第1話 異世界転生と潰れかけのカフェ
第1章全28話。毎日更新します。
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、コーヒーの香りだった。
深く、香ばしく、それでいて不思議と落ち着く香り。
鼻の奥をくすぐるその匂いに誘われるように、俺はゆっくりと目を開けた。
「……ここは……?」
視界に入ったのは、見覚えのない天井だった。
木の梁がむき出しになっていて、ところどころ年季の入った木材が淡い朝日に照らされている。
窓から差し込んだ光が床に細長い影を落とし、舞い上がった埃が、その中をゆっくりと漂っていた。
俺の部屋じゃない。
頭は重かったが、身体に痛みはない。
腕を動かす。
“知らない天井”と言えば病院のイメージだが、どこも怪我をしたような感覚はなかった。
けれど、俺は思い出した。
昨日までのことを……!
仕事帰り、いつものようにスマホを眺めながら信号待ちしていた。
そのとき読んでいたのは、仕事とは直接関係のないビジネス記事だった。
『マーケティング心理学で売上爆増! ビジネスはやるべきことをやってる人が勝つ』
そんなタイトルだったと思う。
俺は昔から、こういうネット記事を読むのが好きだった。
成功した経営者の話。
売れる商品の作り方。
人がどういう心理で商品を買うのか。
仕事では大して役に立たない知識でも、なぜか面白くて、気づけば夜更かしして読んでいることもあった。
そして、クラクションが聞こえ、振り返った瞬間に視界を埋め尽くした、白い光。
身体に走った凄まじい衝撃。
それから先は、何も覚えていない。
「……俺、どうなったんだ?」
突然、背筋が冷たくなった。
頭をよぎる“死”という言葉。
ただ嫌な夢を見ただけかもしれない。
けれど、不思議なくらい頭は冷静だった。
いや、冷静にならざるを得なかった。
だって、体中の感覚器官が今この状況は現実だと感じさせている……。
「目が覚めた? 起きられる?」
突然、声がした。
低く、落ち着いた女の声。
俺は反射的に顔を向けた。
そこにいたのは、一人の女性だった。
カウンターの向こうで、こちらをじっと見ている。
長い黒髪が肩から背中へ流れ、外からの光を受けて艶やかに輝いていた。
黒い髪とは対照的な、鮮やかな黄色の瞳。
整った顔立ちは、どこか猫を思わせる。
そして――。
エプロン越しでも隠しきれない、女性らしい身体のライン。
かなり、スタイルがいい。(おっぱいデカい)
……いや、そんなことを考えている場合じゃないだろ、俺。
と、そんなことを考えながら上半身を起こす。
「大丈夫そうね」
女性は俺の反応を確かめると、小さく息を吐いた。
どうやら心配してくれていたらしい。
けれど、安心したからといって笑うわけでもない。
むしろ少しだけ眉を寄せている。
「店の裏で倒れてた。怪我はなさそうだったから、ここまで運んだ」
「あ、ありがとうございます……」
「礼はいらない。放っておくわけにもいかなかっただけ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、その言葉とは裏腹に、俺のそばには水の入ったグラスが置かれている。
……こういう人なのか。
口では素っ気ないのに、やることは妙に優しい。
俺はソファーから降り、改めて室内を見渡した。
そこで、ようやく違和感の正体に気づく。
「……ここ、カフェですか?」
「うん」
女性が短く答える。
カウンターの奥には、見慣れない金属製の器具が並んでいた。
コンロらしきものの中央には、淡い赤色の光を宿した石が埋め込まれている。
その上では銀色のポットが静かに湯気を立てていた。
壁に掛けられた黒板のメニューには、見慣れた文字が並んでいる。
・ブレンド
・深煎り
・カフェオレ
――コーヒー。
「……コーヒーがある」
「当たり前。ここはカフェだから」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
俺は窓の外を見た。
石造りの建物。
見たことのない街並み。
通りを歩く人々の服装も、日本とは明らかに違う。
それなのに、文字は読める。
言葉も通じる。
目の前のコンロを魔導具と理解している。
そして、事故の記憶。
ここまで揃えば、さすがに認めるしかない。
ここは異世界――。
「……異世界、転生?」
「……何を言っている?」
「いえ、なんでも」
女性は怪訝そうに俺を見た。
その黄色い瞳と目が合う。
猫のような目だ。
鋭いのに、どこか綺麗で――思わず見入ってしまう。
「……何だ」
「え?」
「さっきから私の顔を見ている」
「いや、その……」
しまった、完全にバレていた。
「……綺麗だなと思って」
「――っ」
女性の頬が、ほんの少しだけ赤くなった。
だが、すぐに顔を背ける。
「……変な奴だな」
「すみません」
「謝るほどではない」
そう言いながら、彼女はカップを一つ取り出した。
そして、ポットからゆっくりと湯を注ぐ。
細い湯が、黒い粉の上を円を描くように流れていく。
ふわり、と香りが広がった。
さっき俺が感じたコーヒーの香りだ。
彼女の動きには無駄がなかった。
湯を注ぐ速度も、角度も、すべて一定。
まるで毎日、何百回も繰り返してきた動作のようだった。
「飲む?」
「いいんですか?」
「倒れていた人間に何も食わせず追い出すほど、薄情じゃない」
「……ありがとうございます」
渡されたカップを両手で受け取る。
温かい。
冷え切っていた身体に、その熱がゆっくり染み込んでいく。
俺は一口飲んだ。
「……美味い」
思わず声が漏れた。
苦味がある。
けれど嫌な苦味じゃない。
口に含んだ瞬間に広がる香ばしさと、鼻へ抜けていく豊かな香り。
飲み込んだあとには、すっと消えるような後味が残る。
「これ……本当に美味しいですね」
「……そう」
女性は小さく答えた。
ほんの一瞬だけ。
その黄色い瞳が嬉しそうに細くなった。
けれど、すぐにいつもの無表情へ戻る。
「私の名前はルーシア・エルバート。この店――『黒猫亭』の店主」
「藤崎和岐……えっと、カズキ・フジサキです」
「カズキ、ね。変わった名前」
「はは、俺の生まれた国では割と普通なんですけどね」
名前を呼ばれただけなのに、妙に胸がくすぐったくなった。
異世界に来て、初めて聞いた自分の名前。
それを呼んでくれたのが、この女性だった。
「それで、カズキ。なんであんなところで倒れてたんだ?」
「え、あー……」
(異世界転生したなんて言っても信じてもらえないよなぁ)
「遠くの商業が盛んな国から来たんだけど、力尽きて一文無しってところです」
それっぽいことを言ったが、嘘ではない。
「商業……一文無し……」
ルーシアはつぶやく。
「そうだ、カズキ。見てもらいたいものがある」
「はい?」
ルーシアはカウンターの下から、一冊のノートを取り出した。
表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。
使い込まれてきたのだろう。
受け取ってページをめくる。
売上。
仕入れ。
家賃。
魔導具の維持費。
数字を追っていくうちに、俺の表情が引きつった。
「……これ」
「うん、お店の帳簿」
「赤字ですよね?」
「そう。でもちゃんと帳簿をつけている、えらいでしょ?」
「えらい……けど、赤字が続いてる」
「あと二ヶ月もたないかもしれない」
淡々と告げるルーシア。
だが、その目には寂しさを感じた。
俺は店内を見渡した。
客はいない。
外は明るいというのに、通りから客が入ってくる気配もない。
テーブルはきちんと拭かれているものの、長く使われているせいか傷が目立つ。
窓際には小さな観葉植物が置かれているが、葉の先が少しだけ枯れていた。
それでも、カウンターだけは、妙に綺麗だった。
コーヒーを淹れる場所だけは、毎日欠かさず磨かれているのだろう。
「……閉めることは考えないんですか?」
俺が聞くと、ルーシアはしばらく黙っていた。
やがて、カウンターの奥に視線を落とす。
「考えた、何度も」
「……」
短い言葉だった。
でも、その声には重さがあった。
「それでも続けてるんですか?」
「私はコーヒーが好きだから」
迷いのない答えだった。
それを聞いた瞬間、彼女の真剣な表情を見た瞬間、俺は少しだけ胸を打たれた。
商売として正しいかどうかは分からない。
でも、目の前の女性が、この店を本気で大切にしていることだけは分かった。
「私は、コーヒーを淹れることしかできない」
ルーシアは静かに言った。
「美味しいものを作れば、誰かが来てくれると思っていた」
黄色い瞳が伏せられる。
「……でも、それだけじゃ足りなかったみたい」
その横顔は、さっきまでよりずっと小さく見えた。
強そうに見えるのに。
不愛想だけど、何でも一人でできそうなのに。
本当は、この店を失うのが怖いんだ。
俺は手元の帳簿を見る。
そして、ふと思った。
「……だったら、俺が手伝いましょうか?」
「……何?」
ルーシアが顔を上げる。
「この店」
俺は帳簿を閉じた。
「立て直しましょう」
ルーシアの目が、大きく見開かれた。
「あなた、どういったことが出来るの?」
「それは……」
俺は苦笑した。
「正直に言うと、分かりません」
「……」
「俺はただの会社員でした。経営者でもないし、カフェで働いた経験だってありません」
「そう……」
「でも」
俺は店内を見渡した。
美味いコーヒーがある。
腕のいい店主もいる。
それなのに客が来ていない。
だったら、足りないのは商品の質じゃない。
「俺、こういうのを考えるのが好きだったんです。どうすれば人が来るのか。どうすれば商品を買ってもらえるのか。どうすれば『また来たい』と思ってもらえるのか」
日本で会社員をしながら、ネット記事を読み漁っていた。
マーケティング。
心理学。
広告。
集客。
成功例ばかりを眺めて、自分が実際に経営することになるなんて、一度も考えたことはなかった。
だけど、やってみようと思った。
一度死んだ身だ。
もう怖いものはない。
「ネット……本で読んだ知識ばかりですけど、使えるものは全部使って、やってやりますよ!」
俺は笑った。
ルーシアは黙って俺を見つめていた。
長い黒髪の隙間から覗く黄色い瞳が、まっすぐ俺を捉えている。
やがて彼女は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「……変な人」
「よく言われます」
「死んだような顔をしていたのに」
「それはまあ……」
俺は苦笑する。
「実際、一回死んだみたいですから」
「……」
ルーシアが黙り込む。
「……そう」
それだけ言って、カウンターに置かれていた俺のカップをそっと俺のほうへ押した。
「正直ちょっと期待してた、ここで働いてくれるかもって」
「え?」
「はい、もう一杯。これから働くなら、味を覚えて」
ぶっきらぼうな言葉。
でも、その耳が少し赤い。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
「じゃあ、いただきます」
俺がカップを口に運ぶ。
ルーシアは何も言わず、こちらを見ていた。
その視線に気づいて顔を上げると、彼女は慌てたように目を逸らした。
「……何ですか?」
「何でもない」
「いや、今見てましたよね?」
「見ていない」
「見てましたって」
「……うるさい」
ほんの少しだけ、ルーシアの口元が緩んだ気がした。
俺もつられて笑う。
異世界に来てしまった。
これは死の境目なのか、すでに死んでいるのか……。
元の世界へ帰れるかどうかも分からない。
それでも今は、この人の力になってみたいと思った。
「ルーシアさん」
「うん」
「今日から、さっそく始めましょう」
「……うん」
「この店、絶対に繁盛させます」
ルーシアはしばらく黙っていた。
そして、ほんの少しだけ照れたように目を伏せる。
「……期待している」
その一言が、妙に嬉しかった。
誰かに期待されたのなんて、いつ以来だろう。
俺は空になったカップを見つめた。
舞台は、客が一人しか来ない潰れかけのカフェ《黒猫亭》。
不器用だけど、誰よりもこの店を大切にしている美人店主。
そして、異世界に放り出された元会社員。
その男が持っている武器は――
生前、暇つぶしに読み漁った、ネットのビジネス知識だけだった。
読んでいただきありがとうございます!
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今後ともよろしくお願いします。




