第22話 黒猫亭に訪れる貴族
昼過ぎ。
昼食を終えた客たちも少しずつ店を出始め、残った数人の常連がコーヒーを片手に静かな午後を楽しんでいた。
俺はカウンターの内側で帳簿を確認しながら、ふと顔を上げる。
視線の先では、ルーシアが皿を拭いていた。
黒い長髪を後ろで軽くまとめ、真剣な顔で一枚ずつ食器を磨いている。
そんな何気ない姿を見ていると、先日のことを思い出した。
シュヴァン・テラス。
そして、そこで聞いたルーシアの過去。
最優秀バリスタに選ばれるほどの腕を持ちながら、彼女はあの店を離れ、この黒猫亭を開いた。
「……ルーシアさん」
「なに?」
「前にさ、シュヴァン・テラスを辞めた理由を聞いたことがあっただろ?」
「……うん」
ルーシアの手が止まる。
「そのとき、あまり話したくなさそうだったよな」
「そうだったかしら」
「そうだったよ」
俺が笑うと、ルーシアは少しだけ眉を寄せた。
「それで?」
「でも、結局は自分から話してくれただろ。『自分の淹れたコーヒーを飲んで、美味しいって喜んでくれる人を見るのが好きだ』って」
「……」
「だったら、最初からそう言ってくれればよかったのに」
ルーシアの頬が、わずかに赤くなる。
「……あれは」
「うん?」
「……恥ずかしかったから」
「え?」
「そんな理由を口にするのが」
ルーシアは視線を逸らし、磨いていたカップを必要以上に丁寧に拭き始めた。
「昔の私は、もっと格好つけてたから。自分が一流のバリスタになることばかり考えて……」
「そ、そうだったのか。でも、今は違う?」
「……今は、ね」
ルーシアはちらりと俺を見る。
「この店で、コーヒーを飲んだ人が笑ってくれるほうが嬉しい」
「そっか」
「……だから、もうこの話は終わり」
「ええっ、いい話だと思うけど」
「終わり」
「はい」
俺が素直に引き下がると、ルーシアは小さく息を吐いた。
その横顔が少し照れているのが分かって、思わず笑ってしまう。
「……何よ」
「いや。ルーシアさんって、そういうところ可愛いなと思って」
「――っ」
ルーシアの手から、カップが危うく滑りかけた。
「ちょ、ちょっと! 急に変なこと言わないで!」
「ごめん、ごめん」
頬を赤くしたルーシアが睨んでくる。
俺は笑いながら、片付けを手伝う。
そのときだった。
――カラン。
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
反射的に声を出し、俺は扉へ振り返る。
そして、思わず言葉を失った。
「……え?」
入ってきた男は、この店にはあまりにも場違いだった。
長く艶やかなブロンドの髪をゆるくまとめ、肩には紫紺のベルベット製のマントを優雅に羽織っている。
仕立てのいい衣服から覗く姿勢には隙がなく、整った顔立ちの中で、鋭い青い瞳だけが妙に印象に残った。
どう見ても、普通の客ではない。
少なくとも、俺がこれまで黒猫亭で見てきた客層とは明らかに違う。
(貴族なのか……?)
男は店内を一度見渡すと、まるで以前から知っている場所のように迷いなくカウンターまで歩いてきた。
「ここが……黒猫亭か」
低く落ち着いた声。
男はカウンター席に腰を下ろすと、口元に薄い笑みを浮かべた。
「思っていたより、ずいぶんと普通の店だな」
その発言にルーシアが少し警戒する。
すると男は楽しそうに笑い、俺に向かい話かけてくる。
「最近、妙にこの店の評判を聞くようになってね」
「評判、ですか?」
聞き返すと、男は真剣な眼差しをこちらへ向けた。
「ああ。美味いコーヒーを出す店がある。以前は客も少なかったのに、最近になって急に人が増えた、と」
……なるほど。
噂が貴族(?)のところまで届いているらしい。
俺がそう考えていると、男は何でもないことのように言った。
「それで、気になって来てみたんだ」
「ありがとうございます。ご注文はどうしますか?」
男はメニューを一瞥すると、すぐに閉じた。
「君のおすすめを」
「俺の?」
「そうだ。君が一番美味しいと思うものを飲みたい」
「かしこまりました」
俺はすぐにルーシアへと視線を向ける。
「エルダの深煎りで」
ルーシアはカウンターの奥で静かにこちらを見つめ、「わかった」と短く頷いた。
すると彼女は手慣れた手つきで豆の量を測り、ミルで丁寧に挽き始める。
ゴリゴリと豆が砕かれる音が、店内に心地よく響く。
その音を聞きながら、青年は興味深そうにルーシアを眺めていた。
「……見事だな」
「ありがとうございます」
「君はこの仕事、長いのかい?」
「ええ……」
「なるほど」
男の視線が、ルーシアの手元から俺へ移る。
「では、君がこの店を変えたという噂の人物か」
「この店は二人の力で変わったんですよ」
「ほう……」
ルーシアが淹れたコーヒーをカップへ注ぐ。
深い香りが店内へ広がった。
「お待たせしました」
男はカップを受け取ると、まず香りを確かめた。
目を閉じ、ほんの少しだけ鼻を近づける。
そして、一口。
「…………」
男の目が、わずかに見開かれた。
「これは……」
カップを置く。
「素晴らしい」
低い声に、今度は明らかな喜びが混じっていた。
「深い苦味があるのに、後味が重くない。香ばしさの奥に、わずかな甘みが残っている。エルダだな?」
「……はい」
ルーシアが驚いたように目を瞬く。
「豆まで分かるんですか?」
「私はコーヒーには少々うるさくてね」
男は得意そうに笑った。
「焙煎も丁寧だ。温度管理も――」
「……そこまで分かるなら、もう十分ですよ」
ルーシアが少し呆れた顔をする。
「お客さん、コーヒーに詳しいんですね」
「まあね」
男は楽しそうに笑った。
さっきまでの威厳が少し崩れた気がする。
俺はその様子を見て、なんとなく思った。
……この人、かなりの、いや、半端なくコーヒーが好きな人かもしれない。
「ところで」
男はカップを置いた。
「まだ名乗っていなかったな」
立ち上がることもなく、優雅に胸元へ手を添える。
「私はヴィクトル・アインスト」
その名を聞いた瞬間、ルーシアの目が大きく開いた。
「……アインスト?」
「アインスト侯爵家の次期当主だ」
「侯爵家……」
店内にいた数人の客が、ちらちらとこちらを見る。
俺も思わず背筋を伸ばした。
侯爵家。
それがどれほどの家柄なのか、俺でも分かる。
そんな人物が、どうして黒猫亭なんかに?
「かしこまらなくてもいい」
ヴィクトルは苦笑した。
「私は今日は侯爵家の人間として来たわけではない」
「では、どのような理由で?」
ルーシアが尋ねる。
ヴィクトルは、手にしたカップを眺めた。
「美味いコーヒーを飲むためだ」
「……」
「庶民だろうが貴族だろうが、美味いものを求める気持ちは変わらない。そうだろう?」
そう言って、また一口飲む。
「それに、この店には以前から興味があった」
ヴィクトルは俺を見る。
「シュヴァン・テラスが黒猫亭を気にしていると聞いてね」
俺の表情が変わった。
「……シュヴァン・テラスを知ってるんですか?」
「アルディアであの店を知らない貴族は少ない。それに、支配人のアデリナはやり手で有名だからな」
やはり、この男はかなり情報を持っている。
俺は警戒を解かずにヴィクトルを見る。
「それで、この店の様子を視察にいらっしゃったと?」
「半分はそうだ」
「半分?」
「もう半分は――」
ヴィクトルがカップを持ち上げる。
「このコーヒーが飲みたかった」
「……そっちが本命じゃないですか?」
思わず突っ込むと、ヴィクトルは一瞬だけ黙った。
そして――。
「……否定は、しない」
真顔で言った。
「ふっ」
俺は思わず笑った。
ルーシアも口元を押さえている。
「ヴィクトル様、もっと堅い人かと思ってました」
「よく言われる」
「そうでしょうね」
「だが、このコーヒーを前にしてまで堅苦しくしている必要はないだろう」
ヴィクトルは満足そうにカップをそっと揺らした。
それでも、彼の視線は時々俺とルーシアの間を行き来している。
「しかし、興味深い店だ」
「それは、ありがとうございます」
「……黒猫亭そのものもそうだが、特に君たち二人が、だよ」
彼は楽しそうに目を細めた。
「一人はコーヒーの腕に絶対の自信を持ち、もう一人は経営について妙に熱心だ」
「……よく、調べられてますね」
「そして、その結果として店が急速に成長している」
ヴィクトルは感心したように頷いた。
「シュヴァン・テラスにいた頃の君は、もっと険しい顔をしていたと聞いている」
「……」
「だが、今は違う」
ヴィクトルは俺へ視線を移した。
「どうやら、この店には君を変える何かがあるらしい」
「ヴィクトル様」
ルーシアが少し困った顔をする。
「そういう話は……」
「すまない。少し興味が湧いてしまってね」
ヴィクトルは悪びれた様子もなく笑った。
「私は噂話が好きなんだ」
「侯爵家の次期当主が、それでいいんですか?」
「侯爵家の次期当主だからこそ、情報には敏感でなくてはいけない」
「なるほど……」
納得しかけたところで、ヴィクトルが続けた。
「まあ、黒猫亭の情報については、もう少し調べてみるつもりだ」
「……何か問題がありますか?」
「いや?」
ヴィクトルは首を傾げる。
「単純に、気に入った店がどうなっていくのか気になるだけだ」
その言葉に、俺は思わず目を瞬いた。
情報通の貴族。
侯爵家の次期当主。
そして、コーヒーについて語り始めると止まらない。
なんとも掴みどころのない男だった。
「では、今日はこれで失礼しよう」
ヴィクトルが立ち上がる。
「え、もう帰るんですか?」
「十分楽しんだ」
そう言いながら、彼は空になったカップを名残惜しそうに眺めた。
「……」
俺はそんな彼の様子をじっと見つめてしまった。
「何か?」
「いや、もっと飲みたそうに見えたので」
「……」
ヴィクトルは黙った。
そして、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「……別の豆は次回に試すよ」
「やっぱり」
俺が笑うと、ルーシアまで吹き出した。
「ふふ……」
「……君たちは意外と失礼だな」
そう言いながらも、ヴィクトルは楽しそうだった。
扉の前まで歩くと、彼は一度だけ振り返る。
「黒猫亭」
「はい」
「この店は、これからもっと面白くなるだろう」
鋭い青い瞳が、今度は真剣に俺たちを捉える。
「私は、しばらく通わせてもらうことにするよ」
「……お待ちしています」
ルーシアが笑顔で答えた。
ヴィクトルは満足そうに頷き、今度こそ店を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、俺とルーシアは顔を見合わせた。
「……なんだったんだ、あの人」
「侯爵家の次期当主」
「……変な人だったな」
「でも、悪い人じゃなさそう」
「それは同感」
俺たちは顔を見合わせ――同時に笑った。
俺はヴィクトルが座っていた席を見る。
空になったカップには、ほんの少しだけコーヒーの香りが残っていた。
侯爵家の人間まで、この店を訪れるようになった。
黒猫亭の名前は、確実に広がっている。
けれど、それ以上に気になったのは――。
「ねぇ、ルーシアさん」
「なに?」
「ヴィクトル様が言ってたこと、どう思う?」
「……どれ?」
「この店に来てから、ルーシアさんが楽しそうになったって話」
「……」
ルーシアは一瞬黙った。
そして、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……そうなのかもね」
「やっぱり?」
「だって」
彼女は店内を見回した。
「あの店で気を張ってた働いてた頃より、今のほうがずっと楽しいから」
「……そっか」
「それに、カズキが来てくれてから、ね」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「俺も……」
思わず言いかけて、止まった。
『俺も、ルーシアさんがいる黒猫亭が好きだ』
それを口にするのは、まだ少しだけ照れくさい。
「……いや、何でもない」
「変なの」
ルーシアが笑う。
その笑顔を見ていると、ヴィクトルが気に入るのも少し分かる気がした。
俺も、この店が好きだ。
この店で笑うルーシアが好きだ。
だからこそ、これからも守りたい。
黒猫亭の午後は、今日も穏やかに過ぎていく。
侯爵家の次期当主。
その最初の一杯は、思っていたよりずっと普通の客として楽しんだものだった。
そしてヴィクトル・アインストは、この日から黒猫亭の、ちょっと面倒で熱心なファンになった。
読んでいただきありがとうございます!
今回の話、面白いと感じたら、下の☆☆☆☆☆の評価、ブックマークにて応援していただけると励みになります。
今後ともよろしくお願いします。




