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第21話 ルーシアの選んだ道

 黒猫亭に戻ると、いつもと変わらない香ばしいコーヒーの香りが迎えてくれた。

 夜の街を歩いて冷えた体に、馴染みのある空間がじんわりと染み込んでいく。


(……やっぱり、こっちの方が落ち着く)


 シュヴァン・テラスの豪奢な店内や洗練されたサービスは確かに素晴らしかった。

 けれど、どこか冷たくて、俺には居心地が悪かった。


 温かみがあって、ルーシアがいる、この黒猫亭の空気が好きだ。


「ふぅ……」


 カウンターの奥を見ると、ルイスが静かにコーヒーの生豆(きまめ)のチェックをしていた。


 夜の柔らかなランプの光に照らされ、彼女の横顔はどこか穏やかに見える。

 その姿を見た瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ふっとほどけた。


 俺が椅子に腰掛けると、彼女はスッと二人分のコーヒーを淹れ始めた。


「おかえり」

「あ……うん。ただいま」


 ルーシアは少し不思議そうに俺を見る。

 豆を挽く音が静かな店内に響き、やがて香ばしい香りが広がっていった。

 その匂いを吸い込んだだけで、今日シュヴァン・テラスで感じたものとの違いが、はっきり分かる気がした。


 向こうのコーヒーは、確かに美味しかった。

 透明感があって、雑味がなく、何一つ欠点がない。

 けれど、俺が今飲みたいと思ったのは――こっちだった。


「はい」

「ありがとう」


 差し出されたカップを受け取る。

 指先が、ほんの一瞬だけ触れた。


「……熱いから気をつけて」

「あ、ああ」


 ルーシアも少しだけ頬を赤くして、カウンターの奥へ視線を逸らした。

 こんなことで意識してしまうなんて、どうかしている。

 俺は誤魔化すようにコーヒーを口へ運んだ。


「……おいしい」

「いつもと同じよ」

「それがいいんだよ」

「……そう」


 ルーシアが小さく笑う。


 俺はその顔を見ながら、今日聞いたことを話すべきか迷った。

 けれど、隠しておく理由もない。


「ルーシアさん」

「なに?」

「今日、シュヴァン・テラスに行ってきた」


 彼女の手が止まった。


「……そう」


 少しだけ、表情が曇る。


「偵察?」

「ああ。向こうのコーヒー、どんなものか気になって」

「で、どうだった?」

「うーん……すごく上品で、整ってた。完璧な味。でも、なんだか……ちょっと寂しいっていうか」


 言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。


「確かに、貴族向けの店としては最高なのかもしれない。でも――俺はやっぱり黒猫亭の方が好き」

「…………」


 ルイスは黙って椅子に座り、カウンターの奥に視線を向けた。


「アデリナさんにも会った」

「そう……」


 ルーシアはしばらく黙っていた。


「何を聞いたの?」

「ルーシアさんはシュヴァン・テラスでは最高の一杯を求めていたこととか、貴族の人にもファンがいたこととか」

「……そんなことまで話したのね」

「それだけじゃない」


 俺は一度言葉を切る。


「アデリナさんは、ルーシアさんに戻ってきてほしいと思ってる」


 ルーシアの黄色の瞳が、静かに揺れた。


「……そう」

「条件も、今より良くするって言ってた」

「設備も、待遇も……きっと、黒猫亭とは比べ物にならないでしょうね」


 自嘲するような笑み。

 俺は胸の奥が少し痛くなった。


「でも、俺は思った」

「うん」

「ルーシアさんがシュヴァン・テラスに戻りたいなら、俺には止められないって」

「……」

「だって、ルーシアさんの人生だから」


 言いながら、胸の奥が苦しくなる。

 本当は嫌だった。

 戻ってほしくない。

 黒猫亭からいなくなってほしくない。

 けれど、それを理由に彼女の選択を縛るのは違うと思った。


「ただ……」


 俺はカップを見つめる。


「正直に言うと、ルーシアさんがいなくなるのは嫌だ」

「……カズキ」

「黒猫亭の経営とか、コーヒーとか、そういう話じゃなくて」


 言葉が喉につかえる。

 これ以上言ったら、自分でも隠していた何かまで口から出てしまいそうだった。


「ここにはルーシアさんがいる。それが当たり前で……」

「……」

「だから、今日シュヴァン・テラスで話を聞いたとき、向こうに戻ったらどうなるんだろうって考えて……」


 俺は苦笑した。


「思ったより、嫌だった」


 ルーシアは黙ったまま、俺を見つめている。

 その瞳が、少しずつ柔らかくなる。


「……そう」


 やがて、彼女は小さく息を吐いた。


「じゃあ、安心していいわ」

「え?」

「私は、黒猫亭を出るつもりはないから」

「……本当に?」

「ええ」


 即答だった。

 その返事を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた不安が、嘘みたいに消えていく。


「シュヴァン・テラスは、私にとって大切な場所よ」


 ルーシアは静かに続けた。


「そこで働いていた時間も、努力して認めてもらったことも、全部本当。だから、アデリナさんに戻ってきてほしいと言われて……少しだけ嬉しかった」

「うん」

「でも」


 彼女は店内を見回した。

 木製であたたかみのある家具。

 俺たちが何度も相談しながら決めてきたメニュー。

 最近では、常連客の笑い声まで、この店の景色の一部になっている。


「私は、ここが好き」


 その言葉は、驚くほど穏やかだった。


「昔の私は、もっと上を目指さなきゃって思ってた。最高の設備、最高の豆、最高の技術……それを手に入れて、誰もが認めるバリスタになることが、自分の価値だと思ってた」


 ルーシアは自分の手を見る。

 コーヒーを淹れ続けてきた、細くて綺麗な指。


「でも、働いているうちに分かった。私は、コーヒーを淹れることだけが好きだったんじゃない」


 ルーシアが俺を見る。


「私の淹れたコーヒーを飲んで、美味しいって喜んでくれる人を見るのが好きだったの」


 胸の奥が、熱くなった。


「ここには、それがあるから」

「……そっか」

「それに」


 ルーシアは一度だけ視線を逸らした。


「……カズキもいるし」

「え? な、なに……」

「聞こえなかったなら、いい」

「いや、聞こえたけど」

「そう……」


 思わず笑ってしまう。

 ルーシアも少し恥ずかしそうに口元を緩めた。


「カズキが来てから、黒猫亭は変わった」

「俺だけの力じゃないよ。ルーシアさんの頑張りがあったからだ」

「それでも、あなたがいなかったら、こんなにたくさんの人が店に来ることはなかった」


 彼女は少しだけ身を乗り出した。


「だから……これからも、一緒にやってほしい」

「……もちろん」

「ずっといてくれる?」


 その一言に、俺の心臓が大きく跳ねた。


「……ああ。ずっとだ」


 ルーシアは安心したように微笑んだ。

 そして、少し照れたようにカップへ視線を落とす。


「……なら、私もずっとここにいる」


 魔導ランプの淡い光が、彼女の黒髪を柔らかく照らしていた。

 その横顔を見ながら、俺はようやく理解した。


 俺がルーシアに何を与えられるのかじゃない。

 ルーシア自身が、どこにいたいのか。

 その答えが、黒猫亭で――そして、俺という存在もそこにある。


「……カズキ、何を笑ってるの?」

「いや……」


 俺は誤魔化すようにカップを持ち上げる。


「明日も頑張れそうだなって思って」

「そうね」


 ルーシアも自分のカップを持ち上げる。


「じゃあ、明日も頑張りましょう」

「ああ」


 コーヒーの香りに包まれた黒猫亭で、俺たちは静かに笑い合った。

 シュヴァン・テラスのような豪華さは、この店にはない。

 最高級の設備も、貴族たちが羨むような格式もない。

 それでも、ここには、ここにしかないものがある。

 俺はもう、それを知っている。

 それだけで、今夜は十分だった。

読んでいただきありがとうございます!


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今後ともよろしくお願いします。

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