第16話 チョコビスコッティとお嬢様商人
朝。
黒猫亭は、開店直後だというのにいつもより少しだけ賑やかだった。
『ストーリーテリング』の効果もあり、コーヒーを飲みながら豆や焙煎について尋ねてくる客が増えている。
以前なら注文を受けてコーヒーを淹れるだけだったルーシアも、最近では客の質問に丁寧に答えるようになっていた。
「エルダは深煎りだから、苦味が強いの。でも、ミルクを入れるとまた違った味になるわ」
「へえ……じゃあ、今日はそれを試してみようかな」
「うん」
そう言って微笑むルーシアを見ながら、俺はカウンターを拭いていた。
少し前まで、彼女は客と必要以上に話そうとしなかった。
コーヒーを淹れる。
代金を受け取る。
客が帰る。
それだけだった。
けれど今は違う。
黒猫亭という店そのものに、少しずつ人の温かさが戻ってきている。
それが俺には嬉しかった。
ここでこんなことを考えるのは野暮だとは思うが、ビジネスにおいても大事なことがある。
客と店員の距離が縮まればより強い客層・深いファンになってくれる。
これからも継続的な収益が見込めるし、割高な商品やサービスを購入してくれる可能性もある。
(打算的に接客しているわけじゃないけど、こういうことを考えちゃうのは会社員時代の悪い癖かもしれないなぁ)
「カズキさん!」
そんな店内に、元気な声が飛び込んできた。
入口を見る。
ピンク色の髪をふわりと揺らしながら少女が立っていた。
「リリア?」
「はいっ! チョコビスコッティください!」
開口一番、それだった。
「……おはようございます、リリアさん」
「おはようございます! チョコビスコッティください!」
「チョコビスコッティね……」
ルーシアが困り眉でこちらに視線を送ってくる。
「ここに来たお友達が言ってたんです! 黒猫亭のチョコビスコッティがすっごく美味しかったって!」
「友達?」
「はい! 『一度食べたら忘れられない』って!」
リリアの碧い瞳が、期待に満ちて輝いている。
けれど、その顔を見て俺は少し困った。
「悪い。チョコビスコッティは期間限定だったから、もうメニューから外したんだ」
「…………え?」
リリアの笑顔が固まった。
「今……なんと?」
「だから、もう販売してない」
「…………」
数秒の沈黙。
やがて、リリアの肩がゆっくり落ちた。
「そ、そんな……」
「リリア?」
「そんなぁぁぁぁぁっ!」
突然、リリアがカウンターに突っ伏した。
「な、なんでですかぁぁ!」
「いや、期間限定だから……」
「聞いてません!」
「期間限定なんだから、いつか終わるものだよ」
「そんなの知りませんでしたぁ!」
白いフリルがカウンターに広がり、ピンク色の髪がその上にふわりと落ちる。
その姿があまりにも必死なので、俺は思わず苦笑した。
「そんなに食べたかったのか?」
「食べたかったんです……」
リリアが顔だけを上げる。
「サクサクして、チョコのほろ苦さがあって、コーヒーと一緒に食べると最高なんですよね?」
「……まだ食べてないのに、詳しいね?」
「食べた人から聞きました!」
「情報は完璧だな」
「美味しいものの情報収集は、商人にとって重要です!」
その瞬間だけ、リリアの表情が妙に真剣になった。
俺は少し驚いた。
ただのお菓子好きなお嬢様だと思っていたけれど――。
「……ルーシア」
「なに?」
「チョコビスコッティ、また作れるか?」
俺が尋ねると、ルーシアは少し考えてから頷いた。
「作れる。作るのはそこまで手間じゃない」
「じゃあ、復活させるか」
「本当ですか!?」
リリアが飛び起きた。
「はい。最近、『また食べたい』って言ってくれるお客さんも増えてきたしな」
「やったぁ!」
リリアが両手を握ってぴょんと跳ねる。
その姿を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
「じゃあ、明日から――」
「待ってください!」
突然、リリアが右手を上げた。
「まだ終わりじゃありませんよ!」
「……まだ何かあるの?」
「あります!」
さっきまでのスイーツに夢中な少女とは違う。
リリアは椅子に座り直すと、テーブルの上に小さな手を置いた。
「カズキさん。ビスコッティってコーヒーと一緒に楽しむのはもちろん、ちょっとしたおやつとしても最高じゃないですか」
「まあ、焼き菓子だからな」
「だったら――お土産にしましょう!」
「お土産?」
俺が聞き返すと、リリアは嬉しそうに頷いた。
「はい! 袋に入れて、持って帰れるようにするんです!」
なるほど。
確かにチョコビスコッティなら、ケーキのように持ち運びに気を遣う必要もない。
コーヒーを飲んだ客が、『美味しかったから家族にも食べさせたい』と思えば、そのまま買って帰れる。
店内で一人に売って終わる商品が、店の外でも黒猫亭の名前を広めてくれるわけだ。
「……それ、それは良いアイデアだ」
「でしょう?」
リリアが得意げに胸を張る。
「そしてですね――」
彼女の瞳がキラリと光った。
「袋はマルグレーテ商会から仕入れてください!」
「……え?」
「マルグレーテ商会なら食品用の包装資材を扱っています。それに、うちには印刷工房もありますから、黒猫亭専用の袋を作れますよ!」
「専用の袋?」
「はい!」
リリアは身を乗り出した。
「黒猫亭のロゴと、可愛い黒猫の絵を入れるんです。お客様が持って歩けば、それだけで黒猫亭の宣伝になります!」
俺は思わず黙り込んだ。
客が持ち帰る。
その袋を別の人が見る。
そして黒猫亭を知る。
これは、いわば移動する看板だ。
「……なるほど」
「しかも!」
リリアの勢いは止まらない。
「黒猫亭はオリジナル包装でブランドイメージを高められ、マルグレーテ商会は袋を売って利益が出ます。お互いに得をするんです!」
「Win-Winってやつか」
「そうです!」
リリアは満面の笑みを浮かべた。
「商売は、自分だけ儲けようとすると長続きしません。相手にも『この取引をしてよかった』と思ってもらうことが大切なんです!」
その言葉に、俺は思わず感心した。
「……リリア。お前、ちゃんと商人なんだな」
「もちろんです!」
リリアは胸を張った。
その仕草はまだ幼さを残しているのに、言葉には妙な説得力がある。
商人の娘として育った彼女には、俺が日本でネットの記事から覚えた知識とは違う、生活の中で身についた商売の感覚があるのだろう。
「……でも、袋を作るとなると、それなりに費用もかかるんじゃないか?」
俺がそう言うと、リリアは待っていましたとばかりに笑った。
「そこも大丈夫です!」
「大丈夫?」
「はい! マルグレーテ商会の印刷工房なら、既製品に印刷するよりずっと安く作れます。それに、最初から大量に作らず、少ない数からの注文も承ります!」
なるほど。
リスクを抑えて試す。
その考え方も、商人としてちゃんと身についている。
「……お嬢様、侮れないな」
「お嬢様だからこそ、侮らないでください!」
頬をぷくっと膨らませる。
その顔が可愛らしくて、俺は思わず笑った。
「分かった。じゃあ、マルグレーテ商会に、リリアに任せてみよう」
「はい!」
リリアは嬉しそうに頷いた。
すると、今まで黙って話を聞いていたルーシアが口を開いた。
「カズキ」
「なんでしょうか、ルーシアさん」
「また勝手に決めないで」
「あっ、ご、ごめん。盛り上がってしまって、つい……」
「そのっ、私からもごめんなさい、店主の意見も聞かずに……」
リリアも一緒にしょぼしょぼとルーシア店長に謝る。
「私は、ビスコッティの持ち帰りも、お店の袋を作るのも、経営担当のカズキがいいと言うならそれでいい。ちゃんとお店のことを考えてくれているのなら」
「ちゃんとお店のことを考えて……」
そうだ、目指すべきはただ繁盛する店じゃない。
彼女が大切にしているものを守りながら、もっと多くの人に愛される店だ。
「……うん、大丈夫。黒猫亭をお菓子屋さんにするつもりはないよ。経営戦略としては宣伝を目的としてる」
「ならいい」
「ただ、ビスコッティを焼くのはルーシアさんだし、負担になるよな」
「ならあなたも手伝って」
「わ、わかったよ。決めるだけ決めてあとは知りません、なんてしない」
「よろしい」
「じゃあ、それで決まりだな」
「うん」
ルーシアが俺を見る。
その瞳には、以前にはなかった柔らかな光が浮かんでいた。
「……ありがとう、カズキ」
「何が?」
「私が大事にしてるものを、ちゃんと考えてくれるから」
「……」
不意打ちだった。
そんなことを真っ直ぐ言われると、こちらまで恥ずかしくなる。
「いや……俺はただ、黒猫亭を良くしたいだけだよ」
「それでも」
ルーシアは小さく笑った。
「嬉しい」
その一言に、俺は返事ができなかった。
そんな俺たちの間に、リリアがひょこっと顔を出す。
「……お二人とも、やっぱり仲良しですね」
「リリア」
「はい?」
「そこは気にしなくていいから」
「ふふっ」
リリアは楽しそうに笑った。
「では、袋のデザインは私にお任せください!」
こうして、チョコビスコッティは通常メニューへ復活することになった。
さらに、その日の午後にはリリアがマルグレーテ商会へ連絡を取り、包装用の袋について話を進めていた。
そして翌日。
店先の黒板には、新しい文字が加わった。
――『黒猫亭特製 チョコビスコッティ』
その下には、少し大きめの文字で、
――『お土産にもおすすめです!』
そしてカウンターには、黒猫の絵が描かれた小さな紙袋が並んでいる。
「……可愛い」
ルーシアが、袋を手に取って眺めていた。
「気に入った?」
「ええ」
袋に描かれた黒猫は、店の看板と同じように少しだけ丸みを帯びた愛嬌のある姿をしている。
その隣でリリアが得意げに胸を張った。
「黒猫亭の雰囲気を壊さないように、可愛すぎないデザインにしたんですよ!」
「よくできてるな」
「商人ですから!」
そう言って笑うリリアの姿は、やっぱりお菓子の国のお姫様のようだった。
けれど、その小さな胸の中には、確かに商人の血が流れている。
「チョコビスコッティ、三袋ください!」
「俺は二袋。家族にも食べさせてやりたい」
「じゃあ私は五袋!」
客たちが次々と袋を手に取っていく。
そのたびに、黒猫亭の黒猫が店の外へ連れ出されていく。
俺はその光景を眺めながら、ふと思った。
――これなら、店の外でも黒猫亭の名前が広がっていく。
ルーシアが大切にしてきた黒猫亭を、もっと遠くへ届けられる。
「カズキ」
隣からルーシアの声がした。
「ん?」
「……なんだか、嬉しい」
ルーシアが笑った。
その笑顔を見ていると、俺は改めて思う。
この店を、もっと大きくしたい。
そして、できることならこれからもずっと、この笑顔を隣で見ていたい。
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