そうだ」
「あなた、食べることしか考えてないでしょ」
「う、それも大事な仕事だろ?」
ルーシアが小さく笑う。
その笑顔に見惚れて、俺は一瞬言葉を失った。
普段は無愛想なくせに、こうやって不意に笑うから困る。
「……何?」
「いや、何でもない」
俺が慌てて視線を逸らすと、ルーシアは少し不思議そうに首を傾げた。
「最後はフローレ」
彼女は三つ目の豆を手に取る。
「これは香りが軽やかで、柑橘系の印象がある。重いお菓子より、香りを楽しめるものがいい」
「フルーツ系?」
「そう。オレンジとハチミツのシフォンケーキなら、コーヒーの香りを邪魔しないと思う」
「なるほど」
俺は三つの案を紙に並べた。
・エルダの深煎り――ビターショコラタルト
・ベルウェルのミディアムロースト――キャラメルナッツフィナンシェ
・フローレのアロマコーヒー――オレンジとハチミツのシフォンケーキ
「うん、いいね」
「試してみるまでわからない」
「おう、分かってるって」
ルーシアは呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情はどこか楽しそうだった。
◇
それから数日間、二人で試作を重ねた。
タルトの甘さを少し調整し、フィナンシェの焼き加減を変え、シフォンはオレンジピールの量を変えて試していく。
厨房に甘い香りが漂い、そこにルーシアが淹れるコーヒーの香ばしい匂いが重なった。
「……これならいい」
最後に三つのスイーツを並べたルーシアが、小さく頷く。
俺もそれぞれをコーヒーと一緒に口へ運んだ。
エルダの苦味には濃厚なチョコレート。
ベルウェルにはキャラメルとナッツの香ばしさ。
そしてフローレには、オレンジとハチミツの優しい甘さ。
どれも単体で食べるより、コーヒーと合わせたときに味が完成する。
「……すごいな」
「何が?」
「ルーシアさんが選んだ組み合わせ、全部ちゃんと違う」
「まあ、これくらいは出来る」
そう言いながらも、ルーシアは少し嬉しそうだった。
俺はその横顔を見ながら、紙に書かれた三つのセットを指差す。
「じゃあ、これを三つのセットとして出そう」
「そういえば、どうして三つなの?」
「ああ。選択肢が多すぎると、お客さんは逆に選びづらくなるんだ」
俺は日本で読んだネット記事の記憶を掘り起こす。
「選択肢が少ないと苦手なものがあったとき注文されない。でも選択肢が多いと迷いやすい。だから、まずは三つくらいに絞って、『この中から選んでください』にする」
「……なるほど」
ルーシアはふむふむと納得した。
「……私一人だったら、こんなふうに新しいことを考える余裕なんてなかったと思う」
「ルーシアさん……」
「だから」
彼女は少しだけ顔を上げる。
「私に無理をするなと言うなら、あなたも無理をしないで」
「……分かった」
「約束」
「ああ」
小指でも絡めるような雰囲気になって、俺は一瞬戸惑った。
けれどルーシアは何もせず、ただ真っ直ぐこちらを見ている。
その距離が妙に近く感じられて、俺は誤魔化すように立ち上がった。
「よし! じゃあメニューを書き換えよう!」
「……急に元気になる」
「照れ隠しだよ」
「そう……照れ隠し……」
ルーシアが小さく笑う。
俺は店の入口にある黒板を持ち込む。
新しいメニューを書き終え、扉の横へ立てかける。
そこには大きく、こう書いた。
『新メニュー 黒猫亭特製 コーヒー&スイーツセット』
その下には三つの組み合わせ。
『エルダの深煎り × ビターショコラタルト
ベルヴェルのミディアムロースト × キャラメルナッツフィナンシェ
フローレのアロマコーヒー × オレンジとハチミツのシフォンケーキ』
さらに、その横には小さく――。
『チョコビスコッティは期間限定販売のため終了いたしました』
と添えた。
「これでよし」
店内へ戻ると、ルーシアがカウンターの向こうからこちらを眺めている。
「……いい新メニューになると思う」
「だろ?」
「これなら、もっと多くの人に私のコーヒーを知ってもらえそう」
その笑顔を見て、俺も自然と笑っていた。
黒猫亭は、少しずつ変わっている。
でも、その中心にあるものだけは変わらない。
ルーシアのコーヒー。
それを一番美味しく楽しんでもらうために、俺たちはまた一つ、新しい武器を手に入れたのだった。
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