第6話 見かねた「匿名」の慈悲
愛が終わったあとに残るものは、決して憎しみだけではない。本当に厄介なのは、もう十分に傷つき、これ以上関わるべきではないと理性が警鐘を鳴らしているのに、それでも相手の決定的な不幸を願うことができないという、割り切れない感情の残滓だ。
エルザは、そのどうしようもない厄介さを、何度目かの報告書の前で噛みしめていた。
夕刻。連日押しかける商客で賑わう「エルザ商店」の奥に設けた執務机で、彼女は一枚の書状を見つめていた。差出人は以前アルヴェイン領で取引のあった穀物商である。表向きは新規販路の相談だったが、追伸に記された『アルヴェイン領では水争いが絶えず、畑の出来も安定しません。以前のような調整役がおられぬのは痛手かと』という遠回しな一文は、領地の深刻な混乱を明確に伝えていた。
書状をたたみ、静かに目を閉じるエルザの胸の奥に、嫌な痛みがじわりと広がる。
元夫の家。もう関係のない場所。手を差し伸べる義理などどこにもない。だが、領民には罪がない。エルザがかつて守ろうとしたのは、家名だけではなく、その土地に根付く人々の暮らしそのものでもあったのだ。
「もう何件目ですか、こういう報せが届くのは」
店頭の在庫を整理していたクララが、不安と苛立ちの混じった声で尋ねる。
「三件目ね。直接ではない噂も含めれば、四件目かしら」
工房の納期遅れ、葡萄の品質低下、宿場の客足減少。別々の筋から重なるそれらの事象は、もはや偶然の範疇を超えている。
「お願いですから、何もしないでください」
いつになく強い口調で、クララは机に手をついた。
「あの方はエルザ様を“金しか出せない女”と罵って捨てたんです。そのうえ、エルザ様がすべてを置いて身を引いても、一度だってここへ頭を下げに来ていません。それなのに、まだ見捨てられないのですか」
クララの正論に、エルザはすぐには答えられなかった。
「彼を助けたいというより……彼が自滅することで、周りまで巻き込まれてほしくないの」
それは本音の一部だった。だがもう一つ、認めたくない本音もある。あれほど傷つけられてもなお、レイモンドが完全に破滅する姿を想像すると、胸がひどく苦しくなる。自分はまだ、彼を完全に見限れるほどには冷酷になれていないのだ。
店を閉めたあと、エルザは一人で執務机に残り、無意識のうちに紙を引き寄せてペンを走らせていた。
エルザ商店はもはや「商店」の枠を超え、卸取引や共同事業、二店舗目の計画まで進み、目が回るほど忙しい。だというのに、夜になると昔の癖が蘇る。レイモンドの浪費を前提にした必要な運転資金の確保手段、止血のための条件、赤字事業の整理、宿場と灌漑設備の修繕、投機案件の精査。
さらさらと埋まっていく再建案の項目を見て、エルザはハッとした。もう関係のない家の再建を、こんなに本気で考えている自分に呆れる。だが、紙の上の文字列は残酷なほど明快だった。「まだ、助けられる」。
莫大な資産は完全には消えていない。正しい条件で資金を流せば、十分に立て直せる。それがわかるからこそ、放っておけない。
「愚かね」
自嘲するように笑う。だが、これを見捨てたらきっと後悔する。レイモンドのためだけではなく、あの領地と、かつてそこを守ろうとした自分自身のために。
翌日、エルザは王都で金融と仲介を扱う腕利きの代理人、セドリックを呼び出した。アルヴェイン家の立て直しの過程で何度か裏の交渉を任せたことのある、有能で余計な感情を見せない男だ。
「正体を伏せたまま、あの家に資金を入れたいの」
単刀直入に告げるエルザに、セドリックは少しだけ目を細めた。
「無利子に近い形で、担保も最低限でいいわ。ただし、好きに浪費されて終わる形にはしたくない。運転資金として使わせる分と用途を縛る分を分け、一定額ごとに監査を入れる条件をつけてちょうだい」
「…匿名の金主にしては実務的ですね。つまり、“助ける”が“甘やかす”にならない線を引きたいと」
「そうよ」
「しかし、それだけの資金となると…失礼ですが、今のエルザ様には動かせない額ですが」
「ええ。ですが今、私の手元には投資家組合や各商会から預かった莫大な出資金と、彼らが保証してくれた強固な信用枠があるわ。これらを裏付けとして動かすの。個人の私財の切り崩しではなく、あくまで回収を見込んだ事業再生の投資案件としてね」
エルザの堂々とした返答に、セドリックは口角を上げた。家を出てわずか一か月強で、貴族の領地を丸ごと救済できるだけの経済的な地盤と信用を築き上げたこの女主人の手腕に、彼は改めて舌を巻く。
「承知しました。名義はどうしますか? 王都ではすでにエルザ様の独立と成功が知れ渡っています。少しでもエルザ様の色がつけば、アルヴェイン家の代理人はすぐに勘付くでしょう」
「そこは貴方の手腕に期待するわ」
「では…、すべてお任せを。私が懇意にしている遠方の地方商人たちの名前や架空名義も複数使い、さらに王都の休眠中の投資組合を経由させましょう。何重にも壁を作れば、どれほど有能な探りを入れても、実質的な金主が貴女であることには絶対に辿り着けません。もちろんそれなりの手数料は頂戴いたします」
「それで結構よ」
「理由を伺ってもよろしいですか?」と、セドリックは核心を突く。
「そうね。……あの人に、最後の機会をあげたいの。私がいなくても、ちゃんと立ち直れると証明してほしい」
未練が少しは混じっているかもしれないと正直に答えるエルザに、セドリックは、仕事としては引き受けます、と頷いた。ただし、と彼は珍しく厳しい顔を見せる。
「返済されなかった場合、金は回収できても、相手が立ち直らなければあなたの期待は裏切られ、傷つくことになりますよ。それでも?」
「それでも、よ」
エルザの答えは、すでに決まっていた。
数日後。王都中央の小さな会議室で、アルヴェイン家の代理人と匿名投資家側の仲介人としてのセドリックとの面談が行われた。エルザは隣室で書類を確認し、必要な指示を出す。
先方の提出した収支概要は、現場の無理を如実に物語っていた。だが、骨組みは残っている。「実質無利子で構わないが、怪しまれないよう監査条件を厳しくし、慈善ではなく再生投資に見せなさい」とエルザは指示を飛ばす。
用途指定は農業設備、工房再建、宿場修繕の三本立て。
しばらくして、セドリックが隣室へ報告に戻ってきた。
「用途の制限と厳しい監査権の条件、先方が飲みました」
「あら。束縛と管理をあれほど嫌うあの人が、よくそんな実質的な支配権を渡すような条件を飲んだわね」
「銀行からの追加融資を断られ、もはや背に腹は代えられなかったのでしょう。それに、代理人の口ぶりから察するに、とりあえずこの場は条件を飲んで金を引き出し、あとで適当に帳簿を誤魔化せばいいと、高を括っている節があります。どうやら、例の愛人あたりに唆されたようですね」
「……仕方ないわね」
ため息をつきつつ、エルザはさらに指示を固める。自由に使える枠を増やしたいというレイモンドの主張は当然退け、運転資金の上限は固定した。担保は象徴的なものでよく、最初の半年は返済を猶予するものの、その後は何かあれば厳しく回収する旨が告げられる。
甘やかしすぎれば駄目になり、厳しすぎれば立ち上がれない。妻としてではなく経営者として培ったその手腕を、皮肉にも元夫を救うために振るっていた。
日暮れ頃に契約はまとまった。
無利子・低担保、用途限定、監査権あり。情に流されすぎず冷酷すぎでもない、ぎりぎりの線。
「これで少しは持ち直せるかしら」と呟くエルザに、セドリックは「資金面だけなら。結局は使う人間次第です」と容赦ない事実を突きつけた。
エルザは、この金が誰のものか絶対に知られないようにと再度念を押す。
もう一度自分の足で立ち、私なしでもやれると証明してほしい。そうなれば、この別れにも意味があったと思えるから。
「甘いですね。ですが、エルザ様のその甘さにも皆が信頼を寄せるのです」とセドリックは一礼して去っていった。
その夜、エルザは貸家の窓辺から夜空を見上げていた。
今日、元夫のために大金を動かした。未練であり、愚行であり、自己満足かもしれない。
「これが、本当に最後」
この金で立ち直れるならそれでいい。立ち直れないなら、そのときこそきっぱりと諦める。
「今度こそ、私がいなくても。ちゃんと歩いて。ちゃんと立って」
その祈りは、彼への慈悲であると同時に、自分の愛への弔いでもあった。
けれどエルザはまだ知らない。彼女が差し出したその「最後のチャンス」を、レイモンドが感謝や反省ではなく、自らの才能への称賛と勘違いし、もっと危うい形で受け取ることになるのだと。
そして帳簿を誤魔化せるという致命的な勘違いが、子爵家の崩壊を止めるどころか、むしろ決定的な破滅へと彼を押し進めることになるのだということを。
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