第28話 未来への一歩
今回で第1章最終回です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
そして、みなさんの☆での評価など応援をいただければ第2章も頑張れます。
よろしくお願いします。
それは、まるで台風一過ようだった。
根も葉もない噂が広がり、いつも来てくれていた客の姿まで減ってしまったあの日々は、今となっては遠い出来事のように感じる。
きっかけになったのは、アレクシス・フォン・クラウスの来店だった。
この国でも指折りの大貴族である彼が、自ら黒猫亭を訪れ、ルーシアのコーヒーを飲んだ。
そして、貴族も庶民も関係なく、この店では一杯のコーヒーを楽しめる――そんな黒猫亭の在り方を認めてくれた。
それ以来、黒猫亭を悪く言う声は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていった。
それどころか――。
「大貴族のクラウス卿が来た店らしいぞ」
「あのシュヴァン・テラスで腕を磨いたバリスタがいるんだって」
「貴族が飲むコーヒーを、俺たちも飲めるのか?」
そんな声が街のあちこちから聞こえるようになった。
噂というのは、本当に不思議なものだ。
悪い方向へ広がっていたものが、一度流れを変えると、今度は黒猫亭を押し上げる力になっていく。
おかげで今日も満席だった。
「お待たせしました。エルダの深煎りです」
カウンターの奥では、ルーシアがいつものように丁寧にコーヒーを淹れている。
黒髪を後ろでまとめ、真剣な表情でドリップポットを傾ける姿は、忙しくなった今でも少しも変わらない。
コーヒーの香ばしい匂いがふわりと店内に広がっている。
窓際では貴族らしい身なりの女性がカップを口元へ運び、反対側の席では仕事帰りらしい商人がパニーニを頬張っていた。
「いやあ、ここのコーヒーはやっぱり落ち着くな」
「私はこのシフォンケーキがお気に入りです。コーヒーとの相性が本当に素晴らしいですわ」
「俺はビスコッティだな。持ち帰りもできるのがありがたい」
身分も立場も違う人たちが、同じ店で同じように笑っている。
俺は少し離れたところから、その光景を眺めていた。
(……これが、俺たちの目指していた黒猫亭か)
最初にこの店へ来たときは、客は一日一人しかいなかった。
経営は赤字。
店は暗く、存在すら街の人に知られていなかった。
それでも、コーヒーだけは驚くほど美味かった。
そして何より、ルーシアがこの店を諦めたくないと思っていた。
俺はただ、その気持ちを形にする手伝いをしただけだ。
「カズキ、こちらをお願い!」
「了解!」
声をかけられ、俺はすぐに現実へ戻った。
注文されたコーヒーを受け取り、客のもとへ運ぶ。
「お待たせしました。ベルウェルのミディアムローストです」
「ありがとう」
客が笑顔でカップを受け取る。
その瞬間、俺も自然と笑っていた。
以前なら、接客なんて自分に向いていないと思っていた。
日本にいた頃は、会社で言われた事をこなし、仕事が終わればくたくたになって帰るだけの日々だった。
それが今では、自分が動いた結果として目の前の誰かが笑ってくれる。
悪くない。
むしろ、かなり好きだ。
カウンターへ戻ると、ルーシアがこちらを見ていた。
「ルーシアさん、どうしたの?」
「……あなたが楽しそうにしてるから、見てた」
「うーん、そうかも」
俺が笑うと、ルーシアはほんの少し視線を逸らした。
「楽しいなら良し」
その声には以前にはなかった柔らかさがある。
「ルーシアさんは?」
「……私?」
「うん。お店、こんなに忙しいわけだけど」
そう聞くと、ルーシアは店内を見渡した。
楽しそうに話す客。
コーヒーを飲んでほっと息を吐く客。
焼き菓子を嬉しそうに眺める客。
そして、その中には以前から通ってくれている常連客の姿もある。
「……楽しい」
ルーシアは、小さく笑った。
「今こうして、たくさんの人が来てくれるのを見ると、頑張ってよかったって思う」
その横顔を見ていると、俺まで胸が温かくなった。
「俺もだよ。ここを残せてよかった」
俺がそう言うと、ルーシアは一瞬だけ目を丸くして、それから照れたようにカップへ視線を落とした。
「……そう」
それだけだった。
けれど、耳が少し赤くなっている。
俺はそれを見つけて、思わず笑ってしまった。
ルーシアの決して大きくないけどちゃんと笑っている、その表情を見ていると、胸の奥が妙にくすぐったくなる。
最初はただ、潰れかけた店を立て直すつもりだった。
それなのに今では、この笑顔を失いたくないと思っている。
そんな自分の気持ちに気づき始めていることが、少しだけ怖かった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
◇
閉店時間を迎える頃には、街の外もすっかり暗くなっていた。
最後の客を見送ると、ルーシアが扉を閉め、看板を裏返す。
「……今日もお疲れさま」
「うん、お疲れさま」
二人きりになった店内には、昼間の喧騒が嘘のような静けさが戻っていた。
テーブルを拭き、食器を片付け、明日の仕込みを確認する。
いつの間にか、それが俺たちの日常になっていた。
最初の頃は何をするにも手探りだった。
今では、言葉にしなくても相手が次に何をするのか分かることさえある。
俺がテーブルを片付ければ、ルーシアが豆の在庫を確認する。
俺が帳簿を書いている間に、ルーシアが明日の仕込みをする。
そんな小さな積み重ねが、いつの間にか俺たちの店を作っていた。
「……順調だな」
俺が呟くと、ルーシアも手を止めた。
「うん」
店内を見渡す。
「本当に、色々あったけど……ここまで来られたね」
「最初は酷かったからな」
「酷かったって言わないで」
「客、一人だっただろ」
「……それは、そうだけど」
ルーシアが少しだけ頬を膨らませる。
俺は笑いながら、カウンターに腰を預けた。
「でも、よかった。ここに来れて」
ルーシアが黙る。
その黄色の瞳が、まっすぐ俺を見つめていた。
「……私も」
ぽつりと返ってきた声は、いつもより小さかった。
「カズキが来てくれて、よかったと思ってる」
「ルーシアさん……」
名前を呼ぶと、彼女は少し困ったように視線を落とした。
「最初は、変な奴が倒れてると思ったけど」
「ひどいなー」
「本当のことでしょ」
「まあ……否定はできない」
俺が苦笑すると、ルーシアも小さく笑った。
そして、その笑顔が消える。
「でも……」
ルーシアが、こちらへ一歩近づいた。
「今は違う」
「……何が?」
「カズキがいるのが、当たり前になった」
胸が、不意に大きく跳ねた。
ルーシアは自分でも言ってしまったことに気づいたのか、頬を赤くしている。
「……その、店の仕事をするうえでって意味だから」
「う、うん」
どうして俺まで緊張しているんだ。
ただの仕事仲間なら、こんなに心臓がうるさくなるはずがない。
「だから……これからも」
ルーシアは一度言葉を切った。
それから、少しだけ勇気を出すように俺を見上げた。
「これからも、一緒にやってほしい」
その言葉が、静かな店内に消えていく。
俺は、すぐには答えられなかった。
――「もちろんだ」
そう言えばいいだけなのに、胸の奥から込み上げてくるものが大きすぎて、言葉が出てこない。
俺はきっと日本で一度死んだんだろう。
目を覚ましたら、知らない世界にいた。
何も持っていなかった俺が、この店で働き始めて、気づけば大切なものが増えていた。
黒猫亭。
ここで出会った人たち。
そして、目の前にいるルーシア。
「……俺も」
ようやく声が出た。
「俺も、ここにいたい」
ルーシアの瞳が揺れる。
「この店を、これからも一緒に続けたい」
「……うん」
その返事と一緒に、ルーシアが微笑んだ。
――俺は、この場所が好きだ。
そして、ここにいる彼女のことを、もっと知りたい。
そんな気持ちが、静かに胸の中で形になり始めていた。
「よーし、明日も忙しくなるぞ」
「うん。新しいお客さんも増えてるし、仕込みも増やさないと」
「二号店なんて話も、そのうち出てくるかもしれないな」
「……二号店?」
ルーシアが目を見開く。
「まだ早いって」
「冗談だよ」
「もう……」
呆れたように言いながらも、ルーシアは楽しそうに笑っている。
その笑顔につられて、俺も笑った。
未来のことなんて、まだ何も分からない。
新しいライバルが現れるかもしれない。
商人ギルドとの関係だって、これからどうなるか分からない。
それでも、不思議と不安はなかった。
俺には、ルーシアがいる。
ルーシアには、俺がいる。
それだけで、これから先も何とかなる気がした。
店の明かりを落とし、最後に残った魔導具の灯りだけが、薄暗い店内を柔らかく照らしている。
「……カズキ」
「ん?」
背中から声が聞こえ、振り返る。
ルーシアはカウンターの向こうに立ったまま、少しだけ恥ずかしそうに俺を見ていた。
「……明日も、よろしく」
「ああ、こちらこそ」
俺が笑うと、ルーシアも小さく笑った。
夜の街には、静かな風が吹いている。
黒猫亭の看板が月明かりに照らされていた。
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