後編 もう、誰かの後ろではない
後編・完結です。
皇太子に逆らい、流刑地の島へ送られたフォルティーナの、その後のお話です。
船が島へ着いたのは、夕暮れの近い時刻だった。
桟橋に降り立ったフォルティーナの足元で、古い木が軋む音を立てた。
潮の匂いが、帝都のそれとはまるで違う。
濃く、荒く、生き物の気配を含んでいた。
「流刑地」と呼ばれる島。
けれど、目の前に広がっていたのは、想像していたような陰鬱な監獄ではなかった。
漁の網を干す者がいる。
塩を焼く煙が、低い屋根の間から細く立ち上っている。
小さな港のはずれには、古い灯台が一本、海に向かって立っていた。
人々が、ごく当たり前に暮らしている。
ただ、その視線は冷たかった。
「また厄介者が来たか」
「見ろよ、あの身なり」
「貴族のお嬢様だとさ」
囁きが、潮風に混じって耳に届く。
桟橋の先で待っていたのは、日に焼けた老人だった。
島の管理人を兼ねているという、年嵩の漁師だ。
老人はフォルティーナを上から下まで眺め、無遠慮に鼻を鳴らした。
「子爵令嬢だか何だか知らんがな。ここじゃ、働かん者は飯を食えん。それだけは覚えておけ」
フォルティーナは、深く礼を返そうとして——その所作が、ここでは何の意味も持たないことに気づいた。
帝都で身につけた完璧な淑女の礼も、この島では、誰の心も動かさない。
「……承知いたしました」
それだけ言うのが、精一杯だった。
◇
割り当てられたのは、灯台の近くにある、使われていない小屋だった。
壁の隙間から潮風が入り込み、夜になると、想像していたよりもずっと暗かった。
水は、自分で井戸から汲まなければならない。
桶は重く、半分も運ばないうちに腕が震えた。
靴は、すぐに砂で汚れた。
その夜、フォルティーナは硬い寝台に横たわり、天井の闇を見つめていた。
帝都は、もう、海の向こうにある。
ようやく、実感した。
自分は本当に、ここまで流されてきたのだと。
◇
最初の数日は、何もできなかった。
魚の干し方を知らない。
潮風にさらされ、仕事で擦り切れた布の繕い方も知らない。
火の加減ひとつ、満足にできなかった。
竈の前でうまく火が熾せず、煙にむせて咳き込んでいると、通りかかった島の女が、肩をすくめて笑った。
「やっぱり貴族のお嬢様だねえ。そのうち、泣いて帰りたいって言い出すよ」
悔しかった。
けれど、言い返す言葉もなかった。
それでも、フォルティーナは逃げなかった。
母が荷物に入れてくれた手袋をはめ、裁縫道具を取り出す。
島の女たちに渡された、擦り切れた古布を、一針ずつ繕った。
潮風と塩仕事で硬くなった布は、学園で習った刺繍用の布とはまるで勝手が違った。
学園で習った刺繍とは勝手が違ったが、布を直すことくらいは、できた。
父が持たせてくれた帳面と筆記具も、毎晩、灯台のそばで開いた。
何かできることがあるはずだ。
この島で、自分にできることが。
◇
それを見つけたのは、島へ来て半月ほど経った頃だった。
塩職人の女に頼まれて、納品の記録を書き写していたときのことだ。
フォルティーナは、ふと、手を止めた。
数字が、合わない。
塩の量。
それを運ぶ船賃。
本土での保管料。
仲介に立つ商人の手数料。
どれも、ほんの少しずつ、不自然に膨らんでいた。
一つひとつは、見逃してしまうほど小さい。
けれど、半年分を並べてみれば、その「少し」が、確かな差になって積み上がっていた。
フォルティーナは、いくつもの帳面を引っ張り出し、夜半まで数字を追った。
そして、気づいた。
この島が貧しいのは、島の人々が怠けているからではない。
本土から来る役人と商人に、少しずつ、少しずつ、搾り取られているからだ。
正確な記録を読み解ける者が、この島にいなかったから。
翌朝、フォルティーナは管理人の老人のもとを訪ねた。
「この帳簿は、もう一度、整理した方がよろしいかと存じます」
老人は、胡乱げな目を向けた。
「お嬢様が、帳面の何を分かるってんだ」
「では、ひとつだけ。昨年の秋、塩百樽の船賃が、その前の年より三割増えております。けれど、船も、航路も、変わってはおりません。なぜ高くなったのか、本土の役人は、説明いたしましたか」
老人の眉が、わずかに動いた。
フォルティーナは、帳面の数字を、ひとつずつ指して示していった。
膨らんだ手数料。
重複した保管料。
記録のない「諸経費」。
説明が終わる頃には、老人は黙り込んでいた。
「……お前さん、本当にそれが読めるのか」
「はい。これだけは、得意ですので」
老人は、しばらく帳面を睨んでいた。
そして、ぽつりと言った。
「……確かに、お前さんの言う通りかもしれん」
フォルティーナの胸に、小さな光が灯る。
だが、老人は首を振った。
「それで?」
「それで、とは……」
「お前さんが正しいとして、それを本土の役人が認めると思うか。あいつらは、島の者が逆らえば、次の船を寄越さねえ。塩も魚も、売れなくなる。そうなりゃ、この島は干上がる」
フォルティーナは、言葉を失った。
数字が正しければ、人は納得する。
帝都では、そう教えられてきた。
けれど、この島では——正しさだけでは、飯にならなかった。
それから、フォルティーナは考えた。
ただ正論を書き連ねても、役人は読まずに破り捨てるだけだ。
ならば、無視できない形にすればいい。
彼女は、返書の書き方を変えた。
公爵家が定めた交易の法令名を引いた。
過去十年分の納品記録と、今年の数字を、並べて添えた。
「抗議する」のではなく、「行き違いがあったようなので、ご確認を願いたい」という体裁を取った。
そして、その写しを、本土の商人にも送る、と一文を添えた。
役人ひとりを責めるのではない。
彼が誤魔化せば、商人にも、公爵家にも知られる。
そういう、逃げ場のない形にした。
数週間後。
本土から届いた返書には、今年の手数料を見直す、と記されていた。
老人は、その文面を何度も読み返し、ようやく、低く唸った。
「……お前さん。ただのお嬢様じゃねえな」
帝都では、これらはすべて「取り巻き令嬢の技術」と呼ばれていた。
学園で学んだ文章の読み解き。
権力者の言葉の裏を読む力。
人の顔色から、嘘を見抜く観察眼。
リグレッタの後ろに立つために身につけた、それらの技術が——
この島では、人々を守るための武器になった。
◇
老人が認めてからは、フォルティーナの居場所は、少しずつ広がっていった。
不当な手数料への返書だけではない。
塩職人の納品記録を整えた。
漁師たちの契約書を、一緒に読んだ。
網の手入れ中に手を切った若者のためには、母が持たせてくれた薬と清潔な布で、応急の手当てを手伝った。
そして、子どもたちに、読み書きを教えた。
灯台のそばの小屋に、最初は二人、やがて五人、子どもたちが集まるようになった。
砂浜に木の枝で文字を書き、波が消すたびに、また書いた。
ある日、一番幼い男の子が、得意げに自分の名前を書いてみせた。
「フォルテ先生、見て! 書けたよ!」
——フォルテ先生。
その響きに、フォルティーナの胸が、ふいに熱くなった。
「ええ。とても、上手ですわ」
「令嬢さん」と遠巻きにされていたのが、いつの間にか「フォルテ先生」になっていた。
漁師たちは「フォルテさん」と気軽に声をかけ、島の女たちは「細い腕のわりに、根性があるねえ」と笑うようになった。
体は、毎日疲れた。
手は荒れ、爪は割れた。
ドレスは潮に傷み、すっかり色褪せた。
けれど、不思議と、息がしやすかった。
リグレッタの後ろに立っていた頃、フォルティーナはいつも、誰かの顔色を窺っていた。
皇太子の機嫌。
取り巻きたちの思惑。
公爵家の体面。
この島では、誰かの機嫌を取るためだけに笑わなくていい。
ただ、自分の名前で呼ばれている。
◇
島へ来て、二ヶ月目の夜だった。
嵐が来た。
灯台の近くの小屋は、まるで海ごと叩きつけられているように軋んだ。
屋根の隙間から雨が吹き込み、寝台の端を濡らした。
フォルティーナは、消えかかる蝋燭の火を手で囲いながら、ただ夜が明けるのを待つしかなかった。
朝になっても、本土からの船は来なかった。
「三日は来ねえな」
荒れ狂う海を見て、老人は短く言った。
その三日の間に、蓄えていた薬は減り、干した魚は湿気を吸い、子どもたちは寒さで咳をした。
フォルティーナは、そのとき初めて、思い知った。
この島で暮らすということは、青い海や、夕暮れの灯台を、ただ美しいと眺めることではない。
船が来ない日も。
誰かが熱を出す夜も。
それでも、ここで朝を待つということなのだ。
逃げ出したいと、思わなかったわけではない。
けれど、咳をする子どもに毛布をかけ、湿った薪をなんとか熾しながら——フォルティーナは、奇妙なことに気づいた。
帝都にいた頃よりも、ずっと。
自分が「ここにいてよい」と、感じている。
◇
数ヶ月が、過ぎた。
朝は潮風で目を覚まし、昼は子どもたちに文字を教え、夕方は灯台のそばで帳簿を見る。
夜は、島の人々と粗末な食事を囲んだ。
帝都の華やかな夜会も、学園の図書室も、遠いものになっていた。
それでも、フォルティーナは帝都を忘れたわけではなかった。
弟の声を聞きたい。
母が持たせてくれた菓子の味を、ふと思い出す。
父の、あの苦い顔も。
そして何より——リグレッタが、どうなったのか。
あの夜から、彼女は無事でいるのだろうか。
皇太子に、さらに傷つけられてはいないか。
自分のせいで、もっと追い詰められてはいないだろうか。
夜、波の音を聞きながら、フォルティーナは何度もそれを思った。
居場所は、見つけた。
けれど、心のどこかには、まだ帝都が残っていた。
◇
その船が港に入ってきたのは、よく晴れた朝のことだった。
島民たちが、ざわめいた。
それは、漁船でも、交易船でもなかった。
立派な、大きな船。
帆には——青を基調とした、見覚えのある紋章が掲げられている。
ヴェントブーケ公爵家の、紋章だった。
フォルティーナは、桶を取り落とした。
砂に足を取られながら、桟橋へ向かって走った。
船から、一人の令嬢が降りてくる。
青い髪。
紫水晶の瞳。
以前より、少し痩せたかもしれない。
けれど、その瞳には、学園にいた頃には決してなかった、静かな強さが宿っていた。
リグレッタ・ヴェントブーケ公爵令嬢が、そこに立っていた。
彼女は、フォルティーナを見つけると、ゆっくりと微笑んだ。
「迎えに来ました、フォルテ」
フォルティーナは、言葉が出なかった。
ずっと、案じていた友人が。
海を越えて、自分を迎えに来てくれた。
◇
灯台のそばの小屋で、二人は向かい合って座った。
リグレッタは、一通の書状を、そっと机の上に置いた。
「赦免状です。あなたの流刑は、取り消されました。フォルテ、あなたはもう、罪人ではありません」
フォルティーナは、その書状を、すぐには手に取れなかった。
「……リグレッタ様。いったい、帝都で、何が」
リグレッタは、ゆっくりと語り始めた。
フォルティーナが島へ送られた後、ヴェントブーケ公爵家が、本格的に動いたこと。
アンバー子爵家が、フォルティーナの発言が虚偽でないことを示すため、証言を集めて回ったこと。
学園の教師や使用人たちも、一人、また一人と、口を開き始めたこと。
「そして——わたくしも、皇帝陛下と皇后陛下の御前で、申し上げました」
フォルティーナは、息を呑んだ。
「陛下の、御前で……? リグレッタ様が、ご自分から……?」
あの、自分のためには怒れなかった人が。
殿下を立てることだけを、教え込まれてきた人が。
「ええ」
リグレッタは、小さく頷いた。
「怖かったです。手も、声も、震えておりました」
彼女は、膝の上で、指を握りしめた。
「皇帝陛下は、最初、わたくしにお尋ねになりました。『そなたは、皇太子を支えるために選ばれたのではなかったか』と」
フォルティーナは、じっとその顔を見つめた。
「以前のわたくしなら、そこで頷いていたと思います。けれど、あの日は、違いました」
リグレッタの声は、少し震えていた。
けれど、もう、折れてはいなかった。
「申し上げました。『支えることと、黙って罪を着せられることは、違います』と。『わたくしは殿下をお支えしてまいりました。ですが、フォルティーナ・アンバー子爵令嬢を罪人にしてまで、殿下の面目を守るつもりはございません』と」
フォルティーナの胸の奥が、熱くなった。
あの夜、自分はリグレッタの前に立った。
そして今——リグレッタは、自分のために、皇帝の前に立ってくれたのだ。
「それから、調べが進みました」
リグレッタは、続けた。
ベリーナの証言には、いくつもの綻びがあったという。
「ベリーナ様は、最後までお認めになりませんでした」
その声は、淡々としていた。
「ですが、裂かれたというドレスの裏地に、彼女の侍女が使う糸と、同じものが残っていました。しかも、その裂け目は、外から乱暴に破られたものではなく、内側から刃を入れた跡だったそうです」
フォルティーナは、思わず目を閉じた。
「殿下は……?」
「最初は、信じようとなさいませんでした。『ベリーナがそんなことをするはずがない』と」
リグレッタは、そこで一度だけ目を伏せた。
けれど、その声に迷いはなかった。
「けれど、招待状が隠されたとされた日——その夜、わたくしが皇后陛下の書類を作っていたことを、三人の使用人が証言しました。わたくしには、ベリーナ様に手を出す時間など、どこにもなかったのです」
リグレッタは、小さく息を吐いた。
「その時、殿下は初めて……ベリーナ様の言葉そのものを、お疑いになりました」
その後のことを、リグレッタは静かに告げた。
ヴィットリオは、皇太子としての継承権を凍結された。
ベリーナは学園を追放され、ロゼッティ男爵家にも、相応の処罰が下された。
そして、フォルティーナへの流刑が、正式な調査も裁定も経ないまま、殿下の独断を皇室が追認したものであったこと——それも、問題になった。
「殿下は、最後まで、謝罪なさいませんでした」
リグレッタは、目を伏せた。
「ただ、『私は騙されていたのだ』と、それだけを」
そして、顔を上げる。
「けれど、ヴェントブーケ公爵家は退きませんでした。騙されたことが問題なのではない。確かめもせず人を裁き、その裁きを皇室が追認したことこそが問題なのだと、父が、陛下の御前で申し上げたのです」
フォルティーナは、長く、息を吐いた。
皇帝陛下が、自ら進んで過ちを認めたわけではない。
けれど、もはや隠し通せなかったのだ。
ヴェントブーケ公爵家を敵に回してまで、皇太子の面目だけを守ることはできなかった。
「それでは、リグレッタ様との婚約は……?」
「殿下の側からの破棄ではなく、ヴェントブーケ公爵家の側から、正式に解消いたしました」
リグレッタは、まっすぐにフォルティーナを見た。
「わたくしは、捨てられたのではありません。わたくしの家が、殿下を、お断りしたのです」
リグレッタが、こんなふうに自分の意思を口にするのを、フォルティーナは初めて見た気がした。
「あなたが、あの日、わたくしの前に立ってくれたから……」
リグレッタの瞳が、わずかに潤む。
「わたくしも、ようやく、自分の足で立つことができました」
◇
リグレッタは赦免状を、フォルティーナへそっと押し出した。
「もう、帰れます。フォルテ」
その言葉は、フォルティーナが、夜の波の音を聞きながら、何度も夢に見たものだった。
帝都へ帰れる。
家族に会える。
リグレッタと、またお茶を飲める。
「あなたのご家族も、待っています」
リグレッタの声が、少し柔らかくなった。
「アンバー子爵も、奥方様も、弟君も。何度も、何度も、わたくしのもとへ嘆願に来てくださいました。フォルテを返してほしいと」
フォルティーナは、目を閉じた。
帰りたい、と思った。
母の温かい手。
父の苦い顔。
弟の笑い声。
温室でリグレッタと分け合った、焼き菓子の甘い記憶。
帝都のシャンデリアの光。
学園の午後の図書室。
失ったはずのものが、胸の奥で、次々とよみがえった。
帰れるのだ。
罪人ではなく、アンバー子爵令嬢として。
家族のもとへ。
友人の側へ。
帰りたくないはずが、なかった。
——だからこそ。
自分で、選ばなければならない。
公爵家の船が来たことで、島の者たちは、落ち着かなかった。
誰もが、フォルティーナが連れ戻されるのではないかと、遠巻きに、小屋の様子を窺っていた。
やがて、一番幼い男の子が、戸口から恐る恐る顔を覗かせた。
「フォルテ先生……字の練習、もうないの?」
その後ろから、漁師が、気遣わしげに顔を出す。
「フォルテさん……本土の役人に出す返書、どうすりゃいい。あんたがいなくなったら、俺たちゃ、また言いくるめられちまう」
塩職人の女も、戸口の脇に立っていた。
何も言わず、ただ、不安そうにフォルティーナを見ている。
フォルティーナは、振り返った。
そこにいたのは、数ヶ月前まで、自分を「厄介者」と遠巻きにしていた人々だった。
その同じ人々が、今は——自分が、いなくなることを、恐れている。
フォルティーナは、ゆっくりと、リグレッタに向き直った。
そして、深く、丁寧に、礼をした。
「ありがとうございます、リグレッタ様。わたくしを迎えに来てくださって……本当に、嬉しゅうございます」
リグレッタが、微笑む。
けれど、フォルティーナは、静かに続けた。
「わたくしは——帝都へは、戻りません」
リグレッタの表情が、揺れた。
フォルティーナは、慌てずに、言葉を継いだ。
「帰る場所がないからではありません。家族に捨てられたからでも、リグレッタ様を、恨んでいるからでもありません」
彼女は、戸口の向こう、子どもたちのいるほうへ、目をやった。
「この島で、わたくしを必要としてくださる方々が、できたのです。わたくしはここで、初めて——肩書きではなく、自分自身として呼ばれたのです」
そして、もう一度、リグレッタを見た。
「わたくしは、リグレッタ様の後ろに立つ者である前に、フォルティーナ・アンバーという一人の令嬢でした。そのことを、この島で知ったのです」
リグレッタは、沈黙した。
それは、拒絶を呑み込む沈黙ではなかった。
ただ、寂しさを、噛みしめるような沈黙だった。
やがて、リグレッタは小さく息を吐き、寂しげに、けれど穏やかに笑った。
「そう。あなたはもう……わたくしの後ろに立つ人では、ないのですね」
「はい」
フォルティーナは頷き、そして、微笑んだ。
「けれど、あなたの友人であることは、変わりません」
◇
リグレッタは、フォルティーナの選択を、受け入れた。
かつて、誰かに従うことしか許されなかった公爵令嬢は、今、友人の選んだ道を、尊重できる人になっていた。
別れの前、リグレッタはいくつかのことを約束した。
本土の役人による不正については、ヴェントブーケ公爵家の名で、正式な調査を求めること。
島の塩や漁獲が、正当な値で取引されるよう、手配すること。
いずれは、島へ医師を招けるようにし、子どもたちの学びに必要な本や紙を、定期的に届けること。
「ですが」
リグレッタは、いたずらっぽく目を細めた。
その表情は、かつて温室で焼き菓子を分け合ったときと、よく似ていた。
「あなたを連れ戻すことだけは、いたしません」
二人は、港で向かい合った。
かつて、リグレッタの後ろに、フォルティーナが立っていた。
今は、向かい合って、立っている。
「今度は、わたくしが、あなたへ手紙を書きます」
リグレッタが言うと、フォルティーナは笑った。
「では、わたくしは、島の子どもたちの字が上達しましたら、その子たちに返事を書かせますわ」
二人は、声を立てて笑った。
それは、あの温室の笑顔と、同じものだった。
けれど、もう、同じ関係ではない。
公爵令嬢と、その後ろに控える令嬢ではなく。
ただ、対等な、友人同士の笑顔だった。
「それから、アンバー子爵ご夫妻と弟君にも、必ず手紙を書いてくださいませ」
リグレッタは、少しだけ真面目な顔で言った。
「あなたがここに残ると知れば、きっと驚かれます。けれど、あなたの言葉で伝えれば、分かってくださいます」
フォルティーナは、父と母と弟の顔を思い出し、静かに頷いた。
「はい。必ず、書きます」
リグレッタを乗せた公爵家の船が、ゆっくりと、島を離れていく。
甲板の上で、リグレッタが振り返った。
青い髪が、潮風に揺れている。
彼女は、少し寂しそうに、それでも穏やかに微笑んで、小さく手を振った。
フォルティーナも、桟橋の上で手を振り返した。
守りたかった笑顔は、もう、自分の足で立っている。
公爵令嬢と、その後ろに控える令嬢ではなく。
ただの、友人として。
◇
船影が水平線の向こうに消えても、フォルティーナは、しばらく港に立っていた。
かつて彼女は、リグレッタ・ヴェントブーケ公爵令嬢の後ろに立つ、取り巻きだった。
そのことを恥じたことは、一度もない。
けれど今、彼女の背後には、島の人々がいた。
そして目の前には、潮風に揺れる、青い海が広がっていた。
「フォルテ先生!」
子どもたちの声に、フォルティーナは振り返る。
栗色の髪を潮風に揺らしながら、彼女は笑った。
もう、誰かの後ろではない。
フォルティーナ・アンバーは、自分の足で、この島に立っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
フォルティーナとリグレッタ、二人の友情と自立の物語でした。
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