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Null-Operations ~ヌルテクの魔術師~  作者: ちとせ鶫
第1部 存在しない軍隊

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第8話 三等陸尉

広報本部の窓際。日高は「終わった人間」を演じながら、牙を研ぎ澄ませていました。

三週間かけて静かに潜った軍の深層ネットワーク。大河原総監との一瞬の邂逅。

組織の論理に牙を剥く準備を整える彼の視界に、新たな「変数」が現れます。情報本部に転入した「静」という名。それは、閉ざされた情報の扉を叩く合図のようでした。

 軍本部の廊下は、いつでも薄暗い。


 蛍光灯の一本が微かに明滅しているのを、日高は三週間前から知っていた。

 誰も直さない。修繕の申請が出ているのかどうかも分からない。

 ただ毎朝、同じ場所で、同じ周期で、同じように点滅している。


 広報本部は本館の四階にある。


 エレベーターを使わない。

 階段を使う。

 四階分の階段を上りながら、日高は今日で着任から三週間になることを確認した。


 部屋に入る。


 おはようございます、という声が二つ三つ飛んでくる。

 日高は頷いて自分の席に座る。


 席は窓際だった。

 眺めがいい。

 嫌味のつもりではないだろうが、結果として嫌味になっている配置だった。

 訓練場が見える。

 走っている隊員たちが見える。

 日高には関係のない世界が、窓の向こうで続いている。


 端末を開く。


 今日の業務は、広報資料の校正と、来月の式典用テキストの原稿確認だった。


 日高は原稿を開いた。


 読む。

 赤を入れる。

 閉じる。


 次の資料を開く。

 隣の席の同僚が、背もたれに体重をかけながら言った。


「日高さんって、満州にいたんですよね」

「はい」

「あそこ、大変だったって聞きましたよ。事故があったとか」

「そうですね」

「でも、広報に来たってことは、まあ、その……」


 言葉を濁す。


「体を休める感じですか」

「そうです」


 日高は原稿から目を離さずに答えた。

 同僚は何か言いかけて、やめた。

 気まずさを感じたらしく、自分の端末に向き直った。


 この三週間で、似たような会話を六回した。

 内容は毎回少し違うが、結論は同じだった。

 日高は折れた。

 日高は終わった。

 日高は広報という名の倉庫に押し込まれた。


 そういう認識が、この建物の中で共有されている。


 日高はその認識を、毎回、丁寧に補強した。

 覇気のない返答。

 窓の外を見るともなく見る視線。

 昼食は一人で食べる。

 残業はしない。

 定時で帰る。


 完璧な「終わった人間」だった。


 昼過ぎ。

 日高は資料を持って、本館一階の資料室へ向かった。


 広報本部の資料室ではない。

 軍全体の公開資料を管理している部屋だ。

 誰でも入れるが、誰も来ない。


 棚の間を歩く。

 目当ての資料を探すふりをしながら、端末を操作する。


 軍の内部ネットワークに接続する。広報本部の権限で入れる範囲は限られている。

 だが、限られた範囲の中でも、繋がっている先がある。


 三週間かけて、接続点を一つずつ確認してきた。


 広報本部の予算管理システムは、科学技術庁の助成金システムと連携している。

 助成金システムは、複数の研究機関の会計データと繋がっている。

 その一部が、満州技術経済特区の管理システムと紐づいている。


 直接はアクセスできない。

 だが、紐づきの構造だけは見える。


 どこに何が繋がっているか。

 どの接続が、どの予算を動かしているか。


 日高は端末に何も保存しない。

 見るだけだ。

 頭に入れるだけだ。


 十五分で資料室を出た。


 廊下を歩く。


 本館の中央ホールへ向かう。

 そこで、足音が前から来た。


 複数。

 歩幅が広い。

 速度が一定。

 護衛を連れた上官の歩き方だった。


 日高は廊下の端に寄った。

 すれ違う直前、相手の顔が見えた。


 大河原だった。


 北方方面総監。

 この建物で最も上位の人間の一人。

 会議室で「君が見たものは存在しない」と言った男。


 大河原の目が日高を捉えた。

 一瞬だけ止まった。


「......ほう」

 低い声だった。

「まだいたのか。広報まがいの遊びに興じているそうだが、

 軍人の誇りはどこへ捨てた」


 護衛の一人が、日高を見た。反応を確認している。

 日高は大河原を見た。

 止まらない。歩きながら答えた。


「誇りなど、180ノットの速度の前には塵に等しい」

 すれ違う。

「総監、せいぜい今のうちに、自分の重さを噛み締めておくことだ」

 

 振り返らない。

 背後で、大河原の足音が一瞬乱れた。

 護衛が何か言っている。

 大河原が短く答えている。


 日高は前を向いたまま歩き続けた。


 四階へ戻る。


 席に座る。


 端末を開く。

 原稿の続きを読む。

 赤を入れる。


 隣の同僚が、昼休みから戻ってきた。

 日高の様子を一度だけ見て、何も言わずに自分の端末に向かった。


 午後の業務が続く。


 定時になる。

 日高は端末を閉じた。

 資料を揃えた。立ち上がった。


「お疲れ様でした」という声に「お疲れ様でした」と返した。


 階段を下りる。


 一階。


 出口の手前で、日高は足を止めた。


 掲示板がある。

 異動情報の一覧が貼られている。

 今週の更新分だった。


 流し読みする。

 一行に目が止まった。


 情報本部第二課、転入。氏名——静。

 前の所属は情報省だった。


 日高はその一行を三秒見た。


 情報省から情報本部へ。

 異動の理由は書いていない。

 ただ、名前と所属の変化だけがそこにある。


 静という名前は、満州事件の前に一度だけ、別の文脈で目にしたことがある。

 情報の整理が速い人間だという評価が、複数のルートから入っていた。

 言語化が得意だという話も聞いていた。


 日高は掲示板から目を離した。


 出口を抜けた。

 外の空気が冷たい。


 歩き出す。

「誇りなど、180ノットの速度の前には塵に等しい」――。

その不敵な言葉は、かつて空を駆けた天才の意地か、あるいは地上の欺瞞を焼き尽くす宣戦布告か。

定時で退庁する日高の背中は、もはや倉庫に押し込まれた廃材ではなく、狙いを定めた精密機械の冷徹さを帯びています。

「存在しない」者たちの逆襲は、まだ静かに鼓動を始めたばかりです。

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