表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Null-Operations ~ヌルテクの魔術師~  作者: ちとせ鶫
第1部 存在しない軍隊

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/16

第14話 宗谷起動

静かな水面に浮かぶ宗谷は、眠っているようで、しかし確かに目を覚まそうとしていた。

誰も声を荒げないのに、胸の奥で何かがゆっくりと軋む。

三週間の準備が積み重なり、今日だけは後戻りできない。

張りつめた空気の中、ただ一度の起動が静かに始まろうとしていた。

 宗谷は、静かだった。


 ドックの水面に浮かんで、どこか眠っているような——

 船という概念を持つものすべての中で、

 最も「動く準備ができている」姿をしていた。

 全長二百メートル。喫水線から上の構造が低い。

 速度のために削られた形だった。余分なものが何もない。


 日高はその艦影を上から見下ろしていた。

 ドックの壁面に設けられた通路から、宗谷の甲板が見える。

 作業員が最終確認を進めている。

 ケーブルが外される。

 足場が引かれる。

 接岸していたラインが一本ずつ外れていく。


「準備、あと十分です」

 シオンが隣に立って言った。端末を見たまま。数字を追いながら。

「澪の状態は」

「問題ありません。昨日より落ち着いています」


 日高はドックの奥を見た。

 宗谷の艦橋から離れた場所に、小さな区画がある。外からは見えない。そこに四人がいる。接続ではない。シオンが設計した別の方法で、QTRと繋がっている。


 シオンの言葉通りだった。接続するなら、本人たちが選んだ時だけ。


 三週間前、名前を呼んだ翌日、澪が初めて声を出した。

 言葉ではなかった。音だった。だが、意図があった。シオンがそれを確認して、日高に報告した。


 その一週間後、澪が日高に問いかけた。

 短い問いだった。

 ここは何ですか。

 日高は答えた。

 船です。

 澪がその答えを聞いて、また黙った。

 黙ったまま、しばらく考えていた。それから言った。

 乗っていいですか。


 その時点で、日高はシオンに確認した。シオンが澪に確認した。澪は頷いた。

 それが、今日の起動テストの起点だった。


「澪が言い出したことです」

 シオンが言った。日高の思考を読んだわけではないだろうが、タイミングが重なった。

「私が勧めたわけではありません」

「知っています」

「ただ」

 シオンが端末から顔を上げた。

「澪が選んだとしても、負荷がかかることは変わりません。今日のテストは短時間で終わらせてください」

「何分ですか」

「三分を上限にします。それ以上は止めます」

「了解です」


 ドックの下で、作業員の声が上がった。最終確認完了の報告が、通路まで届いた。

 灯が通路の端から歩いてきた。作業着。手を作業ズボンのポケットに突っ込んでいる。


「準備できました」

「カムイは」

「エイプスギアは数機、テストを兼ねて格納はしていますが、今日のメインはは宗谷だけです」

 灯が宗谷を見下ろした。

「でかいですね」

「そうですね」

「これが180ノットで動くんですか」

「動かします」


 灯が日高を見た。


「見ていいですか」

「どこから見ますか」

「ここから」

 通路から見下ろす、という意味だった。

「構いません」

 灯が通路の手すりに腕をかけた。

 シオンの端末が鳴った。

「澪から、準備できたと連絡が入りました」

 日高は宗谷を見た。

 水面が静かだった。波がない。

「始めます」


 シオンが端末を操作した。

 ドック内の照明が変わった。通常の白い光から、わずかに青みがかった光に切り替わる。QTRの起動を示すシグナルだった。


 宗谷が、鳴った。

 音ではない。

 振動だった。


 ドックの壁面から、床から、手すりから、全方向から同時に伝わってくる低い振動。エンジンの振動ではない。もっと根本的な何かが動き始めている感触だった。

 シオンの端末の数字が動き始めた。


「QTR、起動シーケンス開始」

 声が少し固かった。

「澪、反応確認」


 端末に短いテキストが届いた。

 シオンがそれを読んだ。


「......準備できているそうです」

「伝えてください。いつでもいいと」


 シオンが端末を操作した。

 数秒。

 宗谷の水面下で、何かが変わった。

 目に見えない変化だった。だが水面の質が変わった。宗谷の周囲だけ、水の動き方が違う。波の立ち方が違う。水という物質が、宗谷に対して別の振る舞いをし始めていた。


「出力、上昇しています」

 シオンが読み上げる。

「十パーセント……二十……」


 宗谷が動いた。

 ゆっくりと、前進した。

 接岸ラインが外れている。エンジン音はしない。推進力の源泉が見えない。ただ、二百メートルの船体が、静かに水の上を滑り始めた。


「三十パーセント」

 速度が上がった。

 ドックの出口に向かっている。海底トンネルの入口。そこを抜ければ噴火湾の外海に出る。

「四十……」


 速度が上がるにつれて、水面の変化が大きくなった。宗谷の船体周囲だけ、水が後退している。接触を避けるように。物理法則の書き換えが、目に見える形で現れていた。


「五十……」

「シオンさん」

 日高が言った。

「澪の状態は」

「問題ありません。負荷、許容範囲内です」


 宗谷がトンネルに入った。

 視界から消えた。

 通路に残った三人が、出口の先を見ていた。

 外海に出た宗谷がどこにいるか、ここからは見えない。シオンの端末の数字だけが、状況を伝えている。


「六十……七十……」

 速度が上がり続けている。

「八十……」

 灯が手すりを両手で掴んだ。数字を聞きながら、見えない宗谷を追っている。

「九十……」

「シオンさん」

「負荷、上限の七十パーセントです。まだ許容範囲内」

「百……百十……」


 数字が上がるたびに、ドック内の振動が変わった。宗谷が遠ざかっているのに、振動は大きくなっている。QTRの出力が、距離に関係なく空間を通じて伝わっている。


「百二十……百三十……」

「負荷、八十パーセント」

 シオンの声が少し上がった。

「百四十……百五十……」

「どこまで上げますか」

 日高が聞いた。

「澪が決めます」

 シオンが答えた。

「私が止めるのは、負荷が限界に達した時だけです。それまでは、澪が選んでいます」

「百六十……」


 振動が最大になった。

 手すりが細かく震えている。灯が両手で掴んだまま離さない。


「百七十……」

「負荷、九十パーセント」

「シオンさん」

「まだです」

 端末を見たまま答えた。

「百八十」


 数字が止まった。

 百八十ノット。

 振動が変わった。

 大きくなるのではなく、均質になった。一定の、安定した振動。宗谷が速度を維持している。


「……維持しています」

 シオンの声が、わずかに変わった。

「百八十ノット、安定」


 灯が手すりから手を離した。

 数字を聞いていた。見えない宗谷を追っていた。百八十という数字が止まった瞬間、何かを確認した顔をした。

 何も言わなかった。

 シオンの端末のタイマーが動いていた。

 一分。

 一分三十秒。

 二分。


「負荷、九十二パーセント」

「澪に伝えてください。あと一分です」

「......伝えます」


 シオンが端末を操作した。

 二分三十秒。


「負荷、九十三パーセント。上昇しています」

 二分五十秒。

「九十五パーセント」


 三分。

「止めます」


 シオンが端末を操作した。


 振動が変わった。

 均質だった振動が、ゆっくりと落ちていく。速度が下がっている。百八十から、百五十から、百から。


 水面の変化が戻っていく。

 宗谷がトンネルに戻ってくる気配がした。

 数分後、宗谷の船首がトンネルの入口から現れた。


 ゆっくりと、ドックに戻ってくる。

 速度がない。推進力が落ちている。宗谷が停止した。


 日高は宗谷を見た。

 外見に変化はない。傷もない。変形もない。

 ただ、水面に航跡が残っていた。

 白い線が、トンネルの入口から続いている。水面が元に戻る前の、わずかな痕跡だった。


「......澪の状態は」

「疲れています」

 シオンが答えた。

「ただ」

 端末を見たまま続ける。

「テキストが届いています」

「何と」

 シオンが少し間を置いた。

「もう一度、乗りたいそうです」


 日高は航跡を見た。

 白い線が、ゆっくりと消えていく。

 水が元に戻っていく。

 三分間だけ存在した痕跡が、何もなかったように消えていく。


「次は、もう少し長くできますか」

 シオンに聞いた。

「......澪が回復したら、検討します」

「いつ頃ですか」

「二週間あれば」

「分かりました」


 日高は端末を出した。


 着信が入っていた。

 九条からだった。

 着信時刻を確認する。宗谷が百八十ノットに達した時刻から、四分後だった。

 日高は着信を見たまま、端末をしまった。


「灯さん」

「はい」

「カムイの設計、急いでください」

 灯が日高を見た。

「......何かありましたか」

「気配が漏れました」

 灯が航跡の消えた水面を見た。

「見えないはずなのに」

「見えなくても、感じる人間はいます」

 灯が頷いた。

「急ぎます」


 シオンが端末を閉じた。


「澪に、今日のことを伝えてきます」

「お願いします」


 シオンがドックの奥へ歩いていった。

 通路に日高と灯が残った。

 水面は完全に元に戻っていた。

 航跡は消えた。


 宗谷は静かにドックに浮かんでいた。

 最初からそこにいたように。

 何も起きなかったように。

 だが、九条からの着信が、端末の中に残っていた。

百八十ノットの痕跡は、白い線を残したまま、静かに消えていった。

何も壊れず、何も語らず、ただ確かに“動いた”という事実だけが残る。

見えないはずの気配が、どこかへ漏れた。

宗谷は再び静寂に戻ったが、その沈黙はもう以前のものではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ