第5話 砂上の楼閣の崩壊
莫大な資産というものは、ただ持っているだけでは人を救わない。それを生かす手を失った瞬間、むしろ人を甘やかし、眼を曇らせ、破滅への歩みを早める猛毒に変わる。
アルヴェイン子爵家は今、その真理を証明するかのように、音もなく崩れ始めていた。
「ねえレイモンド様、この絹、とても素敵でしょう?」
豪奢な客間でミレーヌが広げたのは、南方から届いたばかりの最高級の絹布だった。光の加減で青にも紫にも見えるその織物は、王都でも一流の店でしか扱えない代物である。「これで新しいドレスを仕立てたいの。来月の夜会で皆の視線を奪ってしまうようなものを」とねだる彼女に、レイモンドは葡萄酒の杯を傾けながら「好きにすればいい」と鷹揚に頷いた。
エルザが去ってから一か月。アルヴェイン家の暮らしは一見何も変わっていないどころか、むしろ以前にも増して華やかになっていた。食卓には相変わらず上等な料理が並び、夜会には惜しみなく金が使われている。ミレーヌは当然のように屋敷へ出入りし、次の「女主人」としての顔を隠さなくなっていた。
「本当に自由って素敵ですわね。前の奥様がいらした頃は、息が詰まりそうでしたもの」
ソファの背にもたれてうっとりと笑う彼女の言葉に、レイモンドも深く同意した。朝から予定を管理されず、着る服も飲む酒も会う相手も先回りされない。誰の目も気にせず自分の判断で金を使い、会いたい女に堂々と会える。確かに、かつてないほどの解放感があった。
だがその一方で、奇妙な違和感の足音も日に日に大きくなっていた。
財産管理の要であった家令のマルドンは、有能な女主人が屋敷を去った数日後、沈みゆく泥船から逃げるように早々と見切りをつけて暇乞いをしてしまった。そのため、現在は残された老執事のグレアムや若い家令補佐が、不慣れな領地の金銭対応に忙殺されている。
「旦那様、北部葡萄園の今年度予算についてご決裁を。先方は早急な返答を求めております」
食堂の隅から疲労の濃い声で告げるグレアムを、レイモンドは「あとでと言っただろう」と苛立たしげに退けた。
「相変わらず口うるさい執事ですこと」と小首を傾げるミレーヌに、レイモンドは同意を求める。
「レイモンド様は当主ですもの、いちいち細かな数字に構う必要なんてありませんわ。大局を見てお決めになればいいの。だって貴方は本来、もっと大きな勝負ができるお方ですもの」
彼女の甘い声は、レイモンドの肥大化した自尊心を心地よく満たし、酔わせるのに十分だった。
だが、現実は甘い声だけでは回らない。
「これはどういうことだ」
数日後、執務室で開いた帳簿の収支報告を見て、レイモンドは眉をひそめた。そこには見慣れた黒字ではなく、嫌に薄暗い赤字の数字が並んでいた。東街道の宿場の修繕費が予定より膨らんでいる理由を問うと、グレアムは無表情のまま「昨年の時点で補強予定だった箇所を先延ばしにしていたためです」と答えた。
「そんな話は聞いていない。その金はどうした」
「以前は奥様が繰り延べ分を別枠で管理されておりましたが、離婚後、費目の整理がなされておりません。その上、奥様がきちんと確保されていた南棟客間の改装予算を、ミレーヌ様がさらに豪華な仕様にすると仰って勝手に倍以上に膨れ上がらせたため、不足分を修繕費から食いつぶしたのです」
「は?」
もっと柔軟にどこかから回せと怒鳴るレイモンドに、グレアムは静かに目を伏せた。
「どこか、という部分を、以前は奥様が常に把握しておられました」
その一言が、レイモンドの癇に触れた。この老執事も使用人たちも、自分が有能な妻を追い出したことに納得しておらず、今の混乱がすべて自分のせいだと言いたげなのだ。レイモンドは宿場の件を後回しにするよう命令を下したが、グレアムの沈黙は従順というより完全な諦めに近かった。
問題はそれだけではない。織布工房、北方木材の契約先、王立銀行支店長との面会、領内の灌漑設備。次から次へと判断を求める声が押し寄せる。
昨日一つ片づけたと思えば今日は三つ増える。金を出せば済む話ばかりではなく、どこに金を出し、どこを抑え、どの相手を優先し、どの損失を許容するかという延々と続く判断。数字だらけの書類に目が滑る。以前は、要点だけがまとめられ、署名すべき箇所が明示され、横から簡潔な説明が入っていた。
あれがどれほど楽だったかを今さら思い知りながらも、レイモンドは「あれは支配されていたのだ。これは自由のための痛みだ」と自分に言い聞かせた。
ミレーヌの「貴方はもっと華やかに勝てる方」という言葉に酔ったレイモンドは、“当主らしい”独断の判断を下し始めた。
既存の南方交易船団の航海へ「確実な儲け話」と信じて多額の追加投資を行い、ミレーヌの知人の紹介で「必ず値上がりする」という裏付けのない鉱山権益にも巨額の資金を投じた。ミレーヌが気に入った無名の画家の支援にも、回収の見込みもないまま金を流した。
エルザは勝負をしなかったのではなく、勝っていい場所と勝ってはいけない場所を知っていただけだ。だが、レイモンドにはその違いがわからない。「その投資は危険です」と諌める若い家令補佐の忠言も、すべて自分の才能への嫉妬や保身にしか見えなかった。
一方で、金は確かに減っていった。派手な出費、雑な管理、先送りされた修繕、収益の薄い見栄の投資、そして日常の無駄。エルザがいた頃には底堅く回っていた資産が湯水のように抜け、月末の報告書を見たレイモンドは「どうしてこんなに残らない」と絶句した。
その上、レイモンドを嘲笑うかのように投資の無惨な結果が瞬く間に押し寄せた。既存の南方船団に追加で金を出した直後、嵐で一隻が沈んだという知らせが舞い込み、保険も不十分で大損害となる。鉱山権益に至っては、ミレーヌの知人が持ちかけた最初から実体のない巧妙な詐欺であり、出資した途端に現地監督とも紹介者とも連絡が途絶えた。画家の絵は一枚も売れず、ただ支援金が消えただけだった。
「たまたま運が悪かっただけだ!」
苛立つレイモンドに、ミレーヌは「商いに波はつきもの。ここで縮こまっては駄目です。取り返すにはもっと大きく打たなければ」と危険な囁きを落とした。ここで引いたら誰に笑われるか。「エルザだ」。
何も持たずに潔く身を引いた元妻は、一度も泣きついてこない。それがまるで「自分がいなくても構わなかった」と言われているようで気に障る。「あの方に負けたくないのですね」というミレーヌの言葉に、レイモンドは拳を握った。一つ大きく当ててアルヴェイン家を大きくし、自分の才覚を知らしめて、エルザのやり方が間違っていたと証明してやる。それはもはや、悲しいほどの意地だった。
しかし、現実は意地に配慮などしない。
東街道宿場の修繕先送りで旅商人が別ルートへ流れ、織布工房は材料調達の遅れで違約金が発生。葡萄園では熟成樽の予算を削り品質が低下し、領内の灌漑設備の応急修理が原因で水争いが起きた。一つひとつは致命傷ではなくとも、重なれば家はあっという間に軋み始める。
領民からの嘆願書、職人頭の辞意、銀行からの追加担保の打診。報告のたびに顔色を悪くするレイモンドだが、それでも自分の管理能力のなさも、エルザの綱渡りの手腕も認めることはできなかった。
「どうして皆、できない理由ばかり並べる! 僕に必要なのは成功する方法だ!」
ついに怒りに任せて机の帳簿を払い落とすレイモンド。床に散らばる紙束と広がる黒いインクの染みを見て、グレアムは静かに目を閉じた。かつてエルザは、どれほど多忙でも書類一枚乱さず、怒鳴る代わりに整理し、嘆く代わりに手を打っていた。その異常なまでの手腕を、家中が今さら思い知っていた。
その夜、高価な香が焚かれた寝室で酒を飲むレイモンドに、ミレーヌは背後から抱きつき「貴方は前の奥様みたいに小さくまとまる方ではないもの」と慰めた。
小さくまとまる。エルザは堅実だったが、確実に家を上向かせ、気づけば誰もがアルヴェイン家を持ち直した家として見るようになっていた。あれを小さくまとまると言い切ってよいのかという疑問を、彼は無理やり打ち消した。
金はある。だがそれは、触れるたび自動で増える魔法の宝ではなく、維持し、読み、選び続けて初めて富であり続けるものだ。
その手を失ったアルヴェイン家の資産は、もはや崩れていく砂の城にすぎなかった。美しく高く積み上がっていても土台がなく、崩壊を告げる風はもう、すぐそこまで迫っていた。
お読みいただき、ありがとうございました。




