第7話 存在しないもの
「存在しない」という一言で、すべてが闇に葬られた。
上層部が提示した完璧な嘘、そして自分たちさえも消去された歪な平穏。
しかし、牙を抜かれたはずの男の瞳は、絶望ではなく、その「不在」という自由を冷徹に見据えていました。
報告書には、こう書かれていた。
『満州技術経済特区・地下研究施設において発生した技術的事故により、
施設は自壊、完全消失。関与した人員は全員行方不明と認定する』
日高は、その文書を三度読んだ。
行方不明。
自分たちが今ここに座っているにもかかわらず。
会議室は狭かった。
窓がない。
蛍光灯が一本、微かに明滅している。
テーブルを挟んで、大河原北方方面総監が座っている。
五十代後半。
肩幅が広い。
階級章が重い。
その隣に、もう一人。
九条。
科学技術庁の事務次官だと紹介された。
細い。
目が小さい。
この部屋の中で最も存在感がない男が、最も重要な位置に座っていた。
「読んだか、三尉」
大河原が言った。
「はい」
「内容に相違はあるか」
日高は文書をテーブルに置いた。
「あります」
大河原の目が細くなった。
「施設は消滅していますが、人員は行方不明ではありません。全員生還しています」
「それは......」
「加えて、施設内で四名の被験体を発見し、保護しました。
現在、医療処置を受けています」
大河原が九条を見た。九条は書類に視線を落としたまま動かない。
「君が見たものは」
大河原が日高を見た。
「存在しない」
静かな声だった。怒鳴らない。
圧力をかけない。
事実として置く、という種類の言い方だった。
「技術も、少女たちも、君が体験したことのすべてが、記録上、存在しない」
日高は大河原を見た。
「理由をお聞きしても」
「ない」
即答だった。
「理由を説明する必要がない。それがこの件の結論だ」
九条が初めて口を開いた。
「日高三尉」
声は低かった。
感情がなかった。
「君は優秀だと聞いている。だからこそ言う。
賢い人間は、存在しないものについて語らない」
それだけ言って、また書類に視線を落とした。
日高は九条を三秒見た。
この男が金の出所だと、傍受した通信から推測できていた。
施設の管理権限ログに大河原の認証があったように、
予算の流れの上流にこの男がいる。
大河原が喋る。九条が動かない。
どちらが上か、この部屋で三分あれば分かる。
「……了解しました、総監」
日高は言った。
声は平坦だった。抑揚がなかった。
了解しました、という言葉の意味だけが、そこにあった。
大河原がわずかに眉を動かした。抵抗を予想していた顔だった。
「賢明だ」
「ただし」
日高は続けた。
「保護した四名については、医療処置の継続をお願いしたい。
記録上存在しないとしても、生きています」
大河原と九条が、一瞬、視線を交わした。
「……処置は継続する」
大河原が言った。
「ただし、管理は施設側が行う。君たちの関与は、ここで終わりだ」
「了解しました」
日高はもう一度言った。
同じ声で。同じ温度で。
会議室を出た。
廊下に出た瞬間、真壁が壁際に立っていた。
腕を組んでいる。壁に背をもたせかけている。
日高が出てくるのを待っていた。
「どうだった」
「存在しないことになりました」
「俺たちも含めて」
「行方不明です。書類上」
真壁が鼻から息を抜いた。
「……そうか」
廊下の蛍光灯が、会議室のものと同じ周期で明滅していた。
この建物全体が、同じ問題を抱えているらしかった。
「四人は」
「管理は施設側が引き継ぐと言われました」
「信用できるか」
「できません」
真壁が壁から背を離した。
「だな」
二人で廊下を歩く。出口へ向かう。
窓から外が見えた。満州の空は低い。
雲が重い。
遠くで煙が上がっている。
施設があった方向ではない。
別の何かが燃えている。
「先任は、次の配属は」
「北方の部隊に戻る。元の持ち場だ」
「そうですか」
出口の手前で、真壁が足を止めた。
日高も止まる。
「……また会うことはあるか」
真壁が前を向いたまま言った。
「さあ」
日高は答えた。
真壁が日高を見た。
何かを確認するような目だった。
値踏みではない。
記憶に残そうとしているような、そういう目だった。
「……生き残れよ」
「はい」
それだけだった。
真壁は出口を抜けた。
日高はその背中を見た。
視界から外れるまで。
それから前を向いた。
端末に通知が入っていた。
辞令。
広報本部付、特任広報官。
三等陸尉のまま。
日高は通知を閉じた。
廊下を歩く。
左遷だと、誰もが読む配置だった。
満州で折れた天才児が、牙を抜かれて広報という名の倉庫に押し込まれた。
そういう話として、この辞令は読まれる。
読まれる。
日高はその事実を確認した。
出口の扉を押した。
外の空気が入ってくる。
冷たい。
立ち止まる。
頭の中で、会議室での九条の言葉が鳴っていた。
賢い人間は、存在しないものについて語らない。
存在しないもの。
Non-Existent。
存在しない技術。
存在しない施設。
存在しない少女たち。
存在しない自分たち。
存在しないから、規制できない。
存在しないから、追跡できない。
存在しないから——
日高の口の端が、わずかに動いた。
一度だけ。
それから歩き出した。
条次官の言葉は、皮肉にも日高に新たな道を示しました。
存在しないものは、誰にも縛られない。誰にも追えない。
広報官という名の倉庫に押し込まれた「牙」が、静かに研ぎ澄まされる。
満州の低い空の下、日高の微かな笑みは、欺瞞に満ちた世界への逆襲の始まりを予感させます。




