第26話 ヴィクトル・アインストの決断
作戦会議から数日後。
カズキとコレットはすでに動き出しているけど、今日は私の出番。
店の外では、黒猫亭を悪く言う噂が少しずつ広がっている。
こちらが何もしなければ、この店がこれまで積み上げてきたものまで壊されてしまうかもしれない。
そんな状況を打開するため、カズキが考えた作戦。
そのひとつが、ヴィクトル・アインストへの協力要請だった。
「本当に大丈夫か?」
カズキは黙って私を見つめていた。
その視線を受けていると、なぜか胸の奥が落ち着かなくなる。
「ヴィクトルさんに『黒猫亭のコーヒーは本物だ』と言ってもらいたいなら、実際にコーヒーを淹れている私が話したほうが説得力があるでしょう」
少しだけ胸を張る。
コーヒーだけは、誰にも負けたくない。
黒猫亭を守るためにカズキが頭を使ってくれているのなら、私は私にできることをする。
「……そうだな」
やがてカズキは、小さく笑った。
でもすぐに真剣な目に戻る。
「ただ、気をつけてくれよ」
「うん?」
「ヴィクトルさんは悪い人じゃないと思う。でも、貴族社会のことは俺たち庶民には分からない部分もある。もし何か嫌なことを言われたら、無理に一人で抱え込まなくていいから」
思いがけない言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
「……心配してくれてるの?」
「当たり前だろ」
あまりにも自然に返されて、今度は私のほうが言葉に詰まる。
カズキはそんな私の反応に気づいていないのか、真剣な顔のまま続けた。
「俺は黒猫亭を守りたい。でも、それと同じくらい、ルーシアさんにも無茶してほしくない」
「……」
心臓が、どくんと大きく鳴った。
そんなことを真っ直ぐ言われたら、どう返せばいいのか分からない。
「……分かった」
ようやくそれだけ答えると、カズキは安心したように笑った。
「じゃあ、頼む」
「任せて」
私はそう答え、黒猫亭の扉を開けた。
冷たい朝の風が頬を撫でる。
その背中に、カズキの声が届いた。
「ルーシアさん」
振り返る。
「いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
今度は、自然に笑うことができた。
この人が待っていてくれる。
それだけで、不思議と足取りが軽くなった。
◇
アインスト侯爵家の邸宅は、街を見下ろす高台に建っていた。
白い石造りの門を抜けると、整えられた庭園の中央で噴水が静かに水を噴き上げている。
朝の光を受けた水滴がきらめき、黒猫亭の古びた木の扉とはまるで別世界だった。
私は一度だけ足を止める。
シュヴァン・テラスで働いていた頃にも、何度か貴族の屋敷を訪れたことがある。
だから、こういう場所に慣れていないわけではない。
けれど、今日は少し違う。
私はシュヴァン・テラスの従業員として来たのではない。
黒猫亭の店主として、ここに立っている。
「ルーシア・エルバート様ですね」
出迎えた執事に名を呼ばれ、私は背筋を伸ばした。
「はい。ヴィクトル様との面会をお願いしています」
あらかじめ手紙を出して面会をお願いしていた。
突然侯爵家を訪ねるのは失礼にあたるため、都合のいい日時を伺い、今日の訪問を許可してもらった。
カズキも「先方へのアポイントメントを~」みたいなことを言っていたけど、私だってこのくらいの礼儀は心得ている。
「承知しております。ヴィクトル様がお待ちです」
案内された応接室には、大きな窓から柔らかな光が差し込んでいた。
深いワインレッドのソファに腰掛けていたのは、長い金髪をゆるく束ねた青年――ヴィクトル・アインスト。
貴族らしい気品を漂わせながら、彼は私を見るなり目を細めた。
「待っていたよ、ルーシア・エルバート」
「……お久しぶりです、ヴィクトル様」
彼のことはここではヴィクトル様と呼ぶ。
お店にお客さんとして来ているときはヴィクトルさんと呼んでいるが、この場では立場が違う。
「カズキではなく、君が来るとは思わなかったよ」
「カズキは貴族社会に詳しいわけではありませんから。それに、私は黒猫亭の店主です」
ヴィクトルは興味深そうに笑った。
「なるほど。実に君らしい判断だ」
私は少しだけ息を吸う。
「ヴィクトル様。今日は、お願いがあって来ました」
「聞こう」
ヴィクトルがテーブルの上の紅茶に手を伸ばす。
その仕草を見ながら、私は本題を切り出した。
「黒猫亭について、悪い噂が広がっています」
「知っているよ」
「……やはり、そうでしたか」
「貴族の社交界というのは、情報が回るのが早くてね」
ヴィクトルは苦笑した。
「黒猫亭のコーヒーが粗悪品だとか、庶民向けの店が貴族の真似事をしているとか。中には、君の店を潰したほうがいいとまで言っている者もいる」
胸が痛んだ。
私は黒猫亭を見下ろすような言葉を、何度も聞いてきた。
それでも店を続けてきた。
たくさんの人が、少しだけ肩の力を抜ける場所にしたかったから。
「……黒猫亭は、貴族のために作った店ではありません」
私は静かに言った。
「でも、貴族を拒んでいるわけでもありません。庶民でも貴族でも、美味しいコーヒーを飲みたい人なら、誰でも歓迎します」
ヴィクトルの青い瞳が、わずかに細くなる。
「貴族たちは、黒猫亭の存在を快く思っていない。庶民と貴族が同じ空間で、同じコーヒーを楽しむことが気に入らないのだろう」
「確かに、彼らにとってあの店は“身分の壁”を壊す存在と言えるかもしれません」
ヴィクトルはカップを置いた。
「なぜ、そこまで黒猫亭にこだわる?」
「……」
私はすぐには答えなかった。
頭の中に、黒猫亭の光景が浮かぶ。
カウンターで忙しそうに働く自分。
慣れない仕事に悪戦苦闘しながら手伝ってくれるカズキ。
コーヒーを飲んで笑ってくれた客たち。
そして、閉店後に「今日も頑張ったな」と言ってくれるカズキの声。
「……あの店には、私の大切なものがあるからです」
「ふむ……」
私は窓の外へ視線を向けた。
「たくさんの人が憩いの場として利用してくれていて、一緒に店を作ってくれる人もいる」
その人の顔を思い浮かべるだけで、胸の奥が温かくなる。
「だから、誰かの都合で壊されたくないんです」
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
やがて、その口元に小さな笑みが浮かぶ。
「……なるほど」
「そこで、ヴィクトル様にお願いがあります」
「言ってみたまえ」
「黒猫亭のコーヒーは本物だと、あなたの言葉で認めてほしいんです」
室内に静寂が落ちた。
「アインスト侯爵家の人間であるあなたが黒猫亭を支持すれば、少なくとも、根拠のない噂を流している者たちは簡単には手を出せなくなるはずです」
「私の権威を利用するわけか」
「……はい」
私は正直に頷いた。
「嫌な言い方をすれば、そうなります」
するとヴィクトルは、突然くすりと笑った。
「君は本当に正直だな」
「嘘をついてまで協力してほしいとは思いません」
「ふむ……」
ヴィクトルは腕を組み、しばらく考え込んだ。
やがて、静かな声で尋ねる。
「君は私が協力すれば、黒猫亭が貴族同士の派閥争いに巻き込まれる可能性があることを理解しているか?」
「はい。それでも、守りたいんです」
迷いはなかった。
「黒猫亭は、誰かの身分を証明するための店ではありません。美味しいコーヒーを飲んで、少しだけ元気になってもらう。そのための店です」
私は胸元でそっと手を握った。
「その場所を守るためなら、私は逃げません」
ヴィクトルは目を細めた。
そして、楽しそうに笑った。
「……君がそこまで言うなら、断る理由はないな」
「え?」
「協力しよう」
「本当ですかっ?」
ヴィクトルは立ち上がると、窓から差し込む光の中でゆっくりと告げた。
「アインスト侯爵家の名にかけて、私は黒猫亭のコーヒーが本物であると認めよう」
「……ありがとうございます」
思わず深く頭を下げる。
彼が黒猫亭に肩入れすれば、悪評を流している貴族と対立する可能性だってある。
それも承知の上で決断してくれた。
それでも、これで一つ、黒猫亭を守るための盾ができた。
そう思った、そのときだった。
「ただし」
「……はい」
ヴィクトルが悪戯っぽく笑う。
「一つ条件がある」
「条件、ですか?」
「黒猫亭に、私のための席を確保してほしい」
「……席?」
「そう。できれば、店内を見渡せる場所がいい。それくらいの特権は認めてもらえるかな?」
「……」
思わず呆れてしまう。
「侯爵家の次期当主ともあろう方が、そんなことでいいんですか?」
「そんなこととは失礼だな。私は本気で黒猫亭のコーヒーを気に入っている」
真顔で言われて、私は思わず笑ってしまった。
「……分かりました」
「約束だよ」
「はい。特別席を用意しておきます」
「では、決まりだ」
ヴィクトルは満足そうに頷いた。
「君が守ろうとしている店なら、一度くらい本気で応援してみるのも悪くない」
その言葉に、私は頭を下げた。
「ありがとうございます、ヴィクトル様」
◇
黒猫亭へ戻る頃には、空が茜色に染まり始めていた。
扉を開ける。
「ただいま」
「おかえり、ルーシアさん!」
すぐにカズキが駆け寄ってくる。
その顔を見た瞬間、張り詰めていたものがふっとほどけた。
「どうだった?」
「協力してくれるって」
「やったな!」
「うん」
カズキの表情が一気に明るくなる。
「よかった……」
「ヴィクトルさんは黒猫亭のコーヒーが本物だって認めてくれる」
「さすがだよ、ルーシアさん」
そう言って笑った瞬間、カズキが私の肩に手を置いた。
「ありがとう」
その手の温かさが、肩越しに伝わってくる。
「ルーシアさんが黒猫亭を大切にしてることが、ちゃんと伝わったんだと思う」
「……」
胸が、また熱くなる。
この人は、時々こういうことを何気なく言う。
私が一番聞きたかった言葉を、何でもないことのように。
「……カズキ」
「ん?」
「その……ありがとう」
「俺は何もしてないって」
「違う」
私はカズキの目を見る。
「待っていてくれて、ありがとう」
カズキは一瞬だけ黙った。
それから、少し照れたように笑った。
「……そっか」
夕暮れの光が差し込む黒猫亭で、私たちはしばらく見つめ合った。
騒がしい街の向こうでは、まだ黒猫亭を狙う者たちが動いている。
きっと、これからが本当の勝負だ。
それでも、隣にカズキがいる。
そう思うだけで、不思議と怖くなかった。
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