第15話 観測される存在
宗谷が残した白い航跡は消えたのに、世界のどこかで波紋だけが静かに広がっていた。
誰も声を荒げないまま、確実に何かが動き始めている。
観測されたという事実だけが、じわりと重く胸に沈む。
静かな朝の海は、昨日と同じ色をしているのに、もう同じではなかった。
九条からの着信は、翌朝も続いていた。
夜の間に六回。
朝になってから三回。
日高は九回分の着信記録を確認して、端末をテーブルに置いた。
室蘭の宿舎は簡素だった。
工廠の近くに借りた一室。窓から噴火湾が見える。朝の海は灰色だった。
波がない。昨日と同じ海だった。
十時に、静から連絡が入った。
テキストだった。
——九条次官が、私にも連絡してきています。どう対応しますか。
日高は返した。
——折り返してください。私からは折り返しません。
十分後、静から返信が来た。
——了解しました。内容は後で共有します。
昼前に、静が室蘭に来た。
宿舎ではなく、工廠の会議室で会った。静はコートを脱がなかった。室蘭に来るつもりがなかったのに来た、という速度の移動だった。
「九条次官から聞いた内容を報告します」
静が椅子に座った。書類を出さない。全部頭に入っている。
「昨日の午後、複数の情報機関から九条次官に問い合わせが入ったそうです」
「どこから」
「UNAの情報部門と、EFの技術情報局です。それぞれ独立して、同じタイミングで接触してきた」
「内容は?」
「北海道周辺の海域で、既存の計測機器では説明できない速度の移動体を検知したという報告が入っている。東亜連邦側に確認したい、という問い合わせです」
日高は窓の外を見た。
噴火湾の灰色の海。
「百八十ノットに達した時間から四分後に、九条次官への着信が入っていました」
「そのくらいの速度で情報が動きます」
静が続ける。
「九条次官は、何も知らないと答えたそうです。ただ」
「ただ」
「声が震えていたと、UNA側の担当者が記録に残しています。九条次官の側近から漏れた情報です」
日高は静を見た。
「その情報は、どこから」
「私のルートです」
静が答えた。それ以上は言わない。
「問い合わせへの対応は、どうしますか」
「九条次官には、何も知らないと言い続けてもらいます。ただし」
日高は少し考えた。
「次官に、一つお願いがあります」
「内容を聞いてから判断します」
「問い合わせてきた担当者の名前と所属を、記録しておいてもらいたい」
静が日高を見た。
「将来の顧客リストです」
静の目が、わずかに動いた。
「……なるほど」
「興味を持った相手が誰か、分かれば十分です」
「了解しました。伝えます」
会議室の扉が、ノックなしに開いた。
全員が振り向いた。
女性だった。小柄。動きが速い。作業着ではなく、動きやすい服装をしている。手ぶらだった。
日高を見た。
「報告があります」
「ナルミさんですか」
「はい」
名乗らなかった。確認だけした。
「昨日から、工廠の周辺に二名います。観測目的だと思います」
「どこの方でしょうか」
「特定できていません。装備と動き方から、民間ではありません」
静が日高を見た。
「UNAかEFか」
「どちらかです。ただし」
ナルミが続ける。
「今朝から、いなくなりました」
「排除しましたか」
「していません。昨夜のうちに、自分で帰りました」
「なぜ」
「分からなかったようです」
ナルミが答えた。
「何を探しているか、どこを見ればいいか。ここに来たけれど、何もない。それで帰った、という動きをしていました」
日高はナルミを見た。
「何もないように、見せたんですか」
「見せていません。実際に何もありませんでした」
ナルミが当然のように言った。
「工廠は地下です。地上に痕跡を残していません。海面の航跡は消えました。九条次官は何も知らないと言っている。確認できるものが何もない」
「Non-Existentが機能した」
「今回は、です」
ナルミが日高を見た。
「次に来た時は、もう少し準備してきます。今回は偵察です。次は回収目的で来ます」
「時間はどのくらいありますか」
「情報を持ち帰って、分析して、次の行動を決める。早くて二週間、遅ければ一ヶ月です」
日高は静を見た。
静がナルミを見た。
「ナルミさんは、いつからここにいましたか」
「三週間前からです」
「誰の指示で」
「日高さんの指示で」
静が日高を見た。
「私には知らせていませんでしたね」
「今知らせています」
静が少し間を置いた。
「......了解しました」
ナルミが会議室の端に移動した。壁際に立った。それだけで、存在感が薄くなった。
静が書類を出した。
「次の話、続けてよろしいですか」
「はい」
「次にJ-CEDの存在が外部に漏れる時は、今回のような偶発的な形にすべきではありません」
「同意します」
「こちらが意図した形で、こちらが選んだタイミングで、こちらが選んだ相手に見せるべきです」
日高は静を見た。
「準備はできていますか」
「何の準備ですか」
「見せる準備です。J-CEDが何をできるか。何をするつもりか。それを世界に向けて示す準備」
「……EFが動いています」
日高が言った。
「北方への圧力が増しています。このペースで続けば、三ヶ月以内に何かが起きます」
「それを使いますか」
「使います」
静が日高を見た。
「その時は、私が言葉を作ります」
「お願いします」
「ただし条件があります」
「聞かせてください」
「私が作った言葉を、そのまま使ってください。現場で変えない」
「了解します」
静がコートの前を合わせた。
「次に見せる時は」
立ち上がりながら言った。
「世界に向けて見せましょう。偶然ではなく、意図した形で」
日高は答えなかった。
静が扉へ向かった。
扉の手前で止まらなかった。そのまま出ていった。
会議室にナルミが残った。
壁際に立ったまま。
日高はナルミを見た。
「引き続き、お願いします」
「了解です」
ナルミが答えた。
その声が終わった時には、もうナルミの姿が会議室になかった。
扉は開いていない。
窓も開いていない。
ただ、いなかった。
痕跡は消え、証拠も残らないはずなのに、世界は確かに気づき始めていた。
見られたのか、感じられたのか──その境界すら曖昧なまま、時間だけが進む。
次に姿を見せる時は、偶然ではなく、意図を持って。
静けさの奥で、選ばれた者たちだけがその準備を進めていた。




