第9話 愛と残酷の対面
人は、最も見たくない現実ほど、脳が理解するまでに時間がかかる。
目では見えている。輪郭も、髪の色も、立ち姿も、呼吸の仕方さえ知っているというのに、心が拒絶するのだ。そんなはずがない、これだけは違う、と。
レイモンド・アルヴェインは今、まさにそうやって現実から数歩だけ取り残されていた。
応接間の内扉の向こうから現れたのは、エルザ、その人だった。
薄い灰青のドレス。過剰な宝飾はなくとも、布地も仕立ても一流だと一目でわかる。髪はすっきりとまとめられ、耳元に控えめな真珠が揺れている。かつてアルヴェイン家の屋敷で見ていた“子爵夫人エルザ”とは違う。けれど、その面影は紛れもなくエルザのものだった。静かで、整っていて、少しも取り乱さず、そこにいるだけで場の空気を決めてしまう女性。
「……え」
間の抜けた声がレイモンドの喉から漏れる。どうしてここにいる。なぜこの館に。なぜ金主の立つ位置に。
「エルザ……?」
名前を口にした瞬間、彼女の睫毛がわずかに震えた。だが、それだけだった。
「お久しぶりです、レイモンド様」
その声は驚くほど穏やかで、責める色も泣く色も、怒りも恨みも乗っていなかった。だからこそ、余計に残酷だった。
「な、ぜ……」
「お座りください」
エルザが向かいの長椅子へ視線を向ける所作はあまりに自然で、まるで最初からこの屋敷の主であるかのようだった。立ったまま動けないレイモンドに、彼女は繰り返す。
「……話をするなら、座って」
その一言に、昔の記憶が重なった。感情的になった商人を前にしたときも、無理な要求をする工房主を宥めるときも、彼女はこうして静かに相手を座らせてから話し、その後にはたいてい逃げ場のない現実が待っていた。
膝から力が抜け、レイモンドは長椅子へ腰を下ろした。机一つ分の距離が、昔よりずっと遠く感じられた。
「……まさか。君が、金主なのか」
絞り出した掠れ声に、エルザはすぐには答えず、隣に控えていた執事へ軽く目配せした。茶が静かに置かれ、執事とセドリックは目配せし、一礼して下がり、部屋には二人だけが残された。かつて夫婦だった男女。だが今は、債権者と債務者。
「そうです」
あまりにも静かな肯定に、レイモンドは息を呑んだ。破格の条件、匿名の出資、実務的な監査条項、最低限の担保、そしてこの館の無駄のない整え方。最初から答えは目の前にあったのに、自分が見ようとしなかっただけなのだ。
「どうして言わなかった」
「言えば、受け取らなかったでしょう?」
その通りだった。もし金主がエルザだと知っていたら、激昂し、屈辱だと叫び、見下されたと受け取っただろう。何も言い返せないレイモンドは、別の問いを口にする。
「……君が、僕を助けたのか」
「助けたかったのは、アルヴェイン家と領地です。あの方々に罪はないもの」
正しすぎてひどく刺さる答えに、レイモンドは知らず前のめりになる。
「でも、僕のためでもあったんだろう? そうじゃなければ、あんな条件で金を出すわけがない」
エルザは黙ったまま指先を重ねた。否定しないその沈黙がすべてを物語っている。レイモンドの胸が痛む。安堵ではなく、もっと惨めで情けない何かだ。
「どうして、そこまで……」
踏みにじり、“金しか出せない女”と吐き捨てて追い出した自分が、彼女に救われていた。それは慈悲というより、自分がどれほど愚かだったかを示す裁きに近かった。
「あなたに、もう一度だけ機会を差し上げたかったの」
しばらく視線を落としていたエルザが、静かに口を開いた。顔を上げた彼女の瞳は、熱はないが冷たすぎるわけでもなく、ただどこまでも澄んでいた。
「私がいなくても、あなたは立てると……証明してほしかったのかもしれません」
レイモンドは息をするのも苦しくなる。
「私が出ていったあと、あなたが本当に自由になって、私の手も影も助けもない場所で、それでも立派に歩けるのだと見せてほしかった」
その響きに胸の奥が軋む。彼女は最後まで自分の幸福と自立を望み、「彼女なしでもやれる」という証明を望んでいた。それなのに自分は、与えられた金を才覚への賞賛だと勘違いし、大勝負だと喚き、詐欺師に騙され、領地まで担保に入れた。滑稽を通り越して醜悪だ。
「……あのお金は、貴方がもう一度、私抜きで立派に歩むために用意したものです」
ほんのわずかだけ掠れたエルザの声に、レイモンドは顔を上げられなかった。怒鳴られるよりきつく、罵られるより痛い。
「君は……そこまで僕を……」
「愛していたわ」
あっさりと、過去形で告げられた言葉が、何よりも冷たく胸へ落ちる。
「本当に、心から。だから最後の最後まで困らせたくなかったの。何も持たずに出ていったのも、匿名でお金を入れたのもそのため」
膝の上で震えるレイモンドの手。
「なのに僕は……」
「ええ。あなたは、その機会をご自分で壊した」
エルザの頷きは、断罪ではなく確認に近かった。
窓の外では夕日が沈みかけ、赤い光が二人の間に線を引いている。
「……詐欺だったんだ」
ようやくレイモンドは言った。言い訳じみていると、自分でもわかっていた。
「騙されたんだ。僕も、まさかあんな……好きでこんな……」
「詐欺に遭ったこともそうですが」
エルザは淡々と相槌を打つ代わりに、冷徹に言葉を遮った。
「騙されたこと以上に、あなたが私との契約を破り、帳簿を偽造して支援金を流用したことの方が、よほど問題です」
レイモンドは息を呑んだ。
「セドリックには『一時的に別の手形に回しただけ』と言い訳したそうね。宿場の修繕費という名目で引き出した金を、ミレーヌ様の入れ知恵でまるごと投機に注ぎ込む。それがどれだけ重い裏切りになるか、わかっていて?」
淡々とした追及。そこに責める色は薄いが、だからこそ余計に自分の犯した罪の重さと見苦しさが浮き彫りになる。
「どうして、あのとき僕は」
「自分を証明したかったのではないですか。私に、というより……ご自分に」
図星だった。何も言い返せないレイモンドに、エルザは「私はきっと、あなたの誇りを傷つけていたのでしょう」と続ける。「君は悪くない」と否定するが、「少なくともあなたにはそう見えていた。でも、それとこれとは別」と首を振る。
「私たちは、きっと最初から愛し方を間違えていたの」
自分一人の愚かさで片づけず二人の破綻として受け止めるその言葉の重さに、修復不能なのだと痛感する。
「だからといって、今回の契約違反と資金流用まで帳消しにはならない」
きっぱりと区切られ、現実が戻ってくる。領地の担保権は移転寸前だ。「私が猶予を認め、債権者に手を回せば、法的には止められる」と言うエルザに身を乗り出すが、その視線に静かに制される。
「けれど、なぜそうすべきかを、あなたの口から聞かせてほしいの」
アルヴェイン家の価値や立て直す余地など、薄っぺらい理屈は言えなかった。長い沈黙の末、情けないほど弱い声が漏れる。
「……僕は、間違えた。君がくれた機会を踏みにじり、勝手に別の意味だと思い込んで全部台無しにした。何も守れなかった」
喉が熱くなる。格好をつける余裕はもうない。
「僕は、愚かだった」
自分が無能だったこと以上に、誰かの真心を理解する力すら自分にはなかったのだと認めた瞬間、胸のどこかが決壊した気がした。
「……そう」
エルザの小さく頷く肯定は優しくも残酷でもなく、ただ真実の重さだけがあった。
「エルザ。すまなかった」
気づけば昔のように名を呼んでいた。その一言では足りないとわかっているが、他に何と言えばいいのかわからない。
「僕は君のことを何もわかっていなかった。君はずっと僕のために……」
「ずっと、あなたのためでした」
何度も頷かれ、言葉が自分へ返ってくる。レイモンドはとうとう顔を覆った。泣く資格などないが、目頭が熱くなるのを止められない。
「……どうして、そんな顔をするんだ。怒っていないようで、怒っているわけでもなくて……一番つらい顔だ」
指の隙間から漏れる声に、エルザは少しだけ目を見開いてから視線を逸らす。
「怒りはたぶん通り過ぎたの。悲しいだけよ」
悲しませてしまったという事実は何を返しても消えない。
「私、あなたに立ち直ってほしかった。私がいないことを言い訳にしないで、自分の足で立ってほしかった」
最後まで彼を中心に回っていた願いを受け取れなかった。
「なのに。あなたは、私がいなくなっても、まだ私に甘えていたのね」
深く息を吸ったあとのその一言が、とどめだった。レイモンドの肩が震える。
甘えていた。結局ずっとそうだったのだ。家を回すのも金を準備するのも、最後は何とかしてくれることも。別れたあとでさえ、その金に無意識に甘えていた。
「……僕は、どうしたらいい」
元妻に助けを求めるみっともない問いに、長い沈黙のあと、エルザは静かに答える。
「それを、私に聞いてはいけないの。今度こそ、自分で考えなければ駄目」
その言葉で明確に線引かれた。彼女はそこにいるが、もう自分の人生を支える位置にはいない。その現実が、遅れて胸に落ちてきた。
夕日が沈みきり、応接間に灯された炎が卓上の茶器を照らす。暖かな光だが、二人の間に温かさはない。
「……それで。今日ここへいらしたのは返済猶予を願い出るため、なのでしょう?」
仕事の声に戻るエルザの変化は鮮やかだった。
「これ以上、個人の裁量で大きなお金は動かさないこと。領地運営と主要事業の管理権を、一時的にこちらへ預けること。あなたは、そうね、名目上の当主に留まれるけれど、実務は完全に手放していただくわ」
当主失格の宣告に等しい屈辱だが、拒めばすべてを失う。
「実務は誰がやるんだ。君が……戻ってくれるのか?」
レイモンドが微かな期待を滲ませた問いを、エルザは一刀両断にした。
「いいえ。こちらから厳格な監査役としてセドリックを派遣し、実務のすべてを管理させます。あなたのお小遣いの額に至るまでね。私はもうあなたの妻ではないから。これは情を挟まない、仕事としての冷徹な線引きよ」
「そんな……」
「飲めないならそれでも構いません。契約通り、領地の権利を回収するだけ。ほかの債権者の担保も回収され、あなたの領地は切り売りされます。」
レイモンドの喉が鳴る。選択肢は、ない。
「君は一体なんのために...?」
「領地を守るためよ」
一瞬の沈黙。昔なら希望に見えたかもしれないそれは、今はただ情が残っているだけで愛ではないのだとわかる。
「領民の暮らしには、あなたの見栄にも、私の選択にも巻き込まれる罪はないから」
淡々と告げられた正論に、レイモンドは何も言えなくなる。
そして彼女は、少しだけ自嘲気味に、だが決定的な声で付け加えた。
「それに……これは、あなたへの未練の、最後の残骸よ」
そう答えた彼女の声は、かつての温もりを欠いて、ひどく遠かった。
お読みいただき、ありがとうございました。




