第2話 異世界のカフェを立て直す
「……さて」
黒猫亭を立て直す。
そう決めて、俺は改めて店の中を見回していた。
さっきまでとは、同じ景色なのに少しだけ見え方が違う。
ここは俺がこれから働く場所であり、同時に、ルーシアの大切な店でもある。
潰れかけているとはいえ、何もかもが駄目になっているわけじゃない。
「……もったいないな」
「何が?」
カウンターの向こうで、ルーシアが顔を上げる。
「この店だよ」
俺は近くのテーブルに手を置いた。
長く使われているせいか表面には細かな傷があるものの、木の質感には落ち着きがあって、雑に扱われている印象はない。
椅子も同じで、決して新しくはないが、座ってみれば妙に身体に馴染む。
店全体に漂っているのも、古びたというより、長い時間をかけて作られた居心地の良さだった。
そして何より、この店には――。
「コーヒーがある」
「……それ、当たり前じゃない?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
俺は苦笑した。
「さっき飲ませてもらったけど、本当に美味かった。少なくとも俺が故郷で飲んでたコーヒーと比べても、負けてないと思う」
「……そう」
ルーシアはそっけなく返したものの、口元だけがほんの少し緩んでいる。
褒められるのは嫌いじゃないらしい。
むしろ、コーヒーのことになると分かりやすい。
「それに、店主も悪くない」
「……何それ」
「いや、店主もかなり良いと思うぞ。店を一人で切り盛りしてるんだろ?」
「それは……そうだけど」
「しかも美人だし」
「…………」
ルーシアの動きが止まった。
どうしたんだろうと思って顔を見ると、頬がほんのり赤くなっている。
「……急に何を言ってるの」
「事実を言っただけだけど」
「そういうことを、普通の顔で言わないで」
「普通の顔って……」
俺にはよく分からない。
ただ、ルーシアが恥ずかしそうに目を逸らしたので、これ以上言うのはやめておいた。
異世界に来ていきなり女性を口説いていると思われるのも困る。
俺は改めて店内を見回した。
やっぱり、素材は悪くない。
だったら、問題は別のところにある。
「ちょっと外から見てみよう」
「外?」
「店の中にいると、客の目線になれないから」
ルーシアが首を傾げながらついてくる。
扉を開け、俺たちは黒猫亭の前に立った。
そして少しだけ通りを歩き、振り返る。
「……なるほど」
「何?」
「入口だな」
「入口?」
ルーシアも俺と同じ方向を見る。
黒猫亭の看板は、ちゃんと店名を示している。
けれど、通りを歩く人間から見れば、そこに何の店があるのかが一目では分からない。
店内の様子も、入口からはあまり見えなかった。
「店の中に入れば良さが分かる。でも、そもそも入ってもらえなかったら意味がない」
「……確かに」
「人って、思っている以上に第一印象で判断するんだ」
俺はそう言いながら、少しだけ考えた。
日本にいた頃、ネットの記事で何度も見かけた話だ。
人は最初に受けた印象に引っ張られやすい。
たとえば、身なりの整った人を見れば、仕事もできそうだと思ってしまう。
逆に、最初から悪い印象を持ってしまえば、その後に良いところを見つけても評価を上げにくい。
マーケティングでは、そうした心理を利用する考え方もある。
確か――。
「ハロー効果、だったかな」
「……何それ?」
ルーシアがこちらを見る。
「簡単に言えば、ひとつの目立つ特徴に引っ張られて、全体まで良く見えたり悪く見えたりする心理効果だよ」
「つまり?」
「店の入口が魅力的なら、中にあるコーヒーまで美味しそうに感じてもらえる可能性がある。逆に、入口が入りづらければ、中身を見る前に『この店は自分には合わない』と思われるかもしれない」
「……なるほど」
ルーシアは看板を見上げた。
「でも、看板を新しくするの?」
「いや。むしろ、これは残したい」
俺は古い木製の看板を見た。
黒猫亭という名前と、少し使い込まれた木の雰囲気はよく合っている。
新品の派手な看板に変えてしまえば、確かに目立つかもしれない。
けれど、それではこの店が持っている雰囲気まで壊してしまう。
「この看板、悪くないだろ?」
「私は好き」
「じゃあ、きれいに磨こう。文字がもう少し見やすくなるだけでも印象は変わる」
「それくらいなら、私も賛成」
ルーシアが看板に手を伸ばした。
そのとき、俺はふと気になって尋ねた。
「そういえば、この辺ってどんな人が多いんだ?」
「どんな人って?」
「この店に来る可能性がある客」
「……商人とか職人とかじゃない?」
ルーシアは通りを見渡した。
「この辺りは商売をしている人が多いから。仕事の途中で休憩する人もいるし、買い物のついでに寄る人もいる」
「貴族は?」
転生先の異世界と言えば貴族がいるものだ、という予測をして一応聞いてみる。
すると、ルーシアは少し意外そうな顔をした。
「貴族?」
「うん。やっぱりいるんだろ?」
「もちろんいるけど……」
そこでルーシアは、少し考えるように首を傾げた。
「貴族がわざわざ、この辺りまで来ることはあまりないと思う。そういう人たちは、もっと王都の中心に近い場所を利用するから」
「なるほど。ってか、ここ王都なのか」
「ん? ここはクラウゼル王国の王都、アルディア。中心地から離れてはいるけど、ちゃんと王都内」
「そうなのか……いかんせん死にそうだったんで気が付かなかった!」
適当にごまかしつつ、俺は周囲を見回した。
そこで初めて、この通りの景色が少し違って見えた。
荷物を積んだ荷車が行き交い、店先では商人らしき人が客と話している。
少し離れたところでは、作業着姿の職人が工具を抱えて歩いていた。
ここは、この街で働いている人たちの生活圏だ。
「だったら、貴族を狙う必要はないな」
「……狙う?」
「店に来てもらう客として考える必要がないってこと」
俺は少し考えてから、黒猫亭を振り返った。
「むしろ、この辺で働いている人たちを相手にしたほうがいい」
「商人や職人を?」
「ああ」
俺の中で、ようやく店の形が見えてきた。
「仕事の合間に、ちょっと休憩できる店にするんだ」
「うん」
「疲れたときに、ここへ来れば美味しいコーヒーが飲める。少し座って、気持ちを落ち着けて、それからまた仕事に戻れる。そういう店」
ルーシアは黙って俺の話を聞いていた。
「高級店みたいにする必要はない。誰でも気軽に入れるけど、出てくるコーヒーだけは本物。そういう方向なら、この店にも合ってると思う」
「うーん」
「もしかしたら、ルーシアさんはそのつもりでここに店を出したのかもしれないけどさ」
「……ううん、空いてたからここにした」
「えっ……」
驚く俺を尻目にルーシアが、ぽつりと言った。
「でも、私が考えてた黒猫亭と、そこまで違わないかも」
「本当か?」
「うん」
彼女は少し照れたように笑った。
「特別な人だけが来る店じゃなくて、疲れた人がコーヒーを飲んで、元気になって帰っていくような店、いいね」
その言葉を聞いて、俺は頷いた。
「だったら、方向性は決まったな」
「方向性?」
「黒猫亭は、働く人が気軽に休めるカフェだ」
「……うん、いいと思う」
ルーシアが笑った。
ほんの少しだけ目を細めた、その表情が妙に柔らかく見えて、俺は思わず口にした。
「やっぱり、笑ったほうが綺麗だな」
「またそれ?」
「いや、本当にそう思ったから」
「……カズキって、そういうところだけ妙に素直ね」
そう言いながら、ルーシアは顔を背ける。
耳まで赤くなっているのが見えた。
(あ、あれ? ルーシアさんは確かに美人だけど、なんで俺はこんなに「綺麗だ」なんて簡単に言ってるんだ? 日本にいた頃の俺では考えられない……これは死んだせいなのか?)
そんなことを考えていると、ルーシアがぽつりと尋ねた。
「でも、カズキ」
「ん?」
「本当に、そんなことができるの?」
さっきまでの照れた様子とは違う。
今度は、真剣な目だった。
「私には、コーヒーを作ることしかできない。店を続けたいとは思ってるけど、どうすれば客が増えるのかなんて分からない」
俺は答える前に、少しだけ間を置いた。
「俺だって、全部分かってるわけじゃない」
「……そうなの?」
「故郷で実際に店を経営してたわけじゃないからな」
ルーシアが目を丸くする。
「じゃあ、さっきのハロー効果って?」
「ネット……ビジネス本で読んだ知識だよ」
「ビジネス本?」
「商売や心理学について書かれた書物をよく読んでたんだ」
「……あなたって勉強家なのね」
「お、おう、そうかもな」
俺は苦笑する。
本当は、俺の知識は本や論文を読んで身につけた専門知識じゃない。
あくまでネットで見聞きしたことが中心だ。
だから、間違ってることもあるはず。
「ただ、実践はしたことがないからどうなるかはわからん!」
「それなのに、自信満々に話してたの?」
「……そこは反省してる」
ルーシアが少し笑った。
「正直なのね」
「知ったかぶりして失敗するよりはいいだろ」
「そうね」
ルーシアは少し考えてから、俺をまっすぐ見た。
「じゃあ、あなたは何ができるの?」
「店をどう見せるか考えること。どうすれば人に知ってもらえるか考えること。それから、実際に手を動かすこと」
「コーヒーの知識は?」
「飲むだけであとはさっぱりだな」
「そこは頼りないのね」
「頑張ります」
今度は二人で笑った。
笑いが収まると、ルーシアは少しだけ真面目な顔に戻った。
「じゃあ、カズキが店のことを考えて。私はコーヒーを作る」
「ああ。それが一番いいと思う」
「でも、ひとつだけ約束して」
「何?」
「お客さんを騙すようなことはしないで」
ルーシアの声は静かだった。
けれど、そこには譲るつもりのない意志があった。
「美味しくないものを美味しいと言ったり、安いものを高級品みたいに見せたり……そういう方法で客を増やすなら、私は嫌」
「分かった」
俺はすぐに頷いた。
「俺も、そんなことをしたいわけじゃない」
俺は店の中を見た。
古いけれど温かみのある内装。
長く使われてきたテーブル。
そして、ルーシアが丁寧に淹れるコーヒー。
「良いものを、良いものとして知ってもらう。それなら俺も協力できる」
ルーシアはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ笑う。
「……なら、任せる」
「任せてくれ」
こうして、俺たちの役割が決まった。
俺は店の経営と宣伝を考える。
ルーシアはおいしいコーヒーを淹れる。
お互いにできないことを補えばいい。
それなら、潰れかけたこの店にも、まだやりようはあるはずだ。
「じゃあ、さっそく始めよう」
「何を?」
「店の掃除」
「……そこから?」
「そこからだよ」
俺は笑いながら、入口の看板を指差した。
「まずは黒猫亭を、通りを歩いてる人から見ても『ちょっと入ってみようかな』と思える店にする」
ルーシアは大きく息を吐いた。
それでも、その顔にはどこか楽しそうな色が浮かんでいる。
「分かった、やる」
「助かる」
俺は看板に手を伸ばした。
異世界で始めることになった新しい人生。
その最初の仕事は、思っていたよりずっと地味だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
ここから俺の新しい人生が始まるんだ。
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