第11話 室蘭海底工廠
室蘭の鉄の匂いと、低い霧。その静寂の中で、かつて満州で失われかけた命たちが息を吹き返していました。
シオンとの再会、そして機体設計を担う灯との衝突。
日高が示したのは、性能の極限を求めることではなく、少女たちの「生」を前提とした戦い方でした。
「J-CED」という器に、ようやく血が通い始めます。
室蘭は、鉄の匂いがした。
高炉の煙が水平線に溶けて、噴火湾の灰色の海と混ざっている。
白鳥大橋が低い霧の中で半分消えていた。
対岸の工場群が、霧を通してぼんやりと光っている。
昼間なのに、光が必要な濃さの霧だった。
日高は車を降りた。
海風が来た。塩と鉄が混じっている。
満州の空気とも、軍本部の廊下とも違う。
この街の空気には、長い時間をかけて積み重なった何かが混じっている。
橋の袂の駐車場。
シオンが先に来て待っていた。
コートの前を合わせて、海を見ていた。
満州で初めて会った時より、顔色がいい。白衣の変色はない。
だが立ち方に、あの施設で過ごした時間の重さが残っている。
「来ましたね」
振り返らずに言った。
「お待たせしました」
日高が並ぶ。
二人で海を見た。
噴火湾の向こうに、低い山並みが見える。
霧で輪郭が曖昧だ。
水面は穏やかだった。波がない。
ただ、重力に従って水が存在している。
「四人は」
日高が言う。
「安定しています」
シオンが答えた。
「接続を外してから、自律機能の回復が続いています。
呼吸、循環、体温調節——すべて正常範囲に入りました」
「意識は」
「……あります。ただ」
シオンが海を見たまま続ける。
「外部への反応が薄い。刺激に対する応答は確認できますが、
自発的な行動がありません」
「三年間、外部刺激のない環境にいたから」
「それだけではないと思います」
シオンが日高を見た。
「接続されている間、彼女たちの認識は施設の維持に向いていました。
自分自身に向ける認識の割合が、著しく少なかった」
「自分が何者かを考える余裕がなかった」
「はい」
日高は海を見た。
波がない。
「ここを選んだ理由を聞かせてください」
「地盤です」
シオンが駐車場の端まで歩いた。白鳥大橋の下を指す。
「噴火湾の海底は、火山性の岩盤で構成されています。密度が高い。
振動を吸収する性質がある」
「QTRの共鳴に向いている」
「はい。満州の施設は深度が深すぎました。アクセスが困難で、
緊急時の対応が遅れる。ここなら海底トンネルで直接繋げられます」
日高は白鳥大橋を見た。全長四キロ。橋脚が水面から突き出ている。
その下に、海底が続いている。
「建設の目処は」
「外殻は半年で作れます。設備の搬入と調整に、さらに半年から一年」
「予算は」
「シオンさん」
後ろから声がした。
振り返る。
女性だった。二十代前半。作業着。髪を無造作に束ねている。
手に図面の束を持っている。油の匂いがした。
「打ち合わせ、先に始めてていいですか。設計の変更点を確認したいんですけど」
シオンが日高を見た。
「灯です。兵装関連を担当してもらいます」
「灯」
女性——灯が日高を見た。
「日高凌ですね」
「はい」
「噂は聞いてます」
「どんな」
「満州で面白いことをした人だって」
面白い。
その表現を、日高は少し考えた。
「エイプスギアの設計を見せてもらえますか」
灯が図面の束を差し出した。
「どうぞ。ただし、まだ完成してないです。カムイの駆動系が問題で」
「どんな問題ですか」
「慣性制御の応答速度が足りない。180ノットで移動しながら直角に曲がるには、
今の設計じゃ遅すぎる。パイロットが死にます」
はっきりした言い方をする人間だった。
「解決策は」
「QTRの出力を直接駆動系に繋ぎます。ただそうすると調整体への負荷が上がる。だからシオンさんと揉めてます」
シオンが小さく息を吐いた。
「揉めている、という表現は正確ではありません。検討中です」
「同じことです」
灯が日高を見た。
「どっちが正しいと思いますか」
日高は図面を見た。
慣性制御の回路図。
QTRとの接続部分。負荷の計算式。数字を追う。
三十秒、見た。
「両方正しい」
灯が眉を上げた。
「180ノットの直角機動は必要です。調整体への負荷上限も守る必要がある」
「両立できないから揉めてるんですけど」
「出力を分割する」
「分割」
「カムイの駆動系に繋ぐQTR出力は、全体の何パーセントを使っていますか」
「設計値で四十パーセントです」
「上限を設けます。三十パーセントまで。
その範囲内で最大の応答速度を出す設計に変える」
「それじゃ足りないと言ってるんです」
「戦術で補います」
灯が日高を見た。
「……戦術で」
「慣性制御の限界が分かっているなら、その限界を前提にした動き方を設計する。
機体の性能を上げるより、限界の中で最大の結果を出す方が、長期的に安全です」
灯が図面を見た。
シオンが日高を見た。
「それは」
シオンが静かに言った。
「彼女たちに、壊れていい消耗品になってほしくない、ということですか」
「はい」
沈黙があった。
灯が図面を束ね直した。
「……分かりました。三十パーセントで設計し直します」
「お願いします」
「ただし」
灯が日高を見た。
「その戦術とやらを、ちゃんと作ってください。機体側が我慢した分は、
そっちで補ってもらいます」
「了解です」
灯が橋の方へ歩き始めた。
「打ち合わせ、後でいいですか」
シオンに向かって言う。
「構いません」
灯の足音が遠ざかる。
シオンが海を向いた。
「あの子は」
日高が言う。
「以前から知っているんですか」
「満州事件の後、接触してきました。兵装の設計がしたい、と」
「動機は」
「聞きませんでした。ただ」
シオンが少し考えた。
「四人のことを、最初から知っていた様子でした。
どこで知ったかは教えてもらっていません」
日高はシオンを見た。
「シオンさんは」
「はい」
「四人をここで安定させることはできますか。長期的に」
「できます。ただし条件があります」
「聞かせてください」
「接続はしません」
シオンが日高を見た。
「QTRの制御に四人の力が必要なのは分かっています。
だから完全に切り離すことはできない。でも、満州のような状態には戻しません。
接続するなら、本人たちが選んだ時だけです」
「分かりました」
「それが守れるなら、ここで安定させます。守れないなら、私は協力しません」
日高はシオンの目を見た。
交渉ではない。
条件だった。
これを受け入れるか、受け入れないかだけを聞いている。
「守ります」
シオンが頷いた。
それだけだった。
二人で海を見た。
霧が少し薄くなっていた。
対岸の工場群の輪郭が、さっきより鮮明に見える。
「ところで」
シオンが言った。
「四人の名前、まだ決めていませんよね」
「本人たちが選んだ時だけ、接続する」。
シオンが突きつけたその条件は、魔術師アルドが弟子を守るために背負った「枷」にも似た、重く尊い誓約でした。
機体の限界を戦術で補い、消耗品としての未来を拒絶する。
霧の晴れ間に見え始めた工場群は、鉄の城となるのか、あるいは希望のゆりかごとなるのか。
名もなき四人の少女たちに、最初の「言葉」を与える時が近づいています。




