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稼ぐ嫁はいらぬと仰るなら、この金貨も領地もすべて没収いたします。  作者: 九条 綾乃


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第7話 プライドと破滅

 人が取り返しのつかない失敗をするとき、たいていその直前までは、自分が間違っているとは夢にも思っていない。


 ようやく運が向いてきた。これまで報われなかった自分が正しく評価されたのだ。今こそ、自分を見下していた者たちを見返すときだ。


 レイモンド・アルヴェインは、まさにその幸福で致命的な錯覚の真っ只中にいた。


「見たか、グレアム」


 執務机の上に広げられた書類を指先で叩きながら、レイモンドは抑えきれない笑みを浮かべた。


 王都の代理人商会を通じて交わされた、投資組合からの契約書。破格の無利子条件と、立て直しのための十分な時間。普通であれば、なぜそこまで好条件なのか、相手の意図を警戒するところだ。だがレイモンドは、それを自分に都合よく解釈していた。


「僕を見込んだんだ。アルヴェイン家にはまだ価値がある、いや、僕自身に価値があると判断したということだ」


 長い間押し込めていた鬱屈が晴れたような声で宣言する主に対し、老執事のグレアムは机の向こうで沈黙していた。


「旦那様、出資そのものは救いです。ですが、厳しい用途制限と監査が設けられています。これをどう使うかは慎重にお考えください」


「今さらまた地味に予算を絞り節約し、小さな損を潰して小さな利を拾い、何年も時間をかけて立て直すような真似をしろと?」


 レイモンドは小さく鼻で笑った。


「それはエルザのやり方だ。あいつがいなくなった今、僕は僕一人でやれると証明しなければならないんだよ」


 エルザが去ったあとも屋敷が辛うじて保たれているのは、彼女が残した土台と蓄えがあったからだ。その現実が、レイモンドにはどうしようもなく癪だった。だからこそ、この出資は彼にとって審判の鐘だった。大きく、誰の目にもわかる形で結果を出さなければならない。


「焦って大きく動かれるのは危険です」と諌めるグレアムに、「焦っているんじゃない、ようやく機会が来たんだ」とレイモンドは熱っぽく否定した。


 その頃、王都では一つの話が水面下で静かに広がっていた。


 南方の丘陵地で新しい鉱脈が見つかり、今のうちに権利に食い込めば数ヶ月で数倍になるという投機話だ。


 持ち込んできたガスパールという男は、下品な押しつけがましさはなく、相手の欲しい言葉を差し出すのがひどくうまい男だった。


「再起の途上におられる旦那様であれば、この話の価値をご理解いただけるかと。普通の方なら貸し付けを穴埋めに回して守りに入り、凡庸な再建にしかならないでしょうが」


 凡庸。その言葉は、レイモンドの最も痛いところを突いた。彼が欲しいのは延命ではなく、一発逆転の証明だった。匿名の支援を受けられたこと自体が、旦那様が見込まれている証拠だというガスパールの甘い囁きに、レイモンドは「そうだな」と完全に確信を抱いてしまった。


 屋敷に戻り、鉱山の資料を投げるように置いたレイモンドに、グレアムは深く皺を寄せた。


「危うすぎます。試掘の数字が出来すぎており、収益予測も楽観的すぎる。何より、立て直しのための資金は、失敗してよい金ではありません」


「失敗しなければいい! 今ここで大きく出なければ何も変わらない!」


 食い気味に反論するレイモンドに、グレアムは静かに、しかしはっきりと告げた。


「変える必要のあるのは見栄えではなく足元です。ご自分の力の証明のために、家を巻き込んではいけません!」


 グレアムは言い過ぎたと思った。しかしその一言で、レイモンドの顔から温度が消えた。


「使用人風情が!僕に説教するのか!僕は当主だ!どう動くか決めるのは僕だ!従え!」


 声を荒げ、無理矢理に押し切る主に、グレアムは重い影を落として頭を下げるほかなかった。


 その夜、ミレーヌは目を輝かせてレイモンドの決断を称賛した。


「レイモンド様には華やかなお仕事がお似合いですわ。細かい帳簿の数字弄りや、節約のようなことではなくて」


 使用人は失うことばかり怖がると笑い、ミレーヌは甘えるように彼の腕に触れた。


「匿名の金主様も貴方を見込んだのだから、その期待に応えるのが一番ですわ。金主様も、形ばかりの用途制限より、貴方が大きく増やして返すことを望んでおられます。適当に帳簿の数字を書き換えて、後で利益を乗せて埋め合わせておけばよろしいのよ」


 夫人の管理下にある当主ではなく、自分の才覚で道を切り開く男として見てくれる彼女の言葉は、レイモンドにとって何よりの劇薬だった。ミレーヌの無責任な唆しに乗る形で、レイモンドは一線を越える決意をした。


 翌日、彼は宿場の修繕と農業設備費という名目で匿名の金主から第一期分の支援金を引き出すと、帳簿を巧妙に偽造し、そのまま鉱山投資の先行資金としてガスパールに全額を渡してしまった。明確な契約違反であり、詐欺にも問われかねない暴挙だった。


 しかし、時間はレイモンドの味方ではなかった。


 契約上、来月末には金主側の代理人であるセドリックによる第一回の厳しい監査が入ることになっていた。それまでに鉱山の権利を転売するか初期配当を得て、帳簿の穴を完璧に塞がなければ、資金流用が見抜かれ支援は即座に打ち切られてしまう。


「監査までに必ず結果を出さなければ」


 その焦りが、レイモンドの判断力を決定的に狂わせた。


 契約はガスパールに急かされるまま、異常なスピードで進んだ。


 最初の数日で契約が完全に締結されると、翌週には「境界地の優先順位を固めるため」と追加の保証を求められた。その数日後には現地勢力の横槍、さらに数日後には輸送路の追加費用と、次々にトラブルが舞い込んだ。


「今ここで手を引けば、これまでの投資がすべて無駄になります。監査前に収益を確定させるためにも、あと少しの保証が必要です」


 ガスパールの巧みな言葉に追い詰められたレイモンドは、帳簿の穴を埋める一発逆転の幻想にすがりついた。担保として徴税権の一部や主要地所の権利整理に関する保証を求められても、「監査までの形式上の手続きにすぎない」と自分に言い聞かせ、次々と署名と印を押した。


 自分を証明するための舞台を手に入れたと錯覚したその瞬間、すでに彼の首には致命的な縄が巻かれていたのだ。


 破綻は、第一回の監査まであと数日と迫ったある日、唐突に訪れた。


 ガスパールの事務所は閉じられ、宿も引き払われ、紹介元を辿ってもそんな商会は存在しなかった。投じた流用資金は完全に回収不能となる一方、担保権の執行準備だけは進行中だという絶望的な事実だけが残された。


「そんな……ありえない」


 騙されたのだ。担保契約を行った公証人役場へ駆け込み「詐欺だ、無効だ!」と叫ぶレイモンドに、役人の男は「ご本人の意思で署名なさっています」と薄い刃のように正確な事実を突きつけた。


 騙されたとはいえ、数字を見ず、書類の罠を読まず、忠言を無視して印を押し、あろうことか支援金を横領したのは、他でもないレイモンド自身だった。


 屋敷へ戻ったレイモンドを迎えたのは、重く沈んだ空気だった。表向きはまだ名家の体裁を保っていても、花の数は減り、香油は薄く、絨毯は繕われている。見えないところで、家を支える柱はすでに軋み始めていた。


 突き出された絶望的な書類を読み終えたグレアムは、静かに瞼を閉じた。


「申し訳ございません。止めきれませんでした。担保権を設定した土地、徴税権の一部は人手に渡りました」


 謝罪する老執事に、レイモンドは「やめてくれ」と力なく呟くことしかできなかった。謝られてしまえば、もう誰のせいにもできない。失敗のすべてが自分の愚かさのせいだと突きつけられる。


「旦那様、これより先は取り繕う段階ではございません。守るものを選ばねばなりません」


 家名か、領地か、体面か。その酷な問いに、レイモンドはまだ答えを出せる状態ではなかった。


 その夜、ミレーヌは隠しきれない不安を露わにした。


「王都ではもう色々言われていますのよ。このままでは、わたくしまで一緒に笑われるじゃありませんか」


 扇を握る手を震わせる彼女が恐れているのは、屋敷の行く末ではなく、自分の立場だった。


「資金の流用がバレる前に、代理人のセドリックに追加支援を頼む交渉の余地があるはずだ」


 すがるようにそう言うレイモンドに、ミレーヌは「うまくゆくとよろしいですわね」と、どこか距離を測るような薄い微笑みを浮かべた。慰めるでも寄り添うでもなく、「どうか今度は慎重に」とだけ言い残して部屋を出ていく彼女の心が、もうどこまでこちら側にあるのか、レイモンドにはわからなかった。


 深夜、執務室で一人きりになったレイモンドは、返済期日や執行予告の書類の山を前に両肘をついた。


「……エルザ」


 ふと漏れた元妻の名に、自分で目を閉じる。今さら彼女を呼んでどうするのか。金しか出せない女だと切り捨てたのは自分だというのに。


 大きな利益には危うさがある、うまい話ほど数字の外を見ろ、家を守るとは勝つことではなく潰れないことだ。かつて彼女に耳にたこができるほど聞かされた言葉が、今になって痛いほど胸に蘇ってくる。


 投資組合から差し出された最後の機会を、自分の価値への賛辞だと読み違え、資金を流用し、家も領地も巻き込んでしまった。


 レイモンド・アルヴェインはその夜ようやく、自分が崖から落ちながら、まだ立っているつもりでいたのだと知った。


 そして皮肉なことに、彼をその崖から突き落とした莫大な資金すらも、もとは彼を救うために差し伸べられた最後の慈悲だったのである。


 彼がその残酷な真実を知るのは、もう少し先のことだった。


お読みいただきありがとうございました。

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