第19話 これはあくまで偵察だから!
アデリナが黒猫亭を訪れてから、一夜が明けた。
朝の黒猫亭には、いつもと変わらない時間が流れている。
焼き上がったパンの香ばしい匂いが店内へ広がり、カウンターの奥では、ルーシアが慣れた手つきでコーヒー豆を挽いている。
窓から差し込む朝日が彼女の黒い髪を淡く照らし、その横顔は昨日までと何も変わらない。
……少なくとも、俺にはそう見えた。
ただ問題は、俺のほうだった。
(気にならないわけ、ない……)
昨日、アデリナから聞かされたこと。
ルーシアが、かつてシュヴァン・テラスで働いていたこと。
しかも、ただの店員ではない。
最優秀バリスタ。
あのシュヴァン・テラスで、最高の技術を持つバリスタとして認められていた。
その話を聞いてから、俺は何度もルーシアの背中を見てしまっていた。
いつものように豆の状態を確かめ、湯の温度を調整し、迷いなくドリップを始める姿。
それは黒猫亭で毎日見ている光景なのに、昨日までとは少し違って見える。
(……ルーシアさんって、すごい人だったんだな)
そんなことを考えていると、ルーシアが振り返った。
「……はい、ブレンド。味見して」
「お、おう」
ルーシアからカップを受け取り、口をつける。
ちゃんといつもの味。
俺にとっては最優秀バリスタとか関係なくルーシアの淹れたコーヒーの味。
「それで、さっきから何? ずっとこっちを見てる」
「いや、その……」
しまった。
見ていたのがばれていたらしい。
「昨日のことを思い出してた。アデリナさんの話」
その名前を出した瞬間、ルーシアの手が止まった。
彼女は視線を落とし、手元のコーヒー豆へ目を向ける。
「……昔の話よ」
「そう、だよな……」
ルーシアはそれ以上何も言わない。
俺も黙った。
聞きたいことは、いくらでもある。
どうしてシュヴァン・テラスを辞めたのか。
最優秀バリスタにまでなった人間が、なぜこんな小さな店で一人で働いていたのか。
「ルーシアさん」
「何?」
「シュヴァン・テラスのこと、聞いてもいいか?」
ルーシアは答えなかった。
代わりに、ポットを持ち上げる。
細い湯が、コーヒー粉の中央へ静かに落ちていく。ふわりと膨らんだ粉から、深い香りが立ち上った。
「……話したくないこともある」
「そうか」
「…………」
「なら、無理に聞かない」
ルーシアが顔を上げた。
「…………変なの」
「何が?」
「普通なら、もっと聞きたがると思う」
「俺だって気になるよ。ただ――」
俺はカウンター越しに彼女を見る。
「今のルーシアが、ここでコーヒーを淹れてる。それで十分だと思ってる」
「……っ」
ルーシアの頬が、ほんのり赤くなった。
「……そうね」
ぷいっと顔を背けてしまう。
その反応が可愛くて、俺は思わず笑ってしまった。
「何よ」
少し強めに言い返したあと、彼女は自分でも言い過ぎたと思ったのか、気まずそうに咳払いをした。
「……はい、今朝焙煎したエルダ、味見して」
「おう」
差し出されたカップから、深煎りのエルダの香りが立ち上る。
俺は一口飲んだ。
苦味の奥にしっかりとしたコクがあり、最後には煙を思わせる香りが静かに残る。
何度飲んでも、うまい。
けれど今日は、その味の向こう側にいるルーシアの過去まで想像してしまう。
(……知りたい)
ルーシアが何を見て、何を思って、この黒猫亭を営んでいるのか。
いつか本人が話してくれるまで、待つしかない。
そう思っていた。
◇
そして、黒猫亭の定休日。
俺は一人、シュヴァン・テラスの前に立っていた。
「…………」
目の前にあるのは、白亜の大きな建物だった。
石造りの壁は陽光を受けて眩しく輝き、正面玄関へ続く階段には小さな塵ひとつ見当たらない。
大きな窓から覗く店内には、上品な照明と落ち着いた色合いの家具が並んでいる。
黒猫亭とは、何もかもが違う。
「……ここでルーシアさんが働いてたのか」
思わず呟く。
胸の奥が、妙にざわついた。
もちろん、俺がここへ来た理由は決まっている。
同業者の偵察だ。
黒猫亭を経営していく以上、競合になり得る店を知っておくことは重要だ。
価格帯。
客層。
サービス。
店内の雰囲気。
どんな仕組みで客を呼んでいるのか。
調べて損はない。
(……うん。偵察だ)
自分に言い聞かせる。
(決して、ルーシアさんの過去が気になったから来たわけじゃない)
……いや。
それも少しはある。
認めるしかない。
俺はずっと気になっていた。
ルーシアが最優秀バリスタに選ばれるほどの技術を持っていたことも。
そんな場所を辞めて黒猫亭を選んだ理由も。
そして、今の彼女が何を大切にしているのかも。
「……よし」
俺は小さく息を吐き、扉を開いた。
店内へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
天井には大きなシャンデリアが吊られ、磨き上げられた大理石の床には柔らかな光が反射している。
テーブル同士の間隔は広く、椅子も座り心地を最優先にしたような造りだ。
店員の動きも無駄がない。
「いらっしゃいませ」
黒い制服のウェイターが一礼する。
「お席へご案内いたします」
「お願いします」
案内された席に座り、俺はメニューを開いた。
コーヒー一杯の価格は、黒猫亭よりかなり高い。
だが、それだけの理由はすぐに分かった。
豆の説明から提供方法、接客、店内の雰囲気に至るまで、すべてが「特別な時間」を演出するために組み立てられている。
(なるほど……)
客層が違う。
黒猫亭は、仕事帰りの商人や職人が気軽に立ち寄り、疲れた身体を休める場所。
一方、シュヴァン・テラスは、時間とお金に余裕のある貴族や上流階級の人間が、その価値に対して対価を払う場所だ。
(やっぱり、無理に張り合う必要はないな)
黒猫亭は今の路線でいい。
そう考えていた。
「……あら?」
背後から声がした。
落ち着いた、よく通る声。
俺が振り返ると――。
「これは意外なお客様ですね」
そこに立っていたのは、いつもの白いスーツを着たアデリナだった。
美しい顔立ちは穏やかな微笑みを浮かべているものの、その銀色の瞳には相手の内側まで見透かすような鋭さがあった。
「……アデリナさん」
「カズキさん、でしたね」
名前を呼ばれ、俺は少し驚く。
「俺のこと、知ってたんですか?」
「黒猫亭で働いている方ですもの。当然でしょう」
アデリナは微笑んだ。
丁寧なのに、どこか背筋が寒くなる笑顔だった。
「いつか、あなたがいらっしゃるとは思っておりました」
「……まあ、同業者ですから」
「ふふ。そういうことにしておきましょう」
その言い方が妙に引っかかった。
「でも、どうして俺が来ると思ったんです?」
「理由はふたつあります。ひとつはあなたが黒猫亭を変えた方だからです」
「……俺が経営を担当していることも知っているのか」
「ええ」
アデリナは向かいの椅子に腰を下ろすこともなく、俺を見つめた。
「黒猫亭が短期間で客を増やしたこと。その中心にあなたがいること。商人たちの間では、すでに有名ですよ」
「それは……」
「あなたの手腕には大変興味があります」
褒めているように聞こえる。
だが、目は少しも笑っていない。
「ですが、シュヴァン・テラスには必要ないでしょう」
「はっ、そうですか」
何を言われようが、俺は黒猫亭から離れるつもりはないから気にならない。
アデリナもそのまま優雅に微笑みながら続ける。
「そして、あなたがいらっしゃったもうひとつの理由は、ルーシアさんの過去がここにあるから、でしょう」
「…………」
図星だった。
無言になる俺を気にせずアデリナは続ける。
「彼女は大変魅力的な女性ですから、過去が気になるのもわかります。ですが、私があなたに話す義理はありません」
「ぐっ……それもそうだな」
ここに来ればルーシアのことがなにか分かるかと期待していたが、そううまくはいかない。
「ただ、私の求めているものを与えてくれるのであれば、教えてあげてもいいですよ」
「そうだな、何がほしいのか聞いてから判断する」
「私が求めているのは……ルーシア・エルバートただ一人です」
俺は息を呑んだ。
アデリナの瞳が、まるで獲物を見つめる狩人のように光る。
(……ルーシアさんを、狙ってる?)
俺は、その言葉の真意を探ろうと、彼女を睨み返した。
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