表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/2

後編 もう、誰かの後ろではない

後編・完結です。

皇太子に逆らい、流刑地の島へ送られたフォルティーナの、その後のお話です。

船が島へ着いたのは、夕暮れの近い時刻だった。


桟橋に降り立ったフォルティーナの足元で、古い木が軋む音を立てた。


潮の匂いが、帝都のそれとはまるで違う。

濃く、荒く、生き物の気配を含んでいた。


「流刑地」と呼ばれる島。

けれど、目の前に広がっていたのは、想像していたような陰鬱な監獄ではなかった。


漁の網を干す者がいる。

塩を焼く煙が、低い屋根の間から細く立ち上っている。

小さな港のはずれには、古い灯台が一本、海に向かって立っていた。


人々が、ごく当たり前に暮らしている。

ただ、その視線は冷たかった。


「また厄介者が来たか」

「見ろよ、あの身なり」

「貴族のお嬢様だとさ」


囁きが、潮風に混じって耳に届く。


桟橋の先で待っていたのは、日に焼けた老人だった。

島の管理人を兼ねているという、年嵩の漁師だ。


老人はフォルティーナを上から下まで眺め、無遠慮に鼻を鳴らした。

「子爵令嬢だか何だか知らんがな。ここじゃ、働かん者は飯を食えん。それだけは覚えておけ」


フォルティーナは、深く礼を返そうとして——その所作が、ここでは何の意味も持たないことに気づいた。


帝都で身につけた完璧な淑女の礼も、この島では、誰の心も動かさない。


「……承知いたしました」

それだけ言うのが、精一杯だった。



割り当てられたのは、灯台の近くにある、使われていない小屋だった。

壁の隙間から潮風が入り込み、夜になると、想像していたよりもずっと暗かった。


水は、自分で井戸から汲まなければならない。

桶は重く、半分も運ばないうちに腕が震えた。


靴は、すぐに砂で汚れた。


その夜、フォルティーナは硬い寝台に横たわり、天井の闇を見つめていた。


帝都は、もう、海の向こうにある。


ようやく、実感した。


自分は本当に、ここまで流されてきたのだと。



最初の数日は、何もできなかった。


魚の干し方を知らない。

潮風にさらされ、仕事で擦り切れた布の繕い方も知らない。

火の加減ひとつ、満足にできなかった。


竈の前でうまく火が熾せず、煙にむせて咳き込んでいると、通りかかった島の女が、肩をすくめて笑った。

「やっぱり貴族のお嬢様だねえ。そのうち、泣いて帰りたいって言い出すよ」


悔しかった。

けれど、言い返す言葉もなかった。


それでも、フォルティーナは逃げなかった。


母が荷物に入れてくれた手袋をはめ、裁縫道具を取り出す。

島の女たちに渡された、擦り切れた古布を、一針ずつ繕った。

潮風と塩仕事で硬くなった布は、学園で習った刺繍用の布とはまるで勝手が違った。

学園で習った刺繍とは勝手が違ったが、布を直すことくらいは、できた。


父が持たせてくれた帳面と筆記具も、毎晩、灯台のそばで開いた。


何かできることがあるはずだ。

この島で、自分にできることが。



それを見つけたのは、島へ来て半月ほど経った頃だった。


塩職人の女に頼まれて、納品の記録を書き写していたときのことだ。


フォルティーナは、ふと、手を止めた。


数字が、合わない。


塩の量。

それを運ぶ船賃。

本土での保管料。

仲介に立つ商人の手数料。


どれも、ほんの少しずつ、不自然に膨らんでいた。


一つひとつは、見逃してしまうほど小さい。

けれど、半年分を並べてみれば、その「少し」が、確かな差になって積み上がっていた。


フォルティーナは、いくつもの帳面を引っ張り出し、夜半まで数字を追った。


そして、気づいた。


この島が貧しいのは、島の人々が怠けているからではない。

本土から来る役人と商人に、少しずつ、少しずつ、搾り取られているからだ。

正確な記録を読み解ける者が、この島にいなかったから。


翌朝、フォルティーナは管理人の老人のもとを訪ねた。

「この帳簿は、もう一度、整理した方がよろしいかと存じます」


老人は、胡乱げな目を向けた。

「お嬢様が、帳面の何を分かるってんだ」

「では、ひとつだけ。昨年の秋、塩百樽の船賃が、その前の年より三割増えております。けれど、船も、航路も、変わってはおりません。なぜ高くなったのか、本土の役人は、説明いたしましたか」


老人の眉が、わずかに動いた。


フォルティーナは、帳面の数字を、ひとつずつ指して示していった。

膨らんだ手数料。

重複した保管料。

記録のない「諸経費」。

説明が終わる頃には、老人は黙り込んでいた。


「……お前さん、本当にそれが読めるのか」

「はい。これだけは、得意ですので」

老人は、しばらく帳面を睨んでいた。

そして、ぽつりと言った。

「……確かに、お前さんの言う通りかもしれん」

フォルティーナの胸に、小さな光が灯る。


だが、老人は首を振った。

「それで?」

「それで、とは……」

「お前さんが正しいとして、それを本土の役人が認めると思うか。あいつらは、島の者が逆らえば、次の船を寄越さねえ。塩も魚も、売れなくなる。そうなりゃ、この島は干上がる」


フォルティーナは、言葉を失った。

数字が正しければ、人は納得する。

帝都では、そう教えられてきた。


けれど、この島では——正しさだけでは、飯にならなかった。


それから、フォルティーナは考えた。

ただ正論を書き連ねても、役人は読まずに破り捨てるだけだ。

ならば、無視できない形にすればいい。


彼女は、返書の書き方を変えた。

公爵家が定めた交易の法令名を引いた。

過去十年分の納品記録と、今年の数字を、並べて添えた。

「抗議する」のではなく、「行き違いがあったようなので、ご確認を願いたい」という体裁を取った。

そして、その写しを、本土の商人にも送る、と一文を添えた。

役人ひとりを責めるのではない。

彼が誤魔化せば、商人にも、公爵家にも知られる。

そういう、逃げ場のない形にした。


数週間後。

本土から届いた返書には、今年の手数料を見直す、と記されていた。


老人は、その文面を何度も読み返し、ようやく、低く唸った。

「……お前さん。ただのお嬢様じゃねえな」


帝都では、これらはすべて「取り巻き令嬢の技術」と呼ばれていた。

学園で学んだ文章の読み解き。

権力者の言葉の裏を読む力。

人の顔色から、嘘を見抜く観察眼。


リグレッタの後ろに立つために身につけた、それらの技術が——

この島では、人々を守るための武器になった。



老人が認めてからは、フォルティーナの居場所は、少しずつ広がっていった。


不当な手数料への返書だけではない。

塩職人の納品記録を整えた。

漁師たちの契約書を、一緒に読んだ。

網の手入れ中に手を切った若者のためには、母が持たせてくれた薬と清潔な布で、応急の手当てを手伝った。


そして、子どもたちに、読み書きを教えた。


灯台のそばの小屋に、最初は二人、やがて五人、子どもたちが集まるようになった。

砂浜に木の枝で文字を書き、波が消すたびに、また書いた。


ある日、一番幼い男の子が、得意げに自分の名前を書いてみせた。

「フォルテ先生、見て! 書けたよ!」


——フォルテ先生。


その響きに、フォルティーナの胸が、ふいに熱くなった。


「ええ。とても、上手ですわ」


「令嬢さん」と遠巻きにされていたのが、いつの間にか「フォルテ先生」になっていた。

漁師たちは「フォルテさん」と気軽に声をかけ、島の女たちは「細い腕のわりに、根性があるねえ」と笑うようになった。


体は、毎日疲れた。

手は荒れ、爪は割れた。

ドレスは潮に傷み、すっかり色褪せた。

けれど、不思議と、息がしやすかった。


リグレッタの後ろに立っていた頃、フォルティーナはいつも、誰かの顔色を窺っていた。

皇太子の機嫌。

取り巻きたちの思惑。

公爵家の体面。


この島では、誰かの機嫌を取るためだけに笑わなくていい。

ただ、自分の名前で呼ばれている。



島へ来て、二ヶ月目の夜だった。


嵐が来た。


灯台の近くの小屋は、まるで海ごと叩きつけられているように軋んだ。

屋根の隙間から雨が吹き込み、寝台の端を濡らした。


フォルティーナは、消えかかる蝋燭の火を手で囲いながら、ただ夜が明けるのを待つしかなかった。


朝になっても、本土からの船は来なかった。


「三日は来ねえな」

荒れ狂う海を見て、老人は短く言った。


その三日の間に、蓄えていた薬は減り、干した魚は湿気を吸い、子どもたちは寒さで咳をした。


フォルティーナは、そのとき初めて、思い知った。

この島で暮らすということは、青い海や、夕暮れの灯台を、ただ美しいと眺めることではない。


船が来ない日も。

誰かが熱を出す夜も。

それでも、ここで朝を待つということなのだ。


逃げ出したいと、思わなかったわけではない。


けれど、咳をする子どもに毛布をかけ、湿った薪をなんとか熾しながら——フォルティーナは、奇妙なことに気づいた。


帝都にいた頃よりも、ずっと。

自分が「ここにいてよい」と、感じている。



数ヶ月が、過ぎた。


朝は潮風で目を覚まし、昼は子どもたちに文字を教え、夕方は灯台のそばで帳簿を見る。

夜は、島の人々と粗末な食事を囲んだ。


帝都の華やかな夜会も、学園の図書室も、遠いものになっていた。


それでも、フォルティーナは帝都を忘れたわけではなかった。

弟の声を聞きたい。

母が持たせてくれた菓子の味を、ふと思い出す。

父の、あの苦い顔も。


そして何より——リグレッタが、どうなったのか。


あの夜から、彼女は無事でいるのだろうか。

皇太子に、さらに傷つけられてはいないか。

自分のせいで、もっと追い詰められてはいないだろうか。

夜、波の音を聞きながら、フォルティーナは何度もそれを思った。


居場所は、見つけた。

けれど、心のどこかには、まだ帝都が残っていた。



その船が港に入ってきたのは、よく晴れた朝のことだった。


島民たちが、ざわめいた。

それは、漁船でも、交易船でもなかった。

立派な、大きな船。

帆には——青を基調とした、見覚えのある紋章が掲げられている。


ヴェントブーケ公爵家の、紋章だった。


フォルティーナは、桶を取り落とした。

砂に足を取られながら、桟橋へ向かって走った。


船から、一人の令嬢が降りてくる。


青い髪。

紫水晶の瞳。

以前より、少し痩せたかもしれない。

けれど、その瞳には、学園にいた頃には決してなかった、静かな強さが宿っていた。

リグレッタ・ヴェントブーケ公爵令嬢が、そこに立っていた。


彼女は、フォルティーナを見つけると、ゆっくりと微笑んだ。

「迎えに来ました、フォルテ」


フォルティーナは、言葉が出なかった。


ずっと、案じていた友人が。

海を越えて、自分を迎えに来てくれた。



灯台のそばの小屋で、二人は向かい合って座った。


リグレッタは、一通の書状を、そっと机の上に置いた。

「赦免状です。あなたの流刑は、取り消されました。フォルテ、あなたはもう、罪人ではありません」


フォルティーナは、その書状を、すぐには手に取れなかった。

「……リグレッタ様。いったい、帝都で、何が」

リグレッタは、ゆっくりと語り始めた。


フォルティーナが島へ送られた後、ヴェントブーケ公爵家が、本格的に動いたこと。

アンバー子爵家が、フォルティーナの発言が虚偽でないことを示すため、証言を集めて回ったこと。

学園の教師や使用人たちも、一人、また一人と、口を開き始めたこと。


「そして——わたくしも、皇帝陛下と皇后陛下の御前で、申し上げました」

フォルティーナは、息を呑んだ。


「陛下の、御前で……? リグレッタ様が、ご自分から……?」

あの、自分のためには怒れなかった人が。

殿下を立てることだけを、教え込まれてきた人が。


「ええ」

リグレッタは、小さく頷いた。


「怖かったです。手も、声も、震えておりました」

彼女は、膝の上で、指を握りしめた。


「皇帝陛下は、最初、わたくしにお尋ねになりました。『そなたは、皇太子を支えるために選ばれたのではなかったか』と」


フォルティーナは、じっとその顔を見つめた。


「以前のわたくしなら、そこで頷いていたと思います。けれど、あの日は、違いました」

リグレッタの声は、少し震えていた。

けれど、もう、折れてはいなかった。


「申し上げました。『支えることと、黙って罪を着せられることは、違います』と。『わたくしは殿下をお支えしてまいりました。ですが、フォルティーナ・アンバー子爵令嬢を罪人にしてまで、殿下の面目を守るつもりはございません』と」


フォルティーナの胸の奥が、熱くなった。

あの夜、自分はリグレッタの前に立った。

そして今——リグレッタは、自分のために、皇帝の前に立ってくれたのだ。


「それから、調べが進みました」

リグレッタは、続けた。


ベリーナの証言には、いくつもの綻びがあったという。

「ベリーナ様は、最後までお認めになりませんでした」

その声は、淡々としていた。

「ですが、裂かれたというドレスの裏地に、彼女の侍女が使う糸と、同じものが残っていました。しかも、その裂け目は、外から乱暴に破られたものではなく、内側から刃を入れた跡だったそうです」


フォルティーナは、思わず目を閉じた。


「殿下は……?」

「最初は、信じようとなさいませんでした。『ベリーナがそんなことをするはずがない』と」


リグレッタは、そこで一度だけ目を伏せた。

けれど、その声に迷いはなかった。


「けれど、招待状が隠されたとされた日——その夜、わたくしが皇后陛下の書類を作っていたことを、三人の使用人が証言しました。わたくしには、ベリーナ様に手を出す時間など、どこにもなかったのです」


リグレッタは、小さく息を吐いた。

「その時、殿下は初めて……ベリーナ様の言葉そのものを、お疑いになりました」


その後のことを、リグレッタは静かに告げた。


ヴィットリオは、皇太子としての継承権を凍結された。

ベリーナは学園を追放され、ロゼッティ男爵家にも、相応の処罰が下された。


そして、フォルティーナへの流刑が、正式な調査も裁定も経ないまま、殿下の独断を皇室が追認したものであったこと——それも、問題になった。


「殿下は、最後まで、謝罪なさいませんでした」


リグレッタは、目を伏せた。


「ただ、『私は騙されていたのだ』と、それだけを」


そして、顔を上げる。


「けれど、ヴェントブーケ公爵家は退きませんでした。騙されたことが問題なのではない。確かめもせず人を裁き、その裁きを皇室が追認したことこそが問題なのだと、父が、陛下の御前で申し上げたのです」

フォルティーナは、長く、息を吐いた。


皇帝陛下が、自ら進んで過ちを認めたわけではない。

けれど、もはや隠し通せなかったのだ。

ヴェントブーケ公爵家を敵に回してまで、皇太子の面目だけを守ることはできなかった。


「それでは、リグレッタ様との婚約は……?」

「殿下の側からの破棄ではなく、ヴェントブーケ公爵家の側から、正式に解消いたしました」


リグレッタは、まっすぐにフォルティーナを見た。


「わたくしは、捨てられたのではありません。わたくしの家が、殿下を、お断りしたのです」


リグレッタが、こんなふうに自分の意思を口にするのを、フォルティーナは初めて見た気がした。


「あなたが、あの日、わたくしの前に立ってくれたから……」

リグレッタの瞳が、わずかに潤む。


「わたくしも、ようやく、自分の足で立つことができました」



リグレッタは赦免状を、フォルティーナへそっと押し出した。

「もう、帰れます。フォルテ」


その言葉は、フォルティーナが、夜の波の音を聞きながら、何度も夢に見たものだった。


帝都へ帰れる。

家族に会える。

リグレッタと、またお茶を飲める。


「あなたのご家族も、待っています」

リグレッタの声が、少し柔らかくなった。

「アンバー子爵も、奥方様も、弟君も。何度も、何度も、わたくしのもとへ嘆願に来てくださいました。フォルテを返してほしいと」


フォルティーナは、目を閉じた。


帰りたい、と思った。


母の温かい手。

父の苦い顔。

弟の笑い声。


温室でリグレッタと分け合った、焼き菓子の甘い記憶。

帝都のシャンデリアの光。

学園の午後の図書室。


失ったはずのものが、胸の奥で、次々とよみがえった。


帰れるのだ。


罪人ではなく、アンバー子爵令嬢として。

家族のもとへ。

友人の側へ。


帰りたくないはずが、なかった。


——だからこそ。


自分で、選ばなければならない。


公爵家の船が来たことで、島の者たちは、落ち着かなかった。


誰もが、フォルティーナが連れ戻されるのではないかと、遠巻きに、小屋の様子を窺っていた。


やがて、一番幼い男の子が、戸口から恐る恐る顔を覗かせた。

「フォルテ先生……字の練習、もうないの?」


その後ろから、漁師が、気遣わしげに顔を出す。

「フォルテさん……本土の役人に出す返書、どうすりゃいい。あんたがいなくなったら、俺たちゃ、また言いくるめられちまう」


塩職人の女も、戸口の脇に立っていた。

何も言わず、ただ、不安そうにフォルティーナを見ている。


フォルティーナは、振り返った。

そこにいたのは、数ヶ月前まで、自分を「厄介者」と遠巻きにしていた人々だった。

その同じ人々が、今は——自分が、いなくなることを、恐れている。


フォルティーナは、ゆっくりと、リグレッタに向き直った。

そして、深く、丁寧に、礼をした。


「ありがとうございます、リグレッタ様。わたくしを迎えに来てくださって……本当に、嬉しゅうございます」

リグレッタが、微笑む。


けれど、フォルティーナは、静かに続けた。

「わたくしは——帝都へは、戻りません」


リグレッタの表情が、揺れた。

フォルティーナは、慌てずに、言葉を継いだ。

「帰る場所がないからではありません。家族に捨てられたからでも、リグレッタ様を、恨んでいるからでもありません」

彼女は、戸口の向こう、子どもたちのいるほうへ、目をやった。


「この島で、わたくしを必要としてくださる方々が、できたのです。わたくしはここで、初めて——肩書きではなく、自分自身として呼ばれたのです」


そして、もう一度、リグレッタを見た。

「わたくしは、リグレッタ様の後ろに立つ者である前に、フォルティーナ・アンバーという一人の令嬢でした。そのことを、この島で知ったのです」


リグレッタは、沈黙した。

それは、拒絶を呑み込む沈黙ではなかった。

ただ、寂しさを、噛みしめるような沈黙だった。


やがて、リグレッタは小さく息を吐き、寂しげに、けれど穏やかに笑った。

「そう。あなたはもう……わたくしの後ろに立つ人では、ないのですね」

「はい」

フォルティーナは頷き、そして、微笑んだ。


「けれど、あなたの友人であることは、変わりません」



リグレッタは、フォルティーナの選択を、受け入れた。


かつて、誰かに従うことしか許されなかった公爵令嬢は、今、友人の選んだ道を、尊重できる人になっていた。


別れの前、リグレッタはいくつかのことを約束した。


本土の役人による不正については、ヴェントブーケ公爵家の名で、正式な調査を求めること。

島の塩や漁獲が、正当な値で取引されるよう、手配すること。

いずれは、島へ医師を招けるようにし、子どもたちの学びに必要な本や紙を、定期的に届けること。


「ですが」

リグレッタは、いたずらっぽく目を細めた。

その表情は、かつて温室で焼き菓子を分け合ったときと、よく似ていた。


「あなたを連れ戻すことだけは、いたしません」


二人は、港で向かい合った。


かつて、リグレッタの後ろに、フォルティーナが立っていた。

今は、向かい合って、立っている。


「今度は、わたくしが、あなたへ手紙を書きます」

リグレッタが言うと、フォルティーナは笑った。


「では、わたくしは、島の子どもたちの字が上達しましたら、その子たちに返事を書かせますわ」

二人は、声を立てて笑った。


それは、あの温室の笑顔と、同じものだった。

けれど、もう、同じ関係ではない。


公爵令嬢と、その後ろに控える令嬢ではなく。

ただ、対等な、友人同士の笑顔だった。


「それから、アンバー子爵ご夫妻と弟君にも、必ず手紙を書いてくださいませ」

リグレッタは、少しだけ真面目な顔で言った。


「あなたがここに残ると知れば、きっと驚かれます。けれど、あなたの言葉で伝えれば、分かってくださいます」


フォルティーナは、父と母と弟の顔を思い出し、静かに頷いた。

「はい。必ず、書きます」


リグレッタを乗せた公爵家の船が、ゆっくりと、島を離れていく。


甲板の上で、リグレッタが振り返った。

青い髪が、潮風に揺れている。


彼女は、少し寂しそうに、それでも穏やかに微笑んで、小さく手を振った。


フォルティーナも、桟橋の上で手を振り返した。


守りたかった笑顔は、もう、自分の足で立っている。


公爵令嬢と、その後ろに控える令嬢ではなく。

ただの、友人として。



船影が水平線の向こうに消えても、フォルティーナは、しばらく港に立っていた。


かつて彼女は、リグレッタ・ヴェントブーケ公爵令嬢の後ろに立つ、取り巻きだった。

そのことを恥じたことは、一度もない。


けれど今、彼女の背後には、島の人々がいた。

そして目の前には、潮風に揺れる、青い海が広がっていた。


「フォルテ先生!」

子どもたちの声に、フォルティーナは振り返る。


栗色の髪を潮風に揺らしながら、彼女は笑った。


もう、誰かの後ろではない。


フォルティーナ・アンバーは、自分の足で、この島に立っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


フォルティーナとリグレッタ、二人の友情と自立の物語でした。

少しでも楽しんでいただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
継承権凍結って甘くないですか? 他に子供居なかったのかしら。
島に来て数日でシオで布痛むのですか? 針と糸で繕わないといけなくなる布の成分が表示が気になりました 布汚れることがあっても、破れたりする物なのでしょうか??? 破れたり繕わなければいけなくなるのは桶を…
フォルティーナは頼られる事に酔っている感じですね。特別高度な事をしていないのだから、代わりができる人達を島に派遣すれば、酔いから覚めて帰ってくるんじゃないかな。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ