第5話 バンドワゴン効果でたくさん巻き込もう
翌朝。
窓から差し込む朝日が、見慣れない木の天井をゆっくりと照らしていた。
俺はしばらくぼんやりと天井を眺めていたが、やがて昨日の出来事を思い出し、ゆっくりと身体を起こす。
(……そうか。ここが俺の部屋なんだ)
異世界に来て二日目。
金もなければ、この世界では仕事の経験もない。
日本へ帰れるかどうかだって分からない。
でも、寝る場所がある。
不思議と不安はなかった。
むしろ、胸の奥には昨日まで感じたことのない高揚感があった。
(今日から、本当に始まるんだ)
黒猫亭を立て直す。
俺の知識がこの世界でどこまで通用するのかは分からない。
それでも、やれることはあるはずだ。
そう思うと自然に身体へ力が入った。
「よし……!」
ベッドから立ち上がった、そのときだった。
階下から、カップが触れ合う小さな音が聞こえてきた。
続いて、コーヒーの香ばしい匂いが、階段を伝うように部屋まで上がってくる。
(もう準備してるのか)
俺は急いで階段を下りた。
「おはよう、ルーシアさん!」
「……おはよう、朝から元気ね」
店内に入ると、ルーシアはカウンターの向こうに立っていた。
ポットからお湯を細くコーヒー豆に注ぐたび、深い香りが店いっぱいに広がっていく。
朝の光を受けた黒髪が背中で揺れ、その横顔は昨日より少しだけ穏やかに見えた。
「昨日はちゃんと眠れた?」
「ああ。おかげさまでぐっすり」
「そう」
ルーシアはそれだけ答えると、何気なく俺へ視線を向けた。
そして、ぴたりと動きを止める。
「……どうした?」
「……あなた、その格好」
「え?」
視線を下ろして、自分の服を見る。
そこでようやく気づいた。
インナーのシャツにパンツだけ着用している。
服(帰宅時に来ていたスーツ)のまま寝ると、シワになって困るし、着替えがあるわけでもないんだから仕方がない。
「…………」
「…………」
ルーシアの眼が、俺の格好から顔へと戻ってくる。
そして、ほんのり頬を赤くした。
「……部屋に戻って」
「え?」
「いいから!」
「はい!」
俺は慌てて階段を駆け上がった。
部屋へ戻ってから、自分の姿を改めて確認する。
「……そりゃ怒るよな」
さすがにこれは恥ずかしい。
着替えて一階へ戻ると、ルーシアは何事もなかったかのようにカウンターでコーヒーを淹れていた。
「……悪かった」
「別に」
「寝ぼけてたんだ」
「分かってる。そんなことより、着替えを買わないといけないね」
「その、お金を、貸してもらえると助かります……」
俺が情けなーく言うと、ルーシアは少しだけ口元を緩めた。
「お給料の先払いをしてあげる」
「……え?」
「一文無しなんでしょ?」
「おぉ、ルーシア店長ぉ」
「ふふっ」
住み込み食事付きで給料の先払いまでしてくれるなんて店長さまさまだ。
それに、朝からこんなふうに笑うルーシアを見られたことが、少し嬉しい。
「ほら」
ルーシアがカウンターを指差す。
そこには、湯気の立つコーヒーとパンとスープが用意されていた。
「朝ご飯?」
「昨日の残りだけど。食べるでしょう?」
「もちろん!」
椅子に座り、まずコーヒーへ口をつける。
深い香りが広がったあと、すっきりとした後味が残る。
「……やっぱり美味いな」
「朝から大げさね」
「何回飲んでも美味しいものは美味しい」
俺が素直にそう言うと、ルーシアはカップを拭きながら、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「……そう」
その表情を見ていると、昨日よりも彼女との距離が近くなったような気がする。
なんて思いながら、パンをかじる。
外はカリッとして、中はふんわり。
バターの香りが口いっぱいに広がった。
「ねぇ、ルーシアさん。このパン、すごく美味しいんだけど」
「朝、私が焼いてるからね」
「えぇ! すごっ! これ、普通に売れるって!」
俺はパンを持ったまま、ルーシアを見る。
「軽食。まずはモーニングメニューで!」
ルーシアは少し考えてから、首を横に振った。
「昔、一度出したことがあるわ」
「そうなのか?」
「ええ。でも、あまり売れなかった」
「どうして?」
「コーヒーを飲みに来る客ばかりだったから。料理を注文する人が少なくて、手間のほうが大きかった。だから今パンを作ってるのは趣味ね」
「なるほど……」
俺はパンを眺めながら考える。
それなら、単純に「パンとスープを売ればいい」という話ではない。
必要なのは、客が注文したくなる理由だ。
昨日、俺たちは黒猫亭のターゲットを決めた。
働いている人が仕事の合間に立ち寄り、美味しいコーヒーを飲みながら一息つける店。
なら、その人たちが「ここへ来る理由」を作らなければならない。
「ルーシアさん、バンドワゴン効果を使えば、話題になると思う!」
「……また聞いたことのない言葉が出てきた」
「簡単に言うと、『みんなが食べてるから、自分も食べたい!』って心理を利用すること」
「……ふむ」
バンドワゴン効果は、他の大勢の人が支持している物を、自分も支持しようと思う心理効果。
ルイスは考え込むように顎に手を当てた。
「つまり、話題になるメニューを作れば、それを目当てに客が増えるということ?」
「その通り」
俺はワクワクしながら続けた。
「だから、見た目も味も良くて、一度食べたら誰かに自慢したくなるメニューを作ろう!」
「……なるほど」
ルーシアは腕を組み、真剣な顔で考え始めた。
「で、人気のある商品の案はあるの?」
「そこが問題なんだよな」
「……あなた、勢いだけで話してない?」
「うっ」
痛いところを突かれた。
ルーシアは呆れたように息を吐く。
「昨日から思ってたけど、あなたって結構行き当たりばったりよね」
「……否定できない」
「経営を立て直すって言ったのに」
「それは、これから考えるんだよ」
「本当に大丈夫?」
黄色の瞳が、少しだけ不安そうに揺れた。
その表情を見た瞬間、俺は笑ってしまった。
「大丈夫。うまくやって見せる。このお店のためにも」
「……うん」
「それに、俺一人で全部決めるつもりもないよ」
「え?」
「この店のことを一番知ってるのはルーシアさんだからな。俺は売り方を考える。ルーシアさんは味を決める。二人で試して、駄目ならまた考えればいい」
ルーシアはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ頬を緩める。
「……それなら、悪くない」
「だろ?」
「でも、人気商品っていうなら、まず何を作るの?」
「それを今から一緒に考えるんだって」
俺が笑うと、ルーシアも呆れたように笑った。
その笑顔を見ていると、昨日まで一人だった黒猫亭に、少しずつ新しい空気が入り始めているような気がした。
そして俺は、改めて店内を見回す。
昨日、掃除をして、照明の位置を変えた。
店は少し明るくなったけど、それはまだ準備に過ぎない。
今日からが本当の改革だ。
「よし」
俺は椅子から立ち上がった。
「まずは、ルーシアさんが作れる料理を教えてくれ」
「全部?」
「パンもスープも、他に作れるものがあるなら全部」
「……朝から随分働くのね」
「昨日は何も分からなかったからな。でも、今日は違う」
俺はカウンターの向こうに立つルーシアを見た。
「今日から、この店をちゃんと作っていこう」
ルーシアは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、静かに頷く。
「……分かった」
その返事を聞いた瞬間、俺は妙に嬉しくなった。
まだ客はいない。
売れる商品も決まっていない。
黒猫亭が本当に立て直せるのかだって分からない。
それでも今日から俺たちは、同じ目標に向かって動き始める。
「でも、その前にあなたの服を買いに行きましょ」
「あ、ああ、そうだった」
「仕事着もほしいし」
「仕事着……そうだよな、俺も黒猫亭の店員になるんだ」
こうして、異世界生活二日目。
俺とルーシアによる黒猫亭の経営改革が、本格的に始まった。
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