第16話 Null-Operations
凍りついた単冠湾の下で、四隻は息を潜めていた。
静寂は深く、しかしその奥で確かに何かが目を覚まそうとしている。
集められた七人と一人の来訪者──その視線の先にあるのは、もう後戻りできない選択だった。
白い世界の中で、決意だけが静かに熱を帯びていた。
単冠湾は、凍っていた。
水平線の彼方まで、白と灰色が続いていた。
流氷ではない。湾全体が、一枚の板のように固まっている。
その下に——四隻が、眠っている。
宗谷。
間宮。
根室。
羊蹄。
海底トンネルを通じてドックに繋がれたまま、氷の下で待機している。外からは見えない。レーダーにも映らない。存在しない四隻だった。
日高は岸壁に立っていた。
風が来た。塩と氷が混じっている。室蘭とは違う冷たさだった。ここの寒さには、遮るものが何もない。水平線まで、ただ白が続いている。
「全員、揃いましたよ」
静の声が後ろから来た。
振り向かない。
「ミナトさんも来ましたか」
「たった今、着きました。移動中に仕事をしていたそうです」
「政界の方は」
「三つ、話をつけてきたそうです。移動の間に」
日高は氷を見た。
「会いましょう」
振り向いた。
岸壁から続く建物の入口に、全員が集まっていた。
静。シオン。灯。ナルミ。トウコ。ヒヨリ。
そして、初めて見る顔が一つあった。
小柄だった。穏やかな顔をしている。手に薄いタブレットを持っている。移動中も仕事をしていた、というのが見た目からも分かる。目が疲れている。だが姿勢が崩れていない。
「ミナトです」
日高が近づく前に、その人物が言った。
「渉外と政界担当をしています。遅くなりました」
「いえ」
「移動中に三件、処理してきました。報告は後でまとめます」
「お疲れ様でした」
「仕事なので」
ミナトがタブレットを一度見て、しまった。
「提督に直接会うのは初めてですね」
「そうですね」
「静さんから聞いていた通りの人でした」
「どんな風に」
「言葉が少ない、と」
静が何も言わなかった。
日高は全員を見た。
七人が揃っていた。
「中に入りましょう」
建物の中は、外より少しだけ暖かかった。会議室ではない。広い部屋だった。テーブルが一つ。椅子が並んでいる。窓から湾が見える。氷が見える。
全員が座った。
日高は立ったままだった。
「今日、ここに来てもらったのは」
全員を見る。
「J-CEDを正式に動かします」
静が頷いた。トウコが書類を出した。ヒヨリが端末を開いた。灯がテーブルに肘をついた。シオンが窓の外を見た。ナルミは壁際に立っていた。ミナトがタブレットを取り出した。
「Null-Operationsという名前で、実働部隊を編成します」
「編成の規模は」
トウコが聞いた。
「今ここにいる全員と、四隻です」
「それだけですか」
「それだけです」
トウコが書類に記録した。
「EFが動きます。三ヶ月以内に、北方で何かが起きます。その時に、J-CEDが初めて表に出ます」
「表に出る形は」
静が聞いた。
「広報活動です」
全員が静かだった。
灯が口を開いた。
「……広報活動」
「はい」
「戦います」
「戦います。ただし、それは広報活動の一環として行います」
灯が日高を見た。
「どういう意味ですか」
「J-CEDは民間エネルギーインフラ企業です。戦闘は、インフラを守るための最終手段として行います。その一部始終を、記録して、発信します」
「誰に」
「世界に」
静がテーブルの上で手を組んだ。
「戦闘を広報素材にする、ということですか」
「はい。交渉が先です。撤退の勧告が先です。それでも動かない相手に対して、最終手段として動く。その順序を守れば、何が起きても説明できます」
「説明できる、というのは」
「J-CEDが何者かを、世界が理解した後なら、戦闘は宣伝になります」
ミナトがタブレットに何かを入力した。
「政界側への説明は私が担当します。動く前に、根回しが必要な相手が十二人います」
「お願いします」
「ただし時間をください。三ヶ月は必要です」
「EFが動く前に終わりますか」
「終わらせます」
ミナトが答えた。断言だった。移動中に三件処理してきた人間の断言だった。
トウコが書類を一枚、テーブルに置いた。
「組織の正式名称を確定します。Judgment-Central Edge Development、略称J-CED。実働部隊はNull-Operations。よろしいですか」
「はい」
「代表者は」
「日高凌」
「階級と肩書きは」
「連邦軍広報本部付、特任広報官、三等陸尉」
「J-CED内部での呼称は」
トウコが日高を見た。
全員が日高を見た。
日高は窓の外を見た。
氷が見える。その下に四隻がいる。
「決まっていません」
その時、建物の入口で音がした。
扉が開く音。
足音。
廊下を歩いてくる。
止まる。
部屋の入口に、人が立った。
真壁だった。
軍服を着ていない。私服だった。コートが古い。手ぶらだった。
部屋の全員を見た。日高を見た。
「......遅れました」
それだけ言った。
日高は真壁を見た。
「座ってください」
「立っていられますから」
「どうぞ」
真壁が部屋に入った。壁際に立った。ナルミの隣だった。ナルミが真壁を一度見て、前を向いた。
「先任」
日高が言った。
「ここに来た理由を聞かせてください」
真壁が日高を見た。
「満州で、一緒に仕事をしました」
「はい」
「その後、北方の部隊に戻りました」
「はい」
「先月、命令を受けました」
真壁が続ける。
「補給路の確保任務でした。EFの圧力が強い地域を、隊員を連れて通過する命令でした」
「結果は」
「通過しました。全員生還しました」
「問題は」
「命令そのものです」
真壁が壁を見た。部屋の壁ではなく、もっと遠い何かを見ている目だった。
「あの経路を通る必要はありませんでした。別のルートがありました。安全なルートがありました。それでも上は、あの経路を命令しました」
「理由は」
「EFへの示威行動です。危険な経路をあえて通ることで、連邦軍の存在を示す。隊員の安全より、政治的なメッセージが優先されました」
部屋が静かだった。
「誰も死にませんでした。だから問題にならない。ただ」
真壁が日高を見た。
「死ななかっただけです」
日高は真壁を見た。
「それで来たんですか」
「満州で、あなたは命令を無視しました」
「はい」
「四人を連れて出ました」
「はい」
「命令通りにしなかった」
「はい」
「......正しかったと思います」
真壁が言った。
「あの時の判断が、です。命令より、目の前の現実を優先した。それが正しかったと思っています」
「今回も、そう思いますか」
「今回は、命令通りにしました」
真壁が壁から背を離した。
「それが間違いだったとは言いません。ただ——」
日高を見た。
「もう一度、あなたと仕事をしたいと思いました」
部屋が静かだった。
静が手を組んだまま動かない。灯がテーブルから肘を離した。シオンが窓から視線を戻した。
「役割は」
日高が言った。
「地上戦と現場統制です。Null-Angelsとは別の枠で動いてもらいます」
「了解です」
「もう一つ聞きます」
「はい」
「J-CED内部での俺の呼称を、まだ決めていません」
真壁が日高を見た。
何かを思い出すような目だった。
満州の地下。施設が崩れていく中で、二人で動いた時間。言葉を交わさずに動いた時間。
「......提督」
真壁が言った。
静かだった。
特別な声ではなかった。ただ、その言葉がこの部屋に落ちた時、何かが確定した感触があった。
全員が日高を見た。
「提督」
ミナトが繰り返した。確認ではなく、記録する声だった。
「提督」
灯が言った。さっきより少し、声が明るかった。
トウコが書類に書いた。
日高は窓の外を見た。
氷。水平線。白と灰色。
「出発します」
全員が動いた。
椅子が引かれる。書類が閉じられる。端末がしまわれる。
全員が建物を出た。
岸壁に立った。
湾が見える。氷が見える。
日高は端末を出した。
一つの操作をした。
湾の氷が、動いた。
音がした。
低い、重い音。
氷が割れ始めた。
四隻の船首が、氷を押し上げながら水面に現れた。
宗谷が先頭だった。
白い船体が、灰色の空の下に現れた。
続いて間宮、根室、羊蹄。
四隻が揃った。
真壁が岸壁の端に立って、宗谷を見ていた。
初めて見る。その目をしていた。
何も言わなかった。
ただ、見ていた。
日高は四隻を見た。
静が隣に立った。
「行きましょう」
日高は答えなかった。
宗谷の甲板に向かって歩き始めた。
氷を割って現れた四隻は、存在しないはずの影を確かな形に変えていった。
誰も声を荒げず、誰も迷いを口にしないまま、ただ前へ進む準備だけが整っていく。
「提督」という呼び名が落ちた瞬間、J-CEDはもう引き返せない場所に立った。
静かな湾の上で、世界に向けた最初の一歩が、音もなく始まっていた。




