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Null-Operations ~ヌルテクの魔術師~  作者: ちとせ鶫
第1部 存在しない軍隊

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第9話 静という女

「予算の流れ」という共通の深淵を覗き込んだ二人が、薄暗い喫茶室で合流しました。

観察者としての静、そして構造の利用者としての決意を固める日高。

「存在しない技術(Non-Existent Tech)」を社会インフラへ転換するという、あまりに巨大で危険な野心。

それは世界を敵に回す「言葉の戦争」への宣戦布告でもありました。

 情報本部の喫茶室は、本館から離れた棟にある。


 昼時を外した時間帯は人が少ない。

 日高が先に来て、窓から離れた席を選んだ。

 壁を背にして、入口が見える位置。習慣だった。


 三分待った。


 静が来た。


 三分の遅れは誤差の範囲だった。

 だが謝らなかった。

 椅子を引いて、テーブルを一度だけ見て、日高の顔を見た。


「……日高三尉」

「そう。あなたが静さん」

「そう、ですね」


 それだけで、お互いに必要なことは確認できた。


 静はコートを脱がなかった。

 長居するつもりがない、という意思表示か、

 あるいは単純に寒いのか、判断できなかった。


 細い。背が高い。目が涼しい。

 感情を表に出さないのではなく、感情を表に出す必要を感じていない、

 そういう佇まいだった。


 コーヒーが来た。

 静はカップに手を伸ばさなかった。


「情報省から異動されましたね」

 日高が言う。

「はい」

「自分の希望で」

「そうではありません」

「追い出された」

「そういう表現が正確かどうか分かりませんが」


 静がカップを引き寄せた。持つだけで飲まない。


「ある報告書を提出しました。受理されませんでした。

 その後、異動の打診がありました」

「報告書の内容は」

「予算の流れについての分析です」


 日高は静を見た。

 予算の流れ。


 三週間、資料室で確認してきた接続の構造と、同じ場所を見ていた人間がいた。


「具体的には」

「科学技術庁の助成金が、複数の中間組織を経由して、

 満州技術経済特区の非公開研究に流れていました。

 総額は、公開されている予算の三倍以上です」


 日高は何も言わなかった。


 静が続ける。


「流れた先の研究内容は、公式には存在しないことになっています。

 Non-Existent、という分類です」


 Non-Existent(存在しない技術)


 その言葉が、この口から出た。


「……その報告書を、誰に提出しましたか」

「情報省の上層部です」

「受理されなかった理由は」

「説明されませんでした。ただ」


 静がカップを置いた。


「提出した翌週に、異動の打診がありました。それが理由だと思っています」


 日高は窓の外を見た。

 曇っている。光が平坦だった。


「俺に接触してきた理由は」

「あなたが満州にいたからです」

「それだけですか」


「あなたが広報本部に来てから三週間で、資料室に十一回行っています。

 広報の仕事で資料室が必要になる頻度ではありません」


 日高は静を見た。

 静は表情を変えなかった。


「観察していたんですか」

「はい」

「いつから」

「着任初日からです」


 三週間。

 日高が情報収集をしていた間、別の人間が日高を観察していた。


「......優秀ですね」

「ありがとうございます」


 感謝の言葉ではなかった。事実の確認だった。静もそのように受け取った。


「一つ聞きます」

 日高が言う。

「俺が何をしようとしていると思いますか」


 静がカップを持った。今度は飲んだ。一口だけ。置く。


「分かりません」

「推測は」

「......いくつかあります」

「聞かせてください」


 静が日高を見た。


「復讐、という仮説が最初に立ちます。満州で何かがあった。責任者がいる。

それを潰そうとしている」

「それは違います」

「分かっています」


 静が続ける。


「復讐なら資料室に行く必要はない。もっと直接的な方法があります。

 あなたが資料室で見ているのは、構造です。

 誰が悪いかではなく、どこがどう繋がっているかを確認している」


 日高は何も言わない。


「構造を把握している人間は、それを壊そうとしているか、

 使おうとしているかのどちらかです」

「どちらだと思いますか」

「使う方です」


 即答だった。


「壊す人間は、もっと急ぎます。あなたは三週間かけて、丁寧に確認している」


 日高はコーヒーを飲んだ。

 冷めていた。


「正解です」


 静が微かに眉を動かした。驚きではない。

 確認が取れた、という動きだった。


「使う、とは」

「Non-Existent Techという概念があります」


 日高が言う。


「存在しないから規制できない。存在しないから追跡できない。

 存在しないから、既存のルールが適用されない」

「はい」

「その技術を使って、エネルギーを動かし支配します」


 静が日高を見た。


「エネルギー、とは」

「量子転換炉です。満州で動いていたものです。あれを正しく制御すれば、

 補給を必要としないエネルギー供給が可能になります」

「軍事利用ではなく」

「社会インフラです」


 静が少し間を置いた。


「世界に、平等に届ける」

「はい」


 静はテーブルを見た。カップを見た。それから日高を見た。


「それは」

「なりますね、と言おうとしているなら、その通りです」


 静の口の端が、わずかに動いた。

 笑いではない。

 何かが一致した時の表情だった。


「戦争になります」

「なります。既得権益、既存のエネルギー利権を持つ勢力が、黙っていない」

「だから広報が要る」

「戦争を言葉に変えられる人間が要ります」


 静は日高を見ていた。

 日高は静を見ていた。


 喫茶室に他の客が入ってきた。

 二人組。笑いながら話している。

 無関係な声が空間に混じる。


 静がコートの前を合わせた。


「一つだけ聞かせてください」

「はい」


「あなたは勝てると思っていますか」


 日高はその問いを聞いた。

 答えを返す前に、静の目を見た。

 これは確認ではない。


 この問いへの答えの中身ではなく、答え方を見ている。

 日高はコーヒーカップを置いた。


「次に会う時に答えます」


 静が日高を見た。

 二秒。


「……分かりました」


 コートを整えて、立ち上がった。

 椅子を戻した。


 入口へ向かう。

 扉の手前で、振り返らずに言った。


「次に会う場所と時間は、あなたが指定してください」


 扉が閉まった。

 日高は空になったカップを見た。


 静のカップには、まだコーヒーが残っていた。

 ほとんど飲んでいない。

「あなたは勝てると思っていますか」

その問いを残して去った静の背中に、日高はあえて答えを返しませんでした。

飲み干されたカップと、手つかずのまま冷めたカップ。

二人の間に生じた静かな共鳴は、軍本部の歪な光の下で、誰にも追跡できない巨大な反乱の設計図を描き始めています。

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