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第20話 黒曜石のように澄んだコーヒー

「……あなたは、ルーシアさんに何を求めているんですか?」


 シュヴァン・テラスの静かな店内で、俺はアデリナを見つめた。


 白いスーツに身を包んだ彼女は、まるでこの店そのものを体現しているようだった。

 背筋は真っ直ぐに伸び、長い銀髪には乱れひとつない。

 その整った顔に浮かぶ微笑みも上品なのに、なぜか目を合わせていると、こちらの考えまで見透かされているような落ち着かなさを覚える。


「何を、と言われましても」


 アデリナは穏やかな声で答えると、私の前の席に優雅に腰を下ろした。


「大切な人材に、相応しい場所へ戻ってきてほしい。それだけですよ」

「……戻るって、シュヴァン・テラスに?」

「ええ」


 迷いのない返事だった。


 アデリナが軽く手を上げると、すぐにウェイターが二人分のコーヒーを運んでくる。

 白磁のカップがテーブルへ置かれ、その黒い液体から、芳醇な香りが静かに立ち上った。


「どうぞ」

「……ありがとうございます」


 俺はカップを手に取った。

 香りを確かめ、口をつける。

 多分、おいしい。

 ただ、今は味を楽しむ余裕がなかった。


「ルーシアさんは、ここで働いていたんですよね」

「ええ。長い間」


 アデリナは自分のカップへ視線を落とした。


「そして、シュヴァン・テラスの最優秀バリスタに選ばれました」

「……本人から聞いたことはありません」

「そうでしょうね」


 アデリナは小さく笑う。


「ルーシアさんは、自分の功績を語るような方ではありませんから」


 その言葉には、長年彼女を見てきた人間だけが持つ確信があった。


「彼女の技術は、本当に素晴らしいものでした。豆の状態を見極め、焙煎を調整し、客が求める一杯を正確に淹れる。しかも、ただ技術があるだけではありません。彼女には、コーヒーそのものを大切にする心がある」


 アデリナはコーヒーを一口飲む。


「貴族の方々にも、彼女の名前を覚えている人は多いですよ」

「……それほどだったんですか」

「ええ」


 そこでアデリナは、初めて少しだけ表情を変えた。

 惜しむような目だった。


「だからこそ、私は残念に思っているのです。彼女が、シュヴァン・テラスを辞めてしまったことを」


 俺は黙ってアデリナを見つめた。


「どうして辞めたんです?」

「それは……」


 アデリナの唇に、意味ありげな笑みが浮かんだ。


「本人に聞けばいいでしょう」

「……話したくないようでした」

「そうですか」


 アデリナは少しも驚かなかった。


「昔から、そういうところは変わっていません」

「…………」

「ただ」


 彼女はカップをソーサーへ戻した。


「私は、今の状況が正しいとは思っていない」


 アデリナの視線が、まっすぐ俺に向く。


「カズキさん。あなたは黒猫亭を良い店にしようとしているのでしょう?」

「……はい」

「確かに、黒猫亭は以前とは比べものにならないほど変わりました。商人や職人たちが集まり、評判も上がっている。あなたの手腕は認めましょう」


 そこまで言ってから、アデリナは静かに続けた。


「ですが、ルーシアさんの技術が、あの店で本当に最大限に活かされていると思いますか?」

「…………」


 答えに詰まった。


「私は、そうは思いません」


 アデリナは迷いなく言った。


「彼女ほどの技術を持つ人間が、庶民が気軽に立ち寄る店でコーヒーを淹れている。それは、あまりにも惜しい」

「……黒猫亭を馬鹿にしているんですか?」

「いいえ」


 即答だった。


「黒猫亭という店に価値がないと言っているのではありません。私が言っているのは、ルーシアさんの技術には、それに相応しい舞台があるということです」


 アデリナは窓の外へ目を向けた。

 緑の美しい庭園が、午後の光に包まれている。


「この店には、彼女のコーヒーを本当に価値あるものとして楽しめる客がいます。貴族や上流階級の方々は、ただ高いコーヒーを飲みたいわけではありません。そこに込められた技術や時間、職人のこだわりに対して対価を払うのです」

「……だから、ルーシアさんをここへ戻したい?」

「ええ」


 アデリナは俺を真っ直ぐ見た。


「私は、ルーシアさんにシュヴァン・テラスへ戻ってきてほしいと思っています」


 その言葉は、思っていた以上に重かった。


「待遇も以前より良くします。彼女が望むなら、専用の設備を用意してもいい。メニューについても、彼女の意見を最大限に尊重しましょう」

「そこまで……」

「当然です」


 アデリナは淡々と言った。


「彼女は、それだけの価値がある人ですから」


 彼女はルーシアを高く評価している。

 それは分かる。


 けれど――。


「……本人は、どう言ってるんです?」

「彼女は黒猫亭を続けたいみたいですね」

「だったら――」


 アデリナは俺の言葉を遮るように頷いた。


「だから私は、彼女が自分の意思で考え直すまで待つつもりです」

「…………」

「無理やり連れてくるつもりはありません」


 穏やかな口調だった。

 けれど、その瞳には一切の諦めがない。


「ルーシアさん自身が、もう一度ここへ戻ることを選ぶ。その日を待つだけです」

「そんなことありえるとは思えない」


 ルーシアが黒猫亭をやめるなんて考えられなかった。


「彼女はもともと、コーヒーに対して妥協を許さない人間です。最高の一杯を求め続けた結果、最優秀バリスタの称号を得た」


 アデリナはゆっくりとカップを置き、私を真っ直ぐに見つめる。


「そして、彼女は未だに変わらず、こだわり抜いたコーヒーを淹れ続けている」


 アデリナの言葉には、どこか確信めいた響きがあった。


「あなたは気づいていないかもしれませんが……彼女のような人間は、どこかで必ず“完璧な環境”を求めるものです」


 その目は、まるで未来を見通すかのように鋭かった。


「そして、もしルーシアさんが本当に再び最高を求め始めたとき、黒猫亭では手に入らないと悟ったとき――」


 アデリナは静かに微笑みながら、言葉を続ける。


「そのときこそ、彼女はシュヴァン・テラスに戻るでしょう」


 その答えには、妙な確信があった。


「……それを決めるのは、ルーシアさん本人ですよ」


 俺は、はっきりと言った。

 アデリナの微笑みが、一瞬だけ消える。


「……ええ」


 すぐに元へ戻った。


「その通りです」


 それだけ言うと、彼女は席を立った。

 白いスーツの裾が、椅子の横で静かに揺れる。


「今日は、随分と興味深いお話ができました」

「俺は、まだ偵察の途中なんですけどね」


 少しだけ冗談めかして言う。

 アデリナは、それを聞いて微笑んだ。


「ええ。どうぞ、ごゆっくりご覧になってください」


 そして扉へ向かう前に、ふと振り返った。


「カズキさん」

「はい?」

「あなたは、ルーシアさんにとって、この店よりも価値のあるものを与えられると思いますか?」


 確かにルーシアは、コーヒーに対して強いこだわりを持っている。

 毎朝、焙煎の状態を細かくチェックして、わずかな違いにも気を配る。

 お客さんに合わせてコーヒーを提供し、その一杯一杯に真剣に向き合っている。


(でも、それって……黒猫亭だからこそできることじゃないのか?)


 俺は強く首を横に振った。


「ある」

「……ほう?」

「そして、ルーシアさんは、この店には戻らない」


 私はまっすぐアデリナを見据える。


「確かに、ルーシアさんはコーヒーにこだわりを持ってる。でも、それは“最高の環境”を求めてるんじゃない」


 胸の奥が熱くなる。


「彼女は……“自分の淹れたコーヒーを楽しんでもらえる場所”を求めてる!」


 アデリナの表情が、わずかに動いた。

 それは、私の言葉が予想外だったからなのか、それとも気に障った?


「……ふふ、あなたは面白い人ですね」


 彼はゆっくりとこちらに近づき、私を見下ろす。


「なるほど、では少し様子を見ることにしましょう」

「様子を見るって……」

「私はここで待っています。ルーシアさんがどこにいようと、彼女の才能は変わらない」


 優雅に微笑み、最後にこう言い残した。


「いずれは黒猫亭ではなく、シュヴァン・テラスこそが彼女の居場所になるのですから」


 その言葉を最後に、アデリナは去っていった。


 俺は一人、席に残された。

 テーブルの上には、シュヴァン・テラスのコーヒーがある。

 黒曜石のように澄んだ、美しい一杯。

 確かに、うまい。

 だけど、俺の知っているルーシアのコーヒーとは何かが違う。

 その理由を考えるが、すぐに分かってしまった。


「そうか……」


 ――ルーシアが淹れてくれるコーヒーだから、好きなんだ。


「…………参ったな」


 思わず苦笑する。


 同業者の偵察のつもりで来た。

 けれど今、頭の中にあるのはシュヴァン・テラスの経営でも、サービスでもない。

 黒猫亭へ戻ったら、ルーシアに何と言おう。

 いつも通り「ただいま」と言えばいいのか。


 俺はカップを置き、席を立った。

 もう一度、店内を見回す。

 豪華なシャンデリアに大理石……上質な雰囲気が漂う。

 確かに、ここにはここでしか得られない価値がある。


 それでも。


「……俺は、黒猫亭のほうが好きだな」


 誰もいない客席で、そう呟いた。


 シュヴァン・テラスへ戻るのか、それとも黒猫亭に残るのか。

 決めるのはルーシア自身だ。


(だからこそ俺は、ルーシアがここにいたいと思える店を作ろう)


 それが、今の俺にできることだった。


 店を出る。

 午後の街には、柔らかな風が吹いていた。

 俺は来たときよりも少しだけ早い足取りで、黒猫亭へ向かう。

 早く帰って、ルーシアの顔が見たかった。

 ただ、それだけだった。

読んでいただきありがとうございます!


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今後ともよろしくお願いします。

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