第4話 勝手に集まる富と人
人は、何もかもを失って心が空洞になったような朝でも、無慈悲に腹だけは空くらしい。
王都の南外れにある質素な貸家。備え付けのひび割れた煉瓦の竈で、エルザは固い黒パンを炙りながらそんなことを思っていた。アルヴェイン家の屋敷であれば、目覚めとともに焼きたての白パンや温かなスープが、磨き上げられた銀の盆に乗って運ばれてきたものだ。だが今は、自分で火打ち石を鳴らし、湯を沸かし、戸棚から素焼きの皿を出さなければならない。
しかし、埃の舞う朝の光の中で行うその当たり前の生活の営みが、彼女には妙に新鮮で、重苦しい胸の淀みを少しだけ軽くしてくれた。
ちぎって口に運んだパンに、味はほとんどなかった。これからどう生きるのか、何をして誰として立つのか。漠然とした不安に頭が白くなりそうになるのを振り払うように、エルザは部屋の掃除に取り掛かった。立て付けの悪い窓を開け放ち、棚を拭き、空いた木箱を畳む。無心で手を動かしている間だけは、過去の痛みを忘れ、少しだけ息がしやすかった。
昼前には最低限の体裁が整った部屋の小さな机に、エルザはあの古い印章を置いた。真鍮の持ち手、底に刻まれた自分の名。子爵夫人ではない、「エルザ」という一人の人間の証明。
「何もしないでいる方が、かえってつらいわね」
ぽつりとこぼした独り言は、誰かの妻としてではなく、自分の手で回せる小さな何かを始めようという、か細いが確かな決意の現れだった。
三日後。エルザは南外れの通りに面した空き店舗の大家と、埃っぽい店内で契約書を前に向かい合っていた。
手持ちの資金は無いに等しい。当面の生活費として、屋敷を出る際に持ち出した金貨、銀貨数枚と、道すがら質屋に入れた銀の懐中時計――かつて自分がまだ少女だった頃、初めて商いの手伝いをした記念に買った数少ない私物――を換金した路銀だけである。
当然、大通りの立派な店など借りられるはずもなく、選んだのは間口も狭く内装も簡素な元古道具屋だった。大家は「以前は良い暮らしをなさっていたご婦人には地味すぎる」と眉をひそめたが、エルザは家賃の支払い期日や修繕責任の範囲など数か所を的確に修正させた後、迷いなく契約書に署名し、最後に印章を押した。
こつん、と響いた小さな音。それは誰かの代行ではない、自分自身が自分の名で結んだ最初の契約だった。
その日の夕暮れ、貸家の戸を控えめに叩く音がした。扉を開けると、そこには両手で抱えきれないほどの大きな布袋を持った侍女のクララが立っていた。
「今朝、屋敷の暇をもらってまいりました」
赤く腫らした目で、しかし迷いのない声で告げる彼女は、ミレーヌが我が物顔で屋敷を歩き回る空気にどうしても耐えられなかったのだという。「お給金など当分無くて構いません、どうか私をエルザ様のもとで働かせてください」と深く頭を下げるクララを、エルザは追い返すことなどできなかった。
心強い味方を得て、二人はランプの灯りの下でこれからの商いについて語り合った。見栄を張るための豪奢な品ではなく、中級品の茶葉や回転の速い石鹸、保存の利く焼き菓子など、南外れの客層に合わせて確実に利益が出る質の良い日用品を扱う。店の名は「エルザ商店」。アルヴェインの姓も、実家のフェルンベルクの威光も借りず、自分の名前だけで立つ覚悟の表れだった。
準備は慌ただしくも順調に進んだ。以前からの知己の大工が端材で頑丈な棚を作り、クララが買ってきた布で素朴な暖簾を縫い上げる。馴染みの菓子職人が焼き菓子を卸してくれることになり、エルザは懇意の茶葉商人に、中級品の茶葉の仕入れを打診する手紙を書いた。
だが、この何気ない一通の書状が、王都の経済を揺るがす発端になるとは、エルザ自身思いもよらなかった。
アルヴェインの封蝋に代わり押された「エルザの印章」を見た茶葉商人が、「あのエルザ様が独立され、最初の取引にうちを選んでくださった!」と、王都の取引所で自慢気に言いふらしてしまったのだ。有能な女主人の手綱が放たれた瞬間を虎視眈々と狙っていた王都の商人たちにとって、その自慢話は、南外れの潜伏先を正確に示す極上の狼煙となったのである。
店らしい形が整い始めた開店前日。砂糖菓子を子どもの目線に、香りの良い石鹸を窓際に並べ終え、満足げに見回すエルザとクララの前に、突如として一台の慌ただしい馬車が止まった。
転がり込むように店に入ってきたのは、王都で香辛料を扱うベレト商会の主だった。「エルザ様! 取引所で噂を聞いて飛んできました!」と興奮気味にまくしたて、上質な乾燥香草や珍しい茶葉が詰まった箱を床に置く。開店祝いと称した先行投資、条件は好きに決めて構わないという彼にエルザが呆気を取られている間にも、事態は急転直下で動き始めた。
ものの十分で、香油店の主人、織布工房の番頭、地方の果実商の代理人、小規模融資の金融屋、果ては若い投資家までが次々と押しかけ、狭い店先はあっという間に人で埋め尽くされたのだ。
「エルザ様が店を持たれるなら王都の流れが変わる!」「うちだけ遅れるわけにはいかない!」と熱気を帯びて口々に叫ぶ彼らを前に、エルザは木箱を即席の台にして立ち上がり、凜と響く声でその場を鎮圧した。
「皆さま、お気持ちはありがたく頂戴します。ですが一度に話しては何も決まりません」
時間を割り振り、見本だけを置かせて順番に捌いていく彼女の的確な采配に、血気盛んな商人たちも魔法にかけられたように素直に従う。なぜそこまでしてくれるのかと問うエルザに、若い投資家は熱っぽい瞳で言った。
「あなたが手を離れた途端、皆がはっきり理解したのです。アルヴェイン家ではなく、あなた自身に価値があったのだと。ようやく、直接あなたに話が持っていける」
価値があったのは、自分自身。いつも誰かを支え、影に徹していたエルザにとって、向けられた剥き出しの「信頼」は、胸の奥の冷たいしこりを溶かすほどに熱く、新鮮なものだった。
結局、その日は日暮れまで人が途切れることはなかった。好条件の仕入れ契約、共同出資の提案、地方流通の委託など、持ち込まれた話はどれも個人の小商いの範囲を大きく超えている。
閉店後のような深い疲労感に包まれながら、山積みの書付を前に「小さなお店で終わりそうにないわね」と苦笑するエルザ。クララは誇らしげに胸を張った。
一日中忙しく動き回り、人に頼られ、頭をフル回転させて段取りを組んでいる間、レイモンドの冷たい言葉に抉られた胸の傷を思い出す暇は、驚くほど一度もなかった。
翌朝、店の前にはさらに三台の立派な馬車が並んでいた。近所のパン屋からは「新しい女主人さん、とんでもない大物だったんだね」と目を丸くされ、昼には実家のフェルンベルク商会から番頭が訪ねてきた。
「旦那様より、『援助はしないが商談なら受ける。初回取引は他商会より二分安く卸す』と」
身内に甘い顔はしないが、娘が他所に負けるのは癪だという。いかにも父らしい不器用なエールに、エルザの胸は芯から温かくなった。
日が暮れる頃には、取引先候補は十を超え、出資や共同事業の申し出も相次いでいた。もう商店というよりこれは「商会」だ、と震えるクララに、エルザは夕暮れの通りを行き交う人々を見つめながら静かに呟いた。
「勝手に集まってくるのね」
「エルザ様が呼ばれたんですよ。皆さんの方が、エルザ様に呼ばれるのをずっと待っていたんです」
愛されたい人には愛されず、真心を尽くした相手には踏みにじられた。けれど、世界はそこだけでできているわけではなかった。自分を真っ直ぐに信頼し、その手腕を見ていてくれた人たちがこれほどいたのだ。
明日、ようやく正式な看板を出しましょうという言葉に元気よく応えるクララを見ながら、エルザは机の上の古い印章を指先で優しく撫でた。
誰かのためでも、捨てられた痛みを埋めるためでもなく、自分の手で作れる未来を作るために。
その前向きな決意に応えるかのように、店の外にまた一台、馬車が止まる音がした。今度は投資家組合の使者が、「二店舗目をお考えなら」と王都東区の空き物件の案内を持ってきたのだった。
王都の片隅で、ひっそりと静かに始めるはずだった再出発。しかし、彼女を慕い、その才覚を信じる者たちは、どうやら彼女を「小さな商店の女主人」のままではいさせてくれないらしい。
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