第27話 貴族も庶民も関係なく
朝の黒猫亭は、今日もコーヒーの香りに包まれていた。
客数は戻ってきたものの、まだ空席は残っていた。
変わらず来てくれる常連さんたちありがとう、という気持ちだ。
それにしても、悪い噂というのは、本当に厄介だ。
頭の中に、昔ネットで読んだマーケティングの記事が浮かぶ。
グッドマンの第1だったか第2の法則。
正確には覚えていないが、たぶん第2法則でいい。
クレーム対応に不満を抱いた顧客のネガティブな口コミは、ポジティブな口コミより2倍広まりやすい――そんな内容だったはずだ。
そもそも俺が日本で読んでいたのは、専門書というよりネットの記事が中心だった。
こういうときになると、自分の知識がいかに曖昧なものなのか思い知らされる。
「……カズキ、また難しい顔してる」
カウンターの向こうからルーシアが声をかけてきた。
「いや、ちょっと昔読んだ記事を思い出してた」
「そう」
ルーシアはそれ以上聞かなかった。
代わりに、淹れたばかりのコーヒーを俺の前へ置く。
「飲む?」
「……ありがとう、いただくよ」
「休憩くらいしたら?」
「……そうだな」
カップを手に取る。
温かい香りが鼻をくすぐった。
こういう何気ない気遣いが嬉しい。
俺が一口飲んでいると――。
「カズキさん! ルーシアさん!」
勢いよく扉が開いた。
「大変よ!」
飛び込んできたのはリリアだった。
ピンク色の巻き毛を揺らしながら駆け込んできた彼女は、いつものお嬢様らしい優雅さなどどこへやら、カウンターに両手をついて息を整える。
「どうしたんだ、朝から」
「どうしたもこうしたもないわ!」
リリアは顔を上げた。
「マルグレーテ商会にも、黒猫亭の悪い噂が入ってきてるの。最初のうちは、流行りの店に悪口は付き物だからと気にしてなかったわ。でも、ずっと『コーヒーが粗悪品だ』とか、『変なものが入っている』とか……もう、好き放題言われてる!」
「……やっぱり、まだ続いてるか」
俺が呟くと、ルーシアの眉もわずかに寄った。
だが、リリアはそこで引かなかった。
「でも、黙っているつもりはないでしょう?」
「ああ。もう反撃は始めてる」
俺は、噂の発端やヴィクトルに協力を頼んだことを説明した。
リリアは腕を組みながら聞いていたが、話を聞き終えると、ふむ、と顎に手を添えた。
「なるほどね。ヴィクトル様の名前を使って黒猫亭のコーヒーが本物だと示す。それに、貴族が黒猫亭を嫌がっているという事実そのものを利用して、庶民の興味を引く……。すばらしい戦略だわ」
リリアはにっこり笑った。
「でも、もっとできることがあると思う」
「え?」
「黒猫亭の価値そのものを、もっと大きく見せるべきよ」
「価値……?」
「ほら、ルーシアさんも私の考えを聞きなさいな」
「う、うん……」
ルーシアも作業をしながらリリアの言葉に耳を傾ける。
「貴族が黒猫亭の評判を落とそうとしているのは、黒猫亭が単なる“庶民向けの店”ではなくなってきているからよ」
確かに黒猫亭は庶民も貴族も関係なくお客さんとしてお迎えしてるけど、彼女の言うことはそういうことではないらしい。
「つまり、黒猫亭が“文化”になり始めているってこと」
「えっ、文化?」
「『貴族と庶民の差が縮まる』そんな文化。貴族連中はそれが気に入らないんだろうけど、私はそれでいいと思っているわ!」
リリアは親指を立てて、力強く頷く。
私は目を輝かせた。
「おいしいものは貴族だろうと庶民だろうと、関係なくみんなが食べてもいい! そんな場所ができたこと自体に価値があるのよ」
俺は思わずルーシアを見る。
彼女は黙ってコーヒーを淹れていた。
けれど、その横顔には、どこか嬉しそうな色が浮かんでいる。
「美味しいものに身分なんて関係ないでしょう?」
「……そうだな」
俺も頷いた。
「私も、その考えには賛成」
ルーシアがこちらを見る。
「よーし。だったら、私も黒猫亭に協力する」
リリアが勢いよく胸を張った。
「黒猫亭にいい風を吹かせてみてるわ。お高く留まった貴族連中め、マルグレーテ商会の力を舐めないことね!」
リリアの“食”に対する意識は誰よりも強かった。
「頼りにしてるよ、リリア」
「任せて!」
こうしてコレット、ヴィクトル、リリアの力を借りてマーケティング戦略を展開しつつ、お店ではおいしいコーヒーの提供を続けた。
◇
それから数日。
黒猫亭には、少しずつ以前の活気が戻ってきた。
「ベルウェルのミディアムローストを一つ」
「はい、ありがとうございます」
俺が注文を受け、ルーシアが豆を挽く。
店内では商人たちが話に花を咲かせ、窓際ではご婦人たちがスイーツを味わっていた。
少し前まで、悪い噂を恐れて足を遠ざけていた客も戻ってきている。
「カズキ。今日は、忙しいね」
「ああ」
ルーシアが嬉しそうに店内を見渡す。
その表情を見ていると、俺まで嬉しくなった。
「でも、油断はできない」
「分かってる」
「また何か仕掛けてくる可能性はあるからな」
「そのときは――」
ルーシアが俺を見る。
「また二人で考えればいいでしょう?」
「……そうだな」
俺は笑った。
そのとき、カラン、と扉のベルが鳴る。
俺は振り返った。
「いらっしゃいませ」
店に入ってきたのは、一人の上品な老紳士だった。
深い紺色の上質なコートに身を包み、銀のエングレービングが施された杖を手にしている。
白髪の混じった髪は整えられ、年齢を感じさせながらも、その背筋は驚くほど真っ直ぐだった。
入ってきた人物を見て、俺は思わず姿勢を正した。
ただの老紳士ではない。
身に纏っている空気そのものが、俺たちとは違った。
ルーシアも、その人物を見てわずかに表情を変える。
「……カズキ」
「ああ」
俺たちは互いに目を合わせた。
男がゆっくりと店内を見渡す。
気品ある装いの客もいる。
商人もいる。
職人もいる。
けれど、誰も身分を気にする様子はない。
老紳士はその光景をしばらく眺めたあと、静かにカウンター席に着いた。
「ここが、黒猫亭か」
「はい、いらっしゃいませ、黒猫亭へ」
ルーシアが答える。
「ご注文は何になさいますか?」
「そうだな……」
老紳士は穏やかに微笑んだ。
「この店で、一番自信のある一杯をいただこう」
「かしこまりました」
ルーシアが豆を選ぶ。
その手つきには迷いがない。
豆を挽き、湯を回しながら注ぎ、ゆっくりとドリップしていく。
細い湯がコーヒーの粉に触れるたび、香ばしい香りが店内に広がっていった。
老紳士は、その一連の動作を黙って見つめている。
やがて、ルーシアがカップを差し出した。
「お待たせしました、エルダの深煎りです」
「ありがとう」
老紳士はカップを手に取った。
まず香りを確かめる。
そして、一口。
静かな時間が流れた。
俺も、なぜか息を止めていた。
やがて老紳士は、ゆっくりとカップを置く。
「……美味い」
その一言に、ルーシアの肩からわずかに力が抜けた。
「ありがとうございます」
「これは確かに、噂になるわけだ」
「……噂、ですか?」
俺が尋ねる。
老紳士は俺を見ると、少しだけ目を細めた。
「ヴィクトルから聞いていてな」
「ヴィクトルさんから?」
「ああ」
老紳士は穏やかに笑った。
「彼が随分と熱心に話すのだよ。この店のコーヒーは本物だ、最高だ、と」
なるほど。
ヴィクトルは俺たちに協力するという約束を果たしてくれていた。
「しかし、ヴィクトルさんとお知り合いというとあなたは……」
「そういえば名乗っていなかったね。私はアレクシス・フォン・クラウス。ヴィクトルとは懇意にしておるよ」
すると、ルーシアが小さく息を呑んだ。
「……アレクシス・フォン・クラウス様!?」
「えっ……!?」
ポカンとしている俺にルーシアが耳打ちしてくれる。
「アレクシス・フォン・クラウス様。この国の大貴族で、王家にも影響力を持つ方」
「えぇっ。そんな人が、黒猫亭に興味を持って来てくれたの!?」
俺は驚いた。
それを尻目にアレクシスは話を続ける。
「うむ。だから一度、自分の舌で確かめてみようと思ってな」
そして老紳士は、ルーシアへ視線を向けた。
「君が店主か」
「はい。ルーシア・エルバートです」
「……なるほど」
アレクシス様は、もう一口コーヒーを飲んだ。
「シュヴァン・テラスで働いていたという話も聞いている」
「はい」
「そこで貴族相手にコーヒーを淹れていた君が、今はこの店をやっている」
「そうです」
「理由を聞いても?」
ルーシアは少しだけ考えた。
そして、静かに答える。
「より多くの人にコーヒーで安らぎを提供したいからです」
その横顔は、いつもより少しだけ誇らしげだった。
「貴族か庶民かは関係ありません。美味しいコーヒーを飲みたいと思う人なら、誰でも歓迎したいんです」
アレクシスは黙って彼女を見つめていた。
やがて、その口元に小さな笑みが浮かぶ。
「……良い心掛けだ」
俺は思わずルーシアを見る。
彼女も、少し驚いたように目を瞬かせていた。
「長く貴族社会に身を置いていると、身分というものを意識する機会が多くなる。だが――」
アレクシス様は店内を見渡した。
「こうして一杯のコーヒーを前にすると、誰もがただの客になる」
静かな声だった。
「それは、なかなか悪くないものだ」
そして杖を手に取る。
「私は、この店を気に入った」
その瞬間、アレクシス様の表情から笑みが消えた。
「だからこそ言っておこう」
杖の先が、床を小さく叩く。
コン、と乾いた音が響いた。
「この店に手を出す者がいるのなら、私が許さぬ」
「……!」
俺は息を呑んだ。
ルーシアも目を見開いている。
アレクシス・フォン・クラウス。
この国の大貴族。
王家にも影響力を持つ人物。
そんな人が、黒猫亭を支持すると言っている。
「アレクシス様……本当に、よろしいのですか?」
俺が尋ねる。
「何を言う」
アレクシス様は穏やかに笑った。
「私はただ、美味いコーヒーを美味いと言っているだけだ」
それから、ルーシアを見る。
「それに、この店は貴族のためだけの店ではないのだろう?」
「はい」
「ならば、私も一人の客として扱ってくれればいい」
「か、かしこまりました」
ルーシアが微笑む。
「さてと、そろそろ行くとするか。次に来たときは別の豆と、お菓子もを試してみるとしよう」
「はい、お待ちしております」
老紳士は満足そうな顔をして店を出ていった。
扉のベルが、カラン、と鳴る。
「ありがとうございました」
しばらく俺たちは、その背中を見送っていた。
「……カズキ」
「ん?」
「ヴィクトルさんが、あの方に話してくれたのね」
「ああ」
俺は頷いた。
「ヴィクトルさんは、ちゃんと黒猫亭を守るために動いてくれてたんだ」
思えば、あの人は最初からそうだった。
黒猫亭のコーヒーを気に入って、何度も飲みに来てくれていた。
俺たちのことを面白がりながらも、必要なときには手を貸してくれた。
そして今、その一人のファンが、さらに大きな人へ黒猫亭を繋いでくれた。
「……すごいな」
俺はルーシアを見る。
「黒猫亭は、ここまで来た」
ルーシアは少しだけ目を伏せた。
「……うん」
その表情を見て、俺は思った。
この店を守りたいという最初の頃とは少し違う。
経営を立て直したいからでも、異世界で生きていく場所が欲しいからでもない。
ルーシアが大切にしているこの店を、俺も大切にしたい。
「ルーシアさん、これからも頑張ろう」
彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「……もちろん」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。
黒猫亭を守るために始めた戦いは、ようやく一つの区切りを迎えた。
けれど、俺たちの店づくりは、まだ終わらない。
貴族も庶民も関係なく、美味しいコーヒーを飲みたいと思った人が、誰でも笑顔になれる場所。
俺たちはこれからも、そんな黒猫亭を作っていく。
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