第13話 不完全な設計
静まり返った会議室に、三枚の図面だけが呼吸をしているようだった。
誰も声を荒げないのに、言葉の端々が鋭くぶつかり合う。
性能と安全、理想と現実──どちらも正しく、どちらも譲れない。
張りつめた空気の中で、決断だけが静かに形を取っていく。
図面が、テーブルに広げられていた。
三枚。
カムイの駆動系、
QTRの出力分配回路、
フェイルセーフの制御フロー。
それぞれが別の人間の手で描かれていた。
線の太さが違う。
記号の使い方が違う。
同じ設計の話をしているのに、言語が違う文書を並べているような見た目だった。
工廠の会議室は狭い。
テーブルが一つ。
椅子が六つ。
窓がない。
換気扇だけが回っている。
灯が図面を指で叩いた。
「なんで制限を入れるんですか」
日高に向かって言っている。
「ここを外したら、出力が三倍になります。応答速度も上がる。カムイが本来の動きをできるようになる」
「なるね」
「じゃあ外しましょう」
「だめだ」
灯が口を開けた。閉じた。また開けた。
「理由を聞かせてもらえますか」
「制限がない機体は、壊れていい機体だと思われる」
灯が日高を見た。
「......どういう意味ですか」
「限界が見えない機体は、限界まで使われる。限界まで使われる機体は、消耗品として設計されたことになる」
「でも制限を入れたら、性能が落ちます」
「落ちるな」
「落ちていいんですか」
「落ちていい」
灯が図面に視線を落とした。
テーブルの端に、別の人間が座っていた。
トウコだった。
法務担当。細い眼鏡。書類を持っている。この会議が始まってから、まだ一度も口を開いていなかった。
「灯さん」
トウコが言った。
声は低かった。感情の温度が低い。
「制限がない出力で稼働した場合、法的な位置づけはどうなりますか」
「法的な?」
「J-CEDは表向き広報組織です。広報組織の保有する機体が、制限なしの量子出力で稼働した場合、それは兵器の定義に該当する可能性があります」
「該当したら?」
「管理できません。Non-Existent Techという概念で保護されていますが、それは存在を証明されない場合の話です。性能が可視化された瞬間に、規制の対象になりえます」
灯がトウコを見た。
「......それは、制限を入れる理由として正しいですか」
「正しいかどうかではありません。現実の話です」
「現実として、制限を入れたら弱くなる」
「現実として、制限がなければ管理できない」
二人の視線が交わった。
どちらも引かない。
どちらも間違っていない。
日高は図面を見た。
出力分配回路の数字を追う。
制限を入れた場合の上限値。
その上限値で出せる応答速度。
エイプスギア・カムイが直角に曲がるために必要な最低限の数値。
ギリギリだった。
余裕がない。戦術で補うと言ったが、補える範囲の限界に近い。
「日高さん」
シオンが部屋の隅から言った。
会議が始まる前から、壁際に座っていた。発言はしていなかった。
「はい」
「制限値の設定は、調整体への負荷計算に基づいています。私が出した数字です」
「知っています」
「その数字は、長期運用を前提にしています。短期なら、もう少し上げられます」
灯が即座に顔を上げた。
「どのくらい上げられますか」
「三十パーセントが四十パーセントになります。ただし」
シオンが灯を見た。
「連続稼働時間が半分になります。使うほど、回復に時間がかかる」
「半分でも、応答速度は上がりますよね」
「上がります」
「じゃあ四十パーセントにしましょう」
「灯さん」
日高が言った。
灯が日高を見た。
「三十パーセントです」
「でも」
「四十パーセントで設計した機体は、四十パーセントを前提にした戦術を要求します。戦術が機体の限界に依存する」
「それの何が問題ですか」
「限界が変わった時に、戦術が機能しなくなります。調整体の状態は一定じゃない。疲弊する。体調が変わる。四十パーセントが出せない日が来る」
灯が日高を見た。
「......そういうことを考えるんですか」
「考えますよ。必要なことですから」
「機体の設計者は、普通そこまで考えません」
「俺は機体を使う側ですから」
灯が図面に視線を落とした。
しばらく見ていた。
換気扇が回っている。
「……分かりました」
灯が言った。
「三十パーセントで設計します。ただし」
日高を見る。
「補う戦術は、ちゃんと作ってください。機体が我慢した分は、そっちで取り返してもらいます」
「了解です」
トウコが書類に何かを書いた。
「設計仕様の確定、記録します」
淡々としていた。
「出力上限、三十パーセント。根拠、長期運用における調整体負荷の安全管理。決定者、日高凌」
「はい」
「異議がある場合は、今この場で言ってください」
誰も何も言わなかった。
トウコが書類を閉じた。
「次の議題があれば」
扉が開いた。
全員が振り向いた。
女性だった。二十代後半。スーツ。書類を抱えている。走ってきたのか、息がわずかに乱れていた。
「財務の件、整理できました」
部屋の全員を見渡して、日高に視線を止める。
「ご報告に来ました、提督」
提督。
その呼び方を、この場で初めて使った人間だった。
日高はその女性を見た。
「ヒヨリさんですか」
「はい。遅くなりました」
「いえ」
日高は席を一つ示した。
「座ってください」
ヒヨリが席に着いた。書類をテーブルに置いた。
「九条次官の署名が入った予算承認書を起点に、三つのルートを確保しました」
書類を広げる。数字が並んでいる。
「一つ目は直接の広報戦略費。これは表に出ます。二つ目は研究開発費の名目で通す分。三つ目は——」
「待ってください」
トウコが言った。
「三つ目の説明の前に、法的な問題がないか確認が必要です」
「確認してから来ました」
「どこで」
「トウコさんが知らない方がいいところです」
トウコが眼鏡を直した。
「......続けてください」
「三つ目は、既存の防衛関連予算の組み替えです。大河原総監の管轄予算から、一部を広報支援名目で移動させます」
「大河原が承認しますか」
日高が聞く。
「しません」
「それなら、どのように対処を?」
「承認が必要ない経路を使います。予算の移動権限は、承認者の一段上にあります。そこに別のルートがあります」
日高はヒヨリを見た。
細い。静かな話し方をする。
だが数字を扱う時の目が、別人のように鋭い。
「九条さんを使いますか」
「はい、そうなります。ただし九条さん本人は、何が起きているか分からない形にします」
「本人が気づいたら」
「気づいた時には、もう動いた後です」
トウコが書類に何かを書いた。
「記録します。財務構造の設計、ヒヨリ担当。法的リスクの管理、私が並走します」
「よろしくお願いします」
ヒヨリとトウコが視線を交わした。
一秒。
それぞれ書類に戻った。
灯が図面を丸め始めた。
「設計、やり直してきます」
「お願いします」
「ついでに聞いていいですか」
灯が日高を見た。
「宗谷の起動テスト、いつにしますか」
部屋の空気が変わった。
シオンが壁際から顔を上げた。トウコが書類から目を離した。ヒヨリが数字から視線を外した。
「宗谷は」
日高が言った。
「いつ上がりますか」
「外殻は完成しています。推進系の最終調整が残っています」
シオンが答えた。
「あと三週間あれば、起動テストの準備はできます」
「三週間後に」
日高は全員を見た。
「一度だけ動かします。短時間でいい。動くことを確認します」
「速度は?」
「出せる範囲で出します」
灯が図面を持ったまま言った。
「......楽しみですね」
感想ではなかった。確認だった。
日高は答えなかった。
窓のない部屋で、換気扇だけが回り続けていた。
結論は出たはずなのに、誰の胸にも小さなざわめきが残っていた。
数字と理屈で固めた判断の裏に、見えない不安が沈殿している。
それでも前に進むしかない。三週間後、宗谷は動き出す。
換気扇の音だけが、決意の余白を静かに埋めていた。




