第25話 悪い噂を覆せ! 黒猫亭の反撃
その夜、黒猫亭の閉店後。
客のいなくなった店内には、昼間の賑わいが嘘のような静けさが戻っていた。
窓の外では、通りを行き交う人の足音が少しずつ減っている。
カウンターの上には、片付けを終えたドリッパーが並べられ、魔導具の明かりが木目の床を淡く照らしていた。
俺は一人、カウンター席に座っていた。
目の前には冷めかけたコーヒーがある。
けれど、今は味わう気分になれなかった。
頭の中を占めているのは、昼間にコレットから聞いた話だ。
黒猫亭のコーヒーには変なものが入っているだの、粗悪な豆を高級品と偽っているだの、どれも、事実とはかけ離れている。
そして何より厄介なのは、そんな根も葉もない噂によって、実際に客足が鈍り始めていることだった。
「……参ったな」
昼間は強気なことを言ったが、いざ作戦を考えるとなると大変だった。
俺は額に手を当てる。
前の世界で会社員をしていた頃なら、こんな問題が起きても上司に報告して終わりだっただろう。
けれど、ここには誰もいない。
黒猫亭を守れるのは、俺たち自身しかいない。
しばらく考えたところで、向かいの席から声がした。
「まだ考えてるの?」
顔を上げる。
そこにはルーシアがいた。
長い黒髪を片側に流し、片付けを終えた彼女が向かいの椅子に座っている。
昼間は客の前で見せない、少し疲れた表情だった。
「うん。どうすれば噂を止められるか考えてた」
「……眠そう」
「ルーシアさんもだろ」
「私は平気」
「その目で言われても説得力ないな」
「……失礼ね」
ルーシアはむっとした顔をしたものの、すぐに小さく笑った。
その笑顔を見て、俺の胸が少しだけ軽くなる。
こういう時間が好きだった。
店が終わったあと、二人で今日のことを話す時間。
忙しい一日の終わりに、彼女がすぐそばにいる。
それがいつの間にか、俺にとって当たり前になっていた。
「……絶対に、ここをなくしたくない」
ルーシアがぽつりと言った。
「うん」
「私の、私たちの大切なお店だもの」
彼女はテーブルの上に置かれた自分の手を見つめる。
「だから、誰かに変な噂を流されて、そんな場所を壊されるのは嫌」
「俺もだよ」
思わず即答していた。
ルーシアが顔を上げると目が合う。
「俺はここに流れ着いて、最初にこの店に拾ってもらった。食べるものも寝る場所もなかった俺に、ルーシアさんはここを貸してくれた」
「……そうだったね。でも、そんなこと、気にしなくていいのに」
「俺が気にしたいんだ」
ルーシアはまっすぐに俺のことを見つめる。
「だから――」
俺は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
苦みが舌に残る。
それを飲み込んでから、俺は小さく笑った。
「明日から反撃しよう」
俺は立ち上がった。
彼女のためにも立ち上がらなければならなかった。
「貴族だかなんだか知らないけど、やってやろうじゃないか」
◇
翌朝。
開店前の黒猫亭には、いつもより早く三人が集まっていた。
テーブルの上には何枚もの紙が広げられている。
その中央に座っている俺は、昨夜ほとんど眠らずに考えた作戦を書き出していた。
「黒猫亭の評判を取り戻すために、マーケティング戦略を使う」
俺が言うと、向かいに座ったコレットが腕を組んだ。
「ほう。ずいぶん楽しそうじゃねぇか」
「楽しいわけじゃないですよ」
「顔が楽しそうだぞ?」
「うーん……ちょっとだけ」
コレットが豪快に笑う。
その隣では、ルーシアが紙を覗き込みながら首を傾げていた。
「具体的には?」
「まず、一つ目」
俺は紙に大きく文字を書いた。
『権威性』
「これはヴィクトルさんに協力してもらう」
ルーシアが顔を上げる。
「ヴィクトルさんに?」
「うん」
アインスト侯爵家の次期当主。
彼はすでに黒猫亭のコーヒーを気に入ってくれている。
「ヴィクトルさんが『黒猫亭のコーヒーは本物だ』と言ってくれれば、それだけでかなり強い」
「なるほどな」
コレットが顎に手を当てる。
「貴族社会で影響力のある人間が認めれば、今まで黒猫亭を疑っていた連中も無視できなくなる」
「そういうこと」
ただし、懸念点もある。
「でも、ヴィクトルさんが協力してくれるかは分からない。貴族同士の付き合いや、しがらみだってあるかもしれない」
俺がそう言うと、ルーシアが少し考えた。
「……でも、あの人なら来てくれるんじゃない?」
「そう思う?」
「だって、コーヒーを飲むときの顔が本当に嬉しそうだから」
「ああ……」
俺も思い出した。
あの鋭い青い目をした侯爵家の青年が、コーヒーを飲んだ瞬間だけ、少年のように目を輝かせていた姿を。
「確かに、あの人なら『黒猫亭を守るため』なんて言わなくても、『美味しいコーヒーを飲みたいから』って理由で協力してくれそうだな」
「それ、ありそうね」
ルーシアがふっと笑う。
その笑顔を見ていると、俺まで少し楽しくなってきた。
「二つ目」
俺は次の文字を書いた。
『カリギュラ効果』
「……なんだ、それ?」
コレットが首を傾げる。
「簡単に言うと、人は『見るな』『するな』と言われるほど、逆に気になってしまうって心理だ」
「ほう?」
「つまり、今回の悪い噂を利用する」
俺はペン先を紙の上で走らせる。
「『貴族が庶民に飲ませたくないほどのコーヒー』――そういう話に変えてしまうんだ」
ルーシアが目を丸くする。
「……わざと?」
「そう。もちろん、貴族が本当に禁止したなんて嘘をつくわけじゃない。『一部の貴族が黒猫亭を快く思っていないらしい』という話を、興味を引く形に変える」
「なるほど。『飲むな』と言われれば、逆に飲んでみたくなる気持ちはわかる」
コレットがニヤリと笑った。
「商人の心理としては、かなり分かるぜ。『秘密の店』とか『知る人ぞ知る品』って聞くと、確かに気になる」
「ただし、やりすぎると危ない」
俺は釘を刺す。
「貴族全体を敵に回すような言い方はしない。あくまで『黒猫亭を気に入らない人がいる』程度に留める」
ルーシアが頷いた。
「それなら、私も賛成」
彼女は少しだけ胸を張った。
「私のコーヒーが、そんなに気になるなら……飲んで確かめてもらえばいいもの」
「……ルーシアさんらしい」
「何よ」
「いや。強いなと思って」
「……別に」
ルーシアはそっぽを向いた。
けれど、耳が少し赤くなっている。
俺は笑いを堪えながら、三枚目の紙を広げた。
「そして三つ目」
そこに続けて書く。
『アンダードッグ効果』
「これは、弱い立場の人を応援したくなる心理だ」
「黒猫亭が弱い立場ってことか?」
コレットが眉を上げる。
「今はそうだと思う。大きな商会や高級店に比べれば、俺たちは小さな個人経営だ。それに、相手が貴族ならなおさらだ」
「……なるほど」
ルーシアが紙を見る。
「つまり、『小さな黒猫亭が貴族に狙われている』という構図を作るのね」
「そう」
「それなら……」
ルーシアは少し考えたあと、静かに言った。
「お客さんに、黒猫亭を応援してもらえるかもしれない」
「その通り」
俺は頷いた。
「悪い噂を消すだけじゃない。『黒猫亭を残したい』と思ってくれる人を増やす」
コレットが腕を組んだまま、感心したように息を吐く。
「なるほどな。噂を否定するんじゃなく、別の物語に上書きするわけか」
「そうです」
「……面白ぇじゃねぇか」
コレットの口元に、いつもの豪快な笑みが戻った。
「つまり、こうだな」
彼女は指を一本立てる。
「味方になってくれそうな貴族に、黒猫亭のコーヒーが本物だと証明してもらう」
二本目。
「次に、『貴族が庶民に飲ませたくないほどのコーヒー』って話題を作る」
三本目。
「最後に、『小さな黒猫亭をみんなで応援しよう』って流れを作る」
そう、これこそが俺の考えた逆転のマーケティング戦略三本柱だ。
「完璧です」
「ガハハ! こりゃあ面白くなってきた!」
コレットが笑う。
すると、隣で黙っていたルーシアがぽつりと言った。
「……カズキ」
「ん?」
「あなたこういうことを考えてるとき、本当に楽しそうね」
ルーシアは俺の顔をじっと見つめた。
「最初に会ったときは、自信がなさそうだったのに」
「あくまで知識があるだけだったからな。でも今は、黒猫亭のためなら迷わない」
俺は元の世界で、何かに自信を持って生きていたわけじゃない。
仕事も、将来も、自分自身のことさえ。
けれど、この世界に来てからは違う。
守りたいものができた。
この店と、その店を大切にしている、目の前の女性。
「……ルーシアさんがいるからだよ」
「え?」
「一人だったら、ここまで頑張れなかった」
「…………」
ルーシアはしばらく俺を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ視線を逸らし、小声でつぶやく。
「……ありがとう」
ルーシアは耳を赤くしながら、コーヒー豆の入った袋へ手を伸ばした。
その横顔が妙に可愛く見えて、俺は思わず笑ってしまう。
そんな俺たちを見て、コレットが呆れたように肩をすくめた。
「お前ら、本当に仲いいな」
コレットは立ち上がると、赤いジャケットを整えた。
「じゃあ、役割分担といこうぜ」
「はい」
「俺は商人ギルドに話を通す。黒猫亭への悪評がどこから出ているのかも探ってみる」
「助かります」
「それから、商人たちには『黒猫亭を応援しよう』って話を広げてみる。商人は噂が好きだからな」
「よろしくお願いします」
コレットが笑ってサムズアップをする。
すると、考え事をしていたルーシアがまっすぐ俺を見た。
「私がヴィクトルさんに話をつけに行く」
「えっ、ルーシアさんが?」
「あの人に話をつけるなら、店主の私が行った方がいい」
「確かに……俺よりルーシアさんの方が適任だ」
貴族と話をするなら素人の俺より、上流階級御用達のシュヴァン・テラスで働いていたルーシアの方がいいだろう。
「じゃあ俺は、街の人たちに“黒猫亭が貴族に狙われている”って話を広める」
「分かった」
そして、彼女はカウンターの上に置かれたコーヒー豆の袋へ手を置いた。
「あと私は、コーヒーを淹れる」
黄色の瞳が、まっすぐ俺を見る。
「どんな噂が広がっても、私のコーヒーが美味しいことだけは変わらないもの」
「……そうだな」
それがルーシアの強さなのだと思った。
言葉で言い返すのではなく、自分が積み重ねてきたものを信じる。
だから俺は、その強さを守りたい。
「じゃあ、決まりだ」
俺は立ち上がった。
「……勝てそう?」
「勝つ」
俺は即答した。
「いや、勝つしかない」
コレットが大きく笑う。
「ガハハ! いいじゃねぇか!」
ルーシアも、少しだけ口元を上げた。
黒猫亭の扉を開けると、朝の光が店内へ差し込んできた。
金色の陽射しの中で、黒猫の看板が静かに輝いている。
昨日までなら、不安を感じていたかもしれない。
けれど、今は違う。
悪い噂に負けるつもりはない。
貴族の陰謀に怯えるつもりもない。
俺には、ネットで覚えた半端な知識しかないが、それでも、ルーシアと一緒に作ってきたこの店だけは譲れない。
黒猫亭を守るための反撃が、今、始まった。
読んでいただきありがとうございます!
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今後ともよろしくお願いします。




