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Null-Operations ~ヌルテクの魔術師~  作者: ちとせ鶫
第1部 存在しない軍隊

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第10話 脅迫ではない交渉

科学技術庁の六階、静寂が支配する執務室。

日高は「存在しない情報」を武器に、かつて自分たちを切り捨てた九条次官を追い詰めます。

感情を排した冷徹な交渉。空白の予算申請書。

静という新たな共犯者を傍らに、日高は組織の闇を喰らい、自らの「城」を築き始めました。

 九条の執務室は、科学技術庁の六階にあった。


 広い。

 窓が大きい。

 外の景色が見える。

 権力の大きさと部屋の広さが比例する場所では、

 この部屋の主は相当な位置にいることになる。


 日高は案内されながら、部屋の構造を確認した。出口は一つ。窓は開かない仕様。書棚が壁一面。デスクの上に書類が積まれている。積まれ方に規則性がない。几帳面な人間の部屋ではない。


 九条が立ち上がった。


 五十代前半。細い。目が小さい。

 会議室で初めて会った時と同じ印象だった。

 この男は、どこにいても存在感が薄い。


「日高三尉か」

「はい。お時間をいただきありがとうございます」


 九条が日高を見た。値踏みする目だった。

 三尉という階級を見て、若さを見て、広報という肩書きを見て、

 計算が終わった顔をした。


「座れ」


 促される前に座っていた。

 九条がデスクに戻る。書類を一枚脇に寄せる。


「広報の件で来たと聞いたが」

「はい。次世代エネルギー広報戦略についてご相談があります」

「次世代エネルギー」

「北方のインフラ整備に関連した、新しい広報フレームの提案です。

 予算規模についても、ご意見をいただきたい」


 九条が書類に視線を落とす。


「そういう話なら、担当部署を通してくれ。私に直接来る案件ではない」

「そうですね」


 日高は言った。


「ただ、もう一つお話があります」


 九条が顔を上げた。


「こちらが本題です」


 日高は鞄から封筒を出した。

 テーブルに置いた。九条の方へ向けて、ゆっくりと滑らせた。


「なんだ、これは」

「資料です。ご確認ください」


 九条は封筒を見た。開けない。


「中身を先に教えろ」

「科学技術庁の助成金の流れについての分析です。

 平成二十年から現在まで、五年分のデータが入っています」


 九条の手が止まった。


「加えて、満州技術経済特区の非公開研究への資金移動の記録。

 中間組織の一覧と、それぞれの口座情報も含まれています」


 九条がテーブルの上の封筒を見た。


「……どこで」

「存在しない情報です」


 日高は言った。


「Non-Existent。ですから、この封筒の中身も、正式な記録上は存在しません」


 九条の目が細くなった。


「君は」

「三尉です。広報本部付の、特任広報官です」

「それが」

「それだけです」


 九条は封筒を手に取った。開けた。中の書類を引き出した。


 読む。

 最初の一枚。二枚目。三枚目。


 途中で止まった。

 顔色が変わった。


 変わった、というより、抜けた。

 血の気が引く速度が、想定より早かった。

 この男は自分の証拠がどこかに存在することを、頭では理解していても、

 実際に目の前に現れることを想定していなかった。


 九条が顔を上げた。


「......何が目的だ」

「選択肢が二つあります」


 日高は言った。

 感情がない声だった。


「一つ目。この資料は、明日の朝、複数の報道機関と、

 連邦政府の監査部門に同時に送られます」


 九条が日高を見た。


「二つ目。その必要はなくなります」

「......条件は」


「J-CEDという組織を設立します。Japan-Central Edge Developmentの略です。

 表向きは連邦軍広報本部の特任分室として機能します」

「特任分室」

「はい。予算は、次世代広報戦略費として計上します。

 年間の規模については、別途ご相談します」


 九条は書類を見た。日高を見た。書類を見た。


「......これは脅迫だ」

「違います」


 日高は即座に返した。


「選択肢の提示です。どちらを選ぶかは、次官が決めることです」


 九条の目が、日高の顔を探った。どこかに感情の揺れを探している。

 怒りでも、恐れでも、優越感でも、何か人間らしい動機を探している。


 見つからない。

 日高の顔には何もなかった。

 そこで九条は理解したはずだった。

 この三尉は、この交渉に感情を持ち込んでいない。


「……弁護士を呼ぶ」

「どうぞ」

「この資料の入手経路を問題にする」

「存在しない資料ですから、問題にする根拠がありません」


 九条が口を閉じた。


 扉が開いた。

 静が入ってきた。


 薄いファイルを持っている。

 九条を一度見て、日高の隣の椅子に座った。

 ファイルを開いた。ペンを持った。


「こちらは」

「記録担当です」


 日高が答えた。


「今日のお話の内容を、正確に記録します」


 九条が静を見た。静は九条を見なかった。

 ペンを持ったまま、ファイルを見ている。


「......いつから」

「最初からいました」


 九条が部屋の入口を見た。いつ入ったか分からなかった、という顔をしていた。


「次官」


 日高が言った。


「お時間をいただいています」


 九条がデスクに向き直った。

 書類を見た。


 長い沈黙があった。


 静がペンを走らせた。何かを書いている。

 議事録ではない。この沈黙の長さも、記録している。


「……予算の規模は」


 九条が言った。


「初年度は控えめにします。実績を作ってから、段階的に増やします」

「上限は」

「決めていません。必要な分だけ使います」

「必要な分、とはどのくらいだ」

「今は分かりません。ただ」


 日高は九条を見た。


「使った分の成果は、必ず出します。次官が困らない形で」


 九条が日高を見た。

 この三尉が何を言っているか、理解しようとしている顔だった。

 理解できない。

 理解できないまま、頷いた。


「......分かった」


 それだけ答えた。


 静がペンを止めた。

 ファイルから一枚の書類を抜いた。

 テーブルに置き、九条の方へ向けた。


「署名をお願いします」


 九条が書類を見た。

 次世代広報戦略費、予算承認申請書。

 金額の欄は空白だった。


「金額が入っていない」

「後で入れます」


 静が言った。


 九条がペンを取った。

 署名した。


 静がその書類を回収した。ファイルに戻した。閉じた。

 立ち上がった。


「ありがとうございました」


 日高も立ち上がった。


「次官、今後ともよろしくお願いします」


 九条は答えなかった。

 書類を見ていた。日高が置いた封筒を見ていた。


 二人は部屋を出た。


 廊下に出た瞬間、静がファイルをバッグにしまった。


「署名、取れましたね」


 日高は前を向いたまま言った。


「金額の欄が空白でした」

「気づいていたと思います」

「それでも署名した」

「他に選択肢がなかったからです」


 エレベーターのボタンを押す。

 扉が開く。


 乗り込む。

 扉が閉まる。


「次は室蘭に行きます」


 日高が言った。


「シオンに連絡を入れてください」

「了解しました」


 静がバッグから端末を出した。

 エレベーターが下降する。

「金額は後で入れます」という静の言葉は、既存の秩序が崩壊し、新たな権力が誕生した合図でもありました。

署名を終えた九条の震える手とは対照的に、エレベーターの中の二人はすでに次の座標を見据えています。

舞台は室蘭へ。

再会するシオン、そして動き出す「J-CED」。

軍と科学の境界線上で、彼らの「存在しない反乱」が本格的な鼓動を刻み始めます。

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