第18話 シュヴァン・テラスのバリスタ
黒猫亭の朝は、もう「静かな朝」と呼べるものではなくなっていた。
仕事へ向かう前に立ち寄る常連客も増え、狭い店内には、挽きたての豆が立てる香ばしい匂いと、焼き上がったパニーニの食欲をそそる香りが広がっていた。
「ルーシアさん、エルダを一つ」
「うん、わかった」
ルーシアは注文を受けると、すぐに豆へ手を伸ばした。
細い指が手際よく動き、一定のリズムで豆を挽いていく。
その横では、俺が鉄板の上でパニーニを焼いていた。
ジュッ、とパンが焼ける音がする。
香ばしい匂いが立ち上り、表面にきれいな焼き色がついていく。
「パニーニ、もうすぐ焼ける」
「わかった。先にコーヒーを出す」
「ああ」
短い言葉だけでやりとりをする。
俺が注文や配膳を受け持ち、彼女がコーヒーと料理に集中する。
以前はそうだったが、俺も仕事を覚えて、お互いをサポートできるようにした。
そのほうが互いの仕事が見えやすく、何より店全体がずっとスムーズに回る。
忙しいのに、不思議と息苦しくない。
むしろ、この感じが俺は好きだった。
「……カズキ。さっきから、嬉しそうね」
コーヒーを淹れながら、ルーシアがこちらを見る。
「そう見える? まあ……嬉しいよ、こうして客が増えてくれると。やっぱり頑張った甲斐があったって思うから」
「……そうね」
ルーシアはそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
俺はこの顔を見るのが好きだった。
店が繁盛したから嬉しいのか、それとも――。
考えかけたところで、カラン、と扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ――」
ルーシアの声が、途中で止まった。
俺も顔を上げる。
白いスーツをまとった女性が、店の入り口に立っていた。
ただ立っているだけなのに、まるでその場の空気そのものを整えてしまうような存在感がある。
「……アデリナさん」
ルーシアが小さく名前を呼んだ。
俺も思い出す。
以前、黒猫亭へ偵察にやってきた女性だ。
高級カフェ《シュヴァン・テラス》を取り仕切る支配人――アデリナ・フォン・バルツァー。
彼女は店内を一度見渡すと、以前より明らかに客が増えた黒猫亭を見て、わずかに目を細めた。
「……随分と変わりましたね」
アデリナはルーシアをじっと見つめていた。
「お店もそうですが、あなたもです。ルーシアさんがこれほど嬉しそうに働いている姿を見るのは、久しぶりです」
アデリナは微笑んだ。
「シュヴァン・テラスにいた頃のあなたは、もっと険しい顔をしていましたから」
「……」
ルーシアの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「その話は、今ここでするの?」
「失礼。今日はコーヒーをいただきに来ました」
アデリナはそれ以上踏み込まず、空いている席へ向かった。
「何にしますか?」
「フローレを」
「かしこまりました」
ルーシアがカウンターへ戻る。
その姿を見ながら、俺は突然の情報に驚きを隠せなかった。
ルーシアが昔、あの高級カフェで働いていた?
シュヴァン・テラスにいたなんて話、聞いたことがない。
しかも、アデリナの口ぶりからすると、それなりに長い付き合いらしい。
そんなことを考えていると、アデリナが俺を見る。
「カズキさん」
「はい?」
「少し、お話をしてもよろしいでしょうか」
「俺と?」
「ええ」
彼女はコーヒーを待ちながら、静かに微笑んだ。
「黒猫亭の評判がシュヴァン・テラスまで届いています」
「それは……ありがたいですね」
「ですが、私が興味を持ったのは、評判そのものではありません」
アデリナの視線が店内を巡る。
「私は、この店を誰が、どうやってここまで変えたのか、を知りたいのです」
「ああ……」
やっぱり経営のことか。
俺は少し肩をすくめる。
「まあ、誰なのかは、“あなた”であることはわかっています」
「俺がやったことなんて、聞きかじった知識を試しているだけですよ」
「聞きかじった知識、ですか」
「本当にその程度です。俺、商売の専門家じゃありませんし」
アデリナは黙って俺を見つめた。
「……謙虚なのですね」
「いや、本当に大したことないんです」
「そうでしょうか」
その目が、ほんの少し細くなる。
「私は、大したことがないと言いながら、結果だけはきちんと出す人間のほうが厄介だと思っていますよ」
「厄介って……」
思わず苦笑する。
すると、隣からルーシアが口を挟んだ。
「カズキは、本当に自分を大したことないと思っているみたいよ」
「ルーシアさん、それ褒めてる?」
「褒めてるわ」
「……ならいいか」
ルーシアが小さく笑う。
その笑顔を見て、俺もつられて笑った。
その瞬間だった。
「……なるほど」
アデリナが、静かに呟いた。
「何がです?」
「いえ」
アデリナは俺たちを交互に見ながら、意味ありげに微笑んだ。
「黒猫亭が変わった理由が、少し分かった気がします」
何のことか分からず、俺は首を傾げた。
ちょうどそのとき、ルーシアがコーヒーを淹れ終える。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
アデリナはカップを受け取ると、立ち上る香りを確かめるように目を伏せた。
そして、一口。
しばらく味を確かめるように舌の上で転がしてから、ゆっくりとカップを置く。
「……相変わらずですね」
アデリナは、どこか懐かしそうに目を細めた。
「シュヴァン・テラスにいた頃と、変わっていません」
「……そう」
「ええ。湯の落とし方も、香りの立て方も」
アデリナは一度カップへ視線を落とす。
「昔から、そこだけは頑固でしたものね」
ルーシアは返事をしなかった。
俺は二人の様子を見て、ますます気になった。
「ルーシアさんって、シュヴァン・テラスで働いていたんですか?」
「はい」
またしても、ルーシアより先にアデリナが答えた。
「とても優秀なバリスタでしたよ」
「……そんなに?」
俺がルーシアを見ると、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。
「大したことじゃないわ」
「いや、大したことあるだろ。シュヴァン・テラスって、この辺じゃかなり有名な店なんだろ?」
「そうですね」
アデリナは淡々と答えた。
「彼女はそこで最優秀バリスタに選ばれたこともあります」
「……え?」
思わず声が漏れた。
ルーシアが小さくため息をつく。
「だから言いたくなかったのよ」
「どうして?」
「昔の話だから」
「でも……」
俺は改めて彼女を見る。
毎日、当たり前のようにコーヒーを淹れている姿しか知らなかった。
そんな彼女が、実は一流店でトップに立っていた。
考えてみれば、納得できることはいくつもある。
豆の焙煎から抽出まで、彼女は感覚だけで調整している。
それで、素人である俺でさえおいしいとわかるレベルのコーヒーを提供している。
そんな技術を持っているなら、最優秀に選ばれていても不思議ではない。
「ルーシアさんは、シュヴァン・テラスで腕を磨きました」
アデリナが続ける。
「そこで十分な評価を得て、それから独立したのです」
「それで、黒猫亭を?」
「ええ」
俺は店内を見渡した。
古い木の看板に決して大きくない居抜きの店。
そのすべてが、今までとは違って見えた。
ルーシアは、もっと大きな舞台へ行けたはずなのに。
それなのに、この店を選んだ。
「……どうして?」
気づけば、俺は尋ねていた。
「どうしてシュヴァン・テラスを辞めて、ここを選んだんだ?」
ルーシアが俺を見る。
その表情には、少しだけ迷いがあった。
しかし、答えたのはアデリナだった。
「私も、昔から不思議に思っていました」
その声に、わずかな棘が混じる。
「これほどの腕を持っているのに、どうしてわざわざ独立してまで、庶民を相手にする店を選んだのか、と」
「……アデリナさん」
ルーシアの声が低くなる。
アデリナは気にした様子もなく、微笑んだ。
「失礼。私は事実を言っただけですよ」
「……」
「あなたほどのバリスタなら、もっと相応しい場所があるでしょうに」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
ルーシアがどんな気持ちでここを続けているのか、この人だって知っているはずだ。
それなのに、わざわざ「庶民を相手にする」と言う。
嫌な言い方だ。
「私は、自分の店を持ちたかったの」
ルーシアが静かに答えた。
怒っているようにも見えたが、声は落ち着いていた。
「シュヴァン・テラスは素敵な店。たくさんのことを学ばせてもらったし、アデリナさんにも随分お世話になった」
「……」
「でも、私が作りたかったのは、あの店じゃなかった」
ルーシアは店内を見渡した。
「仕事で疲れた人が、一杯のコーヒーを飲んで少しだけ息をつける。身分なんて関係なく、美味しいものを美味しいと思ってもらえる。私は、そういう店を作りたかったの」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
それは、黒猫亭のコンセプトそのものだった。
「だから、ここを選んだのか」
「うん」
ルーシアは俺に向かって頷いた。
「たとえ大きな店じゃなくても、私が淹れたいコーヒーを、私が納得できる場所で出したかったから」
「……そう」
アデリナは微笑んだ。
しかし、その笑顔には先ほどまでとは違う冷たさがあった。
「あなたらしいですね、ルーシアさん」
「……」
「昔からそうでした。評価されることより、自分が納得できる仕事をすることを優先する」
懐かしむように少しだけ笑う。
「だから私は、あなたが独立すると聞いたときも驚きませんでした」
アデリナはカップを指先でゆっくり回す。
「ただ……少し、もったいないとは思いますけれど」
ルーシアの眉がぴくりと動いた。
「私は後悔していないわ」
「そうでしょうね」
アデリナは笑った。
ただ、俺とルーシアを交互に見て、まるで何かを確かめるように微笑んでいる。
「……それにしても」
アデリナがふいに俺へ視線を向ける。
「面白い方を見つけましたね、ルーシアさん」
「え?」
「この方です」
俺を指すわけでもなく、ただ視線だけを向けてくる。
「まさか、あなたが経営の素人を連れてきて、それでいてここまで店を変えるとは思いませんでした」
「カズキは素人じゃないわ」
ルーシアがすぐに言い返した。
「少なくとも、私にはできなかったことをしてくれた」
「まあ」
アデリナの目が細くなる。
「ずいぶん高く評価しているのですね」
「……当然でしょう」
「ふふ」
アデリナは楽しそうに笑った。
「今日は、とても良いものを見せてもらいました」
そう言いながら、アデリナは椅子から立ち上がった。
「ごちそうさまでした。久しぶりに、あなたのコーヒーを飲めてよかったです」
「……そう」
「ええ。味だけは、昔と変わりません」
その「味だけ」という言葉が妙に引っかかった。
アデリナは扉へ向かう。
そして、最後に一度だけ振り返った。
「では、ごきげんよう」
カラン、と扉のベルが鳴る。
白い背中が通りへ消えていく。
扉が閉まると、ようやく店内にいつもの空気が戻ってきた。
「……なんだったんだ、あの人」
俺が呟くと、ルーシアはしばらく扉を見つめていた。
「昔から、ああいう人なの」
「シュヴァン・テラスにいた頃から?」
「……うん」
ルーシアは小さく頷く。
「悪い人じゃないわ。でも……何を考えているのか分からないところがある」
「俺もそう思った」
少し沈黙が落ちる。
やがてルーシアが、ぽつりと言った。
「……カズキ」
「ん?」
「私が昔、シュヴァン・テラスで働いていたこと……黙っていて、ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないだろ」
俺は笑った。
「過去は過去だよ。それに、今ここでルーシアが淹れてくれるコーヒーが美味しい。それで十分だ」
「……」
ルーシアが黙り込む。
「ルーシアさん?」
「……ううん」
彼女は小さく首を振った。
「なんでもない」
けれど、その頬は少しだけ赤かった。
俺はそんな彼女を見ながら、ふと思う。
シュヴァン・テラスの最優秀バリスタ。
そんな肩書きを持っていたなんて、今まで知らなかった。
でも、俺が惹かれているのは、その肩書きじゃない。
朝早くから豆を挽き、一杯一杯に向き合って、忙しくなれば眉を寄せながらも嬉しそうに働いている今のルーシアだ。
そして、そんな彼女が大切にしているこの店を、俺も一緒に守っていきたいと思っている。
「……カズキ」
「ん?」
ルーシアが俺を見る。
「これからも……ここにいてくれる?」
突然の言葉だった。
俺は一瞬だけ驚いて、それから笑った。
「ああ。もちろん」
ルーシアは安心したように息を吐き、ほんの少しだけ笑う。
「……そう」
その顔を見た瞬間、胸が妙に高鳴った。
けれど俺は、その理由をまだうまく言葉にできなかった。
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