第14話 宗谷起動
静かな水面に浮かぶ宗谷は、眠っているようで、しかし確かに目を覚まそうとしていた。
誰も声を荒げないのに、胸の奥で何かがゆっくりと軋む。
三週間の準備が積み重なり、今日だけは後戻りできない。
張りつめた空気の中、ただ一度の起動が静かに始まろうとしていた。
宗谷は、静かだった。
ドックの水面に浮かんで、どこか眠っているような——
船という概念を持つものすべての中で、
最も「動く準備ができている」姿をしていた。
全長二百メートル。喫水線から上の構造が低い。
速度のために削られた形だった。余分なものが何もない。
日高はその艦影を上から見下ろしていた。
ドックの壁面に設けられた通路から、宗谷の甲板が見える。
作業員が最終確認を進めている。
ケーブルが外される。
足場が引かれる。
接岸していたラインが一本ずつ外れていく。
「準備、あと十分です」
シオンが隣に立って言った。端末を見たまま。数字を追いながら。
「澪の状態は」
「問題ありません。昨日より落ち着いています」
日高はドックの奥を見た。
宗谷の艦橋から離れた場所に、小さな区画がある。外からは見えない。そこに四人がいる。接続ではない。シオンが設計した別の方法で、QTRと繋がっている。
シオンの言葉通りだった。接続するなら、本人たちが選んだ時だけ。
三週間前、名前を呼んだ翌日、澪が初めて声を出した。
言葉ではなかった。音だった。だが、意図があった。シオンがそれを確認して、日高に報告した。
その一週間後、澪が日高に問いかけた。
短い問いだった。
ここは何ですか。
日高は答えた。
船です。
澪がその答えを聞いて、また黙った。
黙ったまま、しばらく考えていた。それから言った。
乗っていいですか。
その時点で、日高はシオンに確認した。シオンが澪に確認した。澪は頷いた。
それが、今日の起動テストの起点だった。
「澪が言い出したことです」
シオンが言った。日高の思考を読んだわけではないだろうが、タイミングが重なった。
「私が勧めたわけではありません」
「知っています」
「ただ」
シオンが端末から顔を上げた。
「澪が選んだとしても、負荷がかかることは変わりません。今日のテストは短時間で終わらせてください」
「何分ですか」
「三分を上限にします。それ以上は止めます」
「了解です」
ドックの下で、作業員の声が上がった。最終確認完了の報告が、通路まで届いた。
灯が通路の端から歩いてきた。作業着。手を作業ズボンのポケットに突っ込んでいる。
「準備できました」
「カムイは」
「エイプスギアは数機、テストを兼ねて格納はしていますが、今日のメインはは宗谷だけです」
灯が宗谷を見下ろした。
「でかいですね」
「そうですね」
「これが180ノットで動くんですか」
「動かします」
灯が日高を見た。
「見ていいですか」
「どこから見ますか」
「ここから」
通路から見下ろす、という意味だった。
「構いません」
灯が通路の手すりに腕をかけた。
シオンの端末が鳴った。
「澪から、準備できたと連絡が入りました」
日高は宗谷を見た。
水面が静かだった。波がない。
「始めます」
シオンが端末を操作した。
ドック内の照明が変わった。通常の白い光から、わずかに青みがかった光に切り替わる。QTRの起動を示すシグナルだった。
宗谷が、鳴った。
音ではない。
振動だった。
ドックの壁面から、床から、手すりから、全方向から同時に伝わってくる低い振動。エンジンの振動ではない。もっと根本的な何かが動き始めている感触だった。
シオンの端末の数字が動き始めた。
「QTR、起動シーケンス開始」
声が少し固かった。
「澪、反応確認」
端末に短いテキストが届いた。
シオンがそれを読んだ。
「......準備できているそうです」
「伝えてください。いつでもいいと」
シオンが端末を操作した。
数秒。
宗谷の水面下で、何かが変わった。
目に見えない変化だった。だが水面の質が変わった。宗谷の周囲だけ、水の動き方が違う。波の立ち方が違う。水という物質が、宗谷に対して別の振る舞いをし始めていた。
「出力、上昇しています」
シオンが読み上げる。
「十パーセント……二十……」
宗谷が動いた。
ゆっくりと、前進した。
接岸ラインが外れている。エンジン音はしない。推進力の源泉が見えない。ただ、二百メートルの船体が、静かに水の上を滑り始めた。
「三十パーセント」
速度が上がった。
ドックの出口に向かっている。海底トンネルの入口。そこを抜ければ噴火湾の外海に出る。
「四十……」
速度が上がるにつれて、水面の変化が大きくなった。宗谷の船体周囲だけ、水が後退している。接触を避けるように。物理法則の書き換えが、目に見える形で現れていた。
「五十……」
「シオンさん」
日高が言った。
「澪の状態は」
「問題ありません。負荷、許容範囲内です」
宗谷がトンネルに入った。
視界から消えた。
通路に残った三人が、出口の先を見ていた。
外海に出た宗谷がどこにいるか、ここからは見えない。シオンの端末の数字だけが、状況を伝えている。
「六十……七十……」
速度が上がり続けている。
「八十……」
灯が手すりを両手で掴んだ。数字を聞きながら、見えない宗谷を追っている。
「九十……」
「シオンさん」
「負荷、上限の七十パーセントです。まだ許容範囲内」
「百……百十……」
数字が上がるたびに、ドック内の振動が変わった。宗谷が遠ざかっているのに、振動は大きくなっている。QTRの出力が、距離に関係なく空間を通じて伝わっている。
「百二十……百三十……」
「負荷、八十パーセント」
シオンの声が少し上がった。
「百四十……百五十……」
「どこまで上げますか」
日高が聞いた。
「澪が決めます」
シオンが答えた。
「私が止めるのは、負荷が限界に達した時だけです。それまでは、澪が選んでいます」
「百六十……」
振動が最大になった。
手すりが細かく震えている。灯が両手で掴んだまま離さない。
「百七十……」
「負荷、九十パーセント」
「シオンさん」
「まだです」
端末を見たまま答えた。
「百八十」
数字が止まった。
百八十ノット。
振動が変わった。
大きくなるのではなく、均質になった。一定の、安定した振動。宗谷が速度を維持している。
「……維持しています」
シオンの声が、わずかに変わった。
「百八十ノット、安定」
灯が手すりから手を離した。
数字を聞いていた。見えない宗谷を追っていた。百八十という数字が止まった瞬間、何かを確認した顔をした。
何も言わなかった。
シオンの端末のタイマーが動いていた。
一分。
一分三十秒。
二分。
「負荷、九十二パーセント」
「澪に伝えてください。あと一分です」
「......伝えます」
シオンが端末を操作した。
二分三十秒。
「負荷、九十三パーセント。上昇しています」
二分五十秒。
「九十五パーセント」
三分。
「止めます」
シオンが端末を操作した。
振動が変わった。
均質だった振動が、ゆっくりと落ちていく。速度が下がっている。百八十から、百五十から、百から。
水面の変化が戻っていく。
宗谷がトンネルに戻ってくる気配がした。
数分後、宗谷の船首がトンネルの入口から現れた。
ゆっくりと、ドックに戻ってくる。
速度がない。推進力が落ちている。宗谷が停止した。
日高は宗谷を見た。
外見に変化はない。傷もない。変形もない。
ただ、水面に航跡が残っていた。
白い線が、トンネルの入口から続いている。水面が元に戻る前の、わずかな痕跡だった。
「......澪の状態は」
「疲れています」
シオンが答えた。
「ただ」
端末を見たまま続ける。
「テキストが届いています」
「何と」
シオンが少し間を置いた。
「もう一度、乗りたいそうです」
日高は航跡を見た。
白い線が、ゆっくりと消えていく。
水が元に戻っていく。
三分間だけ存在した痕跡が、何もなかったように消えていく。
「次は、もう少し長くできますか」
シオンに聞いた。
「......澪が回復したら、検討します」
「いつ頃ですか」
「二週間あれば」
「分かりました」
日高は端末を出した。
着信が入っていた。
九条からだった。
着信時刻を確認する。宗谷が百八十ノットに達した時刻から、四分後だった。
日高は着信を見たまま、端末をしまった。
「灯さん」
「はい」
「カムイの設計、急いでください」
灯が日高を見た。
「......何かありましたか」
「気配が漏れました」
灯が航跡の消えた水面を見た。
「見えないはずなのに」
「見えなくても、感じる人間はいます」
灯が頷いた。
「急ぎます」
シオンが端末を閉じた。
「澪に、今日のことを伝えてきます」
「お願いします」
シオンがドックの奥へ歩いていった。
通路に日高と灯が残った。
水面は完全に元に戻っていた。
航跡は消えた。
宗谷は静かにドックに浮かんでいた。
最初からそこにいたように。
何も起きなかったように。
だが、九条からの着信が、端末の中に残っていた。
百八十ノットの痕跡は、白い線を残したまま、静かに消えていった。
何も壊れず、何も語らず、ただ確かに“動いた”という事実だけが残る。
見えないはずの気配が、どこかへ漏れた。
宗谷は再び静寂に戻ったが、その沈黙はもう以前のものではなかった。




