第8話 債権者の館へ
人が本当に追い詰められたとき、最後まで手放せないものがある。
金ではない。地位でもない。まして愛などではない。多くの場合、それはみっともないほど薄っぺらく膨らんだ、プライドだ。
レイモンド・アルヴェインは、まさにその最後の殻にしがみついたまま、破滅への坂道を転がり落ちていた。
「ですので、申し上げております。期日までに不足額が補填されない場合、担保権は順次、執行されます」
王都中央の貸金と担保整理を扱うセドリックの事務所で、眼鏡の男は感情の薄い声を繰り返した。「待てと言っているだろう! せめてあと一か月」と机を叩くレイモンドに、セドリックは眉一つ動かさず冷徹に返す。
「第一回の監査を待つまでもなく、申請された用途とは全く別の場所――それも実体のない鉱山事業へと資金が流出している形跡がございます。明確な契約違反であり、これ以上の猶予は不可能です」
「ち、違う! あれは一時的に別の緊急手形に回しただけだ! 帳簿の処理が遅れているだけで、必ず穴は埋める!」
見え透いた嘘を並べて怒鳴り散らすレイモンドに、セドリックはただ冷ややかな視線を向けるだけだった。
「交渉は可能です。ただし、最終的な決定権は、出資者側にございます」
「出資者側?」
レイモンドは苛立ったように眉を寄せた。
「投資組合だろう。なら、その組合に言えばいい。僕は返済を待てと言っているんだ。追加の融資を出せとも言っている。何をそんなに渋る」
「ですから、その判断は当方だけでは……」
「当方? おまえはその組合の人間だろう」
「はい。ですが、実際に大きくお金を出されている方のご意向も――」
言いかけて、セドリックは口を閉ざした。しかし、遅かった。レイモンドの目がぎらりと光る。
「大きく金を出している方?」
「言葉の綾でございます」
「言葉の綾で、そんな言い方をするか!」
レイモンドは机を叩いた。積まれていた書類が跳ね、インク壺がかたかたと鳴る。セドリックの喉が小さく動いた。
「投資組合だろう?複数の出資者がいる。組合として貸している。そういう話だったはずだ」
「その認識で間違いはございません」
「では、なぜ“方”などと言った」
「それは……」
レイモンドは立ち上がり、セドリックの胸ぐらを掴んだ。椅子が床を引っかく音を立てる。
「僕の領地権利が差し押さえられようとしているんだぞ。銀行は手のひらを返し、王都では僕の名前に泥がついている。なのに、おまえは誰の顔色をうかがっている?」
レイモンドはセドリックを壁際まで押しやった。背中が棚にぶつかり、帳面が数冊落ちる。
「僕はな、もう組合だの契約だのという言葉を聞きに来たんじゃない。金を出すか、待つか。それを決める相手が知りたいんだ」
「……出資の、大半を担っておられる金主様は、いらっしゃいます」
「金主様」
その言葉は、今のレイモンドにとって神託のように響いた。
詐欺で失った資金、差し押さえが迫る領地権利、冷え切った銀行、王都での信用の低下。自力で埋められる穴はもうどこにもない。
残された道は、その「金主様」にもう一度だけ金を引き出させるか、返済の猶予をもらうことだけだった。
レイモンドはようやく手を放した。
セドリックは乱れた襟元を押さえ、荒く息をつく。
「会わせろ」
「それはできません」
「できるかどうかを決めるのも、その金主様だろう」
「旦那様、直接の面会は前例がございません」
「前例など知るか」
レイモンドは吐き捨てた。
「手紙や代理人相手では足りない。直接話せば、事情はわかってもらえる。僕の価値を証明してみせる」
切羽詰まった声で叫ぶレイモンドに、セドリックは「通常その必要はございません」と言いながらも、「お取次ぎすることは可能です。お会いできるかどうかは別ですが」と一縷の光を残した。
レイモンドは、その細い蜘蛛の糸にすがるしかなかった。
屋敷へ戻ると、空気は前にも増して重かった。飾り替えが滞った玄関ホール、減った燭台、使用人たちの余裕のない動き。何も知らぬ者が見れば名家の屋敷だが、中身は崩れかけた骨組みに近い。
土色の顔で出迎えた老執事グレアムに、金主に取り次いでもらえると報告したレイモンド。しかしグレアムは安堵も不安も見せず、「そのお方に、なぜもう一度助けるべきなのかを何とお伝えになるおつもりですか」と問いかけた。
「……再建計画だ。宿場と工房を立て直して」
宿場と工房の修繕費を全額鉱山でスッておきながら、再び同じ名目を持ち出す。流用したことは適当に誤魔化して、もう一度自分の才能と大勝負の可能性を語れば、自分を見込んだ金主なら必ず追加の金を出してくれるはずだ。そんな甘すぎる目論見が、レイモンドの頭にはまだこびりついていた。
「本気でございますか。もう、見栄ではどうにもならぬ段階です!」
厚顔無恥な主の答えを静かに遮り、グレアムは珍しく声を荒げた。
「なら膝を屈して足元にすがれと言うのか! 僕は子爵だぞ!」
「でしたらなおさら、家名か、領民か、体面か、どれを先に捨てどれを守るかお考えください! 旦那様一人の誇りで済む話ではございません」
生き残るために這いつくばる必要があるならそうしろと即答するグレアムの正論は、耳が痛すぎた。誇りを捨て、膝をつき、救われる側になること。それはレイモンドが最も嫌い、恐れてきた立場だった。
その夜、ミレーヌは初めて露骨な不満を見せた。
「私、最近ずっと肩身が狭いんですのよ。このままでは私まで笑われるじゃありませんか。私が来てからアルヴェイン家は傾いたって」
扇を握る手に力を込め、高い声でレイモンドを責め立てる。
「悪いのは詐欺師ですわ。でも、早く事態を収めていただかないと困ります。私は、貴方と一緒に未来を築くつもりで――」
そこで言葉が止まった彼女の沈黙は、まるで“築ける未来”が残っているかを測っているようだった。
「君は、僕から離れたりしないよな」
情けないと自分でも思いながら口をついて出た問いに、ミレーヌは少し困ったように笑った。
「いやですわ。もちろん、今はお傍におります」
今は。その一語が、レイモンドの胸に針のように刺さった。
数日後、セドリックから『金主様との面会が許可されました』という短い返事が届いた。
場所は王都北区の館、日時は明後日の夕刻。レイモンドはその紙を命綱のように見つめ、「見栄も言い訳も通じないとお考えください」と念を押すグレアムに「わかっている」と答えた。
しかし心の底では、「金主は自分の大勝負を評価しているのではないか、器を認めて面会を許したのではないか」という都合のよい期待がくすぶっていた。その思い込みだけが、彼をなんとか立たせていた。
面会の日の朝、ミレーヌは屋敷から消えていた。
昨夜のうちに実家へ使いを出し、朝早く馬車で出て行ったらしい。手紙すらない完全な逃亡。
レイモンドは怒りより先に奇妙な空白を感じ、立ち尽くした。心の浮気、真実の愛、理解者、自分を一人の男として見てくれる女。その結末がこれか。笑ったつもりだったが、出たのは乾いた嗚咽のような音だった。
夕刻。レイモンドはグレアムと若い従者一人だけを連れ、古くからの資産家や大商会が館を構える王都北区へ向かった。
案内されたのは、高い鉄門を持つ瀟洒な館だった。門柱の石材、手入れされた庭木、補修跡のない外壁。一流の金が静かに流れている屋敷だとわかる。
この先に運命を握る相手がいる。頭を下げなければならない。場合によっては、膝をついて靴の先に口づけすることすら。嫌悪と恐怖と期待が入り交じる中、レイモンドは冷えた指先で石段を上がった。
玄関の扉を開けて現れたのは、セドリックであった。「お待ちしておりました。金主様がお会いになります」というよく通る声に導かれ、館の中へ足を踏み入れる。
磨き込まれた床、美しい階段の曲線、趣味の良い絵画。過度な誇示がないその空間に触れた瞬間、レイモンドの胸にひどく嫌な予感が走った。
案内された応接間の設え――重厚な机と長椅子、季節の花、控えめで質の高い香、整えられた茶器。どれもが、訪れる相手の呼吸まで計算して整えられたように完璧だった。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
贅沢なのに無駄がなく、美しいのに見栄ではない。
――この感覚をレイモンドは知っている。かつて自分が「息苦しい」と切り捨て、それでいて何ひとつ不自由なく享受していた、あの精密な心配りの匂い。
「……まさか」
誰に向けるでもなく唇が動く。
「お待たせいたしました」
背後からセドリックの声がし、レイモンドはゆっくりと振り返った。
応接間の奥。閉じられていた内扉が、静かに開く。
そこから現れた人影を見た瞬間――レイモンドの呼吸は、完全に止まった。
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次話「第9話 愛と残酷の対面」
は明日4/26(日)12時頃更新予定です。




