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稼ぐ嫁はいらぬと仰るなら、この金貨も領地もすべて没収いたします。  作者: 九条 綾乃


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第10話 もう、愛していない

 人は、ときどき致命的な勘違いをする。


 涙を流せば許されると。後悔を口にすれば、壊したものも元通りになると。かつて愛してくれていたのなら、その愛はいつまでもそこに残っているはずだと。


 けれど実際には、違う。どれほど大きくて深い真心でも、何度も踏みにじられればひび割れる。一方的に与え続けるだけでは必ず底が尽きる。そして、ある決定的な限界点を越えると、音もなく静かに死に絶えるのだ。


 エルザは、その残酷な真実をすでに知っていた。

 これは、未練の、最後の残骸。


 そう言い捨てて沈黙が落ちたあとの応接間は、ひどく静かだった。


 卓上の茶器から立ち上る湯気はまだ温かいのに、部屋の空気だけが急速に冷えていく。レイモンド・アルヴェインは、向かいに座る元妻の顔を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。


 未練の最後の残骸。それは決して希望の言葉ではなかった。情が残っているという甘い告白ですらない。ただ、彼女の中に過去への決別として、僅かな澱のようなものが手向けとして残っているというだけの話だ。


 その程度の冷酷な事実が、今の彼には微かな救いに見えてしまう。


「エルザ」


 掠れた声で呼ぶと、彼女は目を上げたが何も答えない。


「……僕に、もう一度だけ機会をくれないか」


 口にした瞬間、自分でもわかった。それは返済猶予の話ではない。領地の話でも、運営権の話でも、債権と債務の条件でもない。もっとずっと愚かで、みっともない願いだ。


「僕は、間違っていた。君のことを何もわかっていなかった。君がどれだけ僕のために、家のために、領民のために動いていたかも、何一つ理解していなかった。それなのに僕は君を追い出し、君がくれた最後の機会まで、自分への賞賛だと勘違いして資金を流用し、台無しにした」


 ここまでは、まだよかった。遅すぎる懺悔でしかないが、事実を認めているだけだ。だが次に出た言葉は、それとは違った。


「だから……やり直したい。君と、もう一度。今度こそちゃんとする。君を大事にし、君の言うことにも耳を傾ける。だから――」


 言えば言うほど、自分で自分が惨めになっていく。何を言っているのだろうと、どこか冷えた部分で理解していた。今さら何を差し出せるというのか。壊した信頼を、踏みにじった真心を、“金しか能がない女”と罵った相手に向かって。


 けれど、止まらなかった。


「君を愛しているんだ」


 その言葉が落ちたあと、時間が止まったように思えた。


 エルザはすぐには答えなかった。驚いた様子もない。顔をしかめもしない。ただ静かに、レイモンドを見ていた。その目に映っているのは喜びでも怒りでもなく、悲しみに近い何かだった。


「……そう」


 やがて彼女は、小さくそう言った。それだけだった。拒絶の言葉すらまだないというのに、レイモンドはその一言で胸の奥が凍りつくのを感じた。


「エルザ、僕は本気で――」


「ええ。今の貴方が本気なのは、わかるわ」


 遮る声は穏やかで、彼が取り繕いで言っているのではないと認めてくれている。なのに、少しも救いにならなかった。


「でも」


 エルザはそこで、静かに首を振った。


「もう、愛していないの」


 その言葉は大声ではなかった。責める色もない。むしろひどく静かで、長旅に疲れた人間がようやく辿り着いた確かな答えのようだった。


 だからこそ、痛かった。


 レイモンドは声を失う。どこかで、まだ期待していたのだ。彼女が自分を愛していたのなら、その名残が奇跡のように残っているのではないかと。泣いて縋れば届くのではないかと。そんなものは、あまりにも虫が良すぎた。


「君は……僕に資金を出してくれた時は、まだ……」


 言いかけて、彼は自分で口をつぐんだ。何を根拠に、まだ愛が残っていると思ったのか。彼女が示したのは慈悲であって、愛の継続ではない。混同しているのは、また自分のほうだ。


「昔は、愛していたわ。本当に、心から」


 エルザは視線を落とし、過去の記憶をなぞるように紡いだ。


「だから貴方が他の方に心を向けても、最後に戻ってきてくださるならと耐えたし、離縁のときだって、貴方を困らせたくなくて私が築いたものをほとんど置いていった。匿名でお金を出したのも、貴方に立ち直ってほしかったから」


 一つ一つの言葉が、ゆっくりと心臓へ沈んでいく。彼はそのどれもを知っていたはずだった。いや、知ろうと思えば知れたはずだった。だが知ろうとしなかった。彼女の献身を当然のものとして受け取り、与えられることに慣れきっていたから。


「でも」


 エルザは顔を上げる。その瞳は澄んでいて、涙はない。


「貴方が、その気持ちまで自分の都合のために使い潰し、踏みにじったときに終わったの」


「踏みにじった……」


「ええ。愚かであることは罪ではないわ。失敗することも、間違うことも、人だからある。でも、自分が差し出された真心の意味も考えず、それを見下して、挙げ句に自分の無能さと傲慢さで全部壊してしまったら」


 そこで彼女は、ほんの少しだけ息を止めた。


「もう、だめだった」


 レイモンドは目を見開く。無能さ。その言葉は罵倒ではなく、ただの事実として告げられた。それがなおさらきつい。


「私はずっと、貴方を立派な方だと思いたかったの。弱くてもいい、未熟でもいい、いつかちゃんと歩ける方だって信じたかった。でも貴方は、最後に差し出した機会まで、自分を飾るためだけに流用した。それを見たとき、ああ、この人はもうだめなのだとわかってしまった」


 わかってしまった。それが、終わりだった。


 レイモンドの中で、何かがゆっくり崩れていく。彼女は怒っていない。責め立てもしていない。ただ、彼がどういう人間なのかを完全に理解してしまったのだ。そして、その理解が彼女の愛を殺した。


「君は……僕を助けてくれたのに」


「助けたかったわ。でも、助けたい気持ちと、愛している気持ちは、同じじゃないの」


 レイモンドは、膝の上で握った拳を震わせた。


「じゃあ、僕はどうすれば……」


「ご自分で考えてください。それを私に聞かないで」


 きっぱりとした声だった。彼女が引いた線が、さらに深くなる。


「もう私は、貴方の人生の答えを出す人ではないの。妻ではないから」


 その一言に、彼は完全に言葉を失った。そこにいるのは、愛してくれる女ではない。もう自分を支える義務も理由もない人間だ。ただ、かつて夫婦だったという過去があるだけ。今ここにあるのは、債権者と債務者という現在だけだった。


 エルザは机の上の書類を一枚、静かに引き寄せる。


「話を戻します。返済猶予についてです」


 仕事の声だった。温度を切り替えたのがわかる。それがかえって、残酷なほど誠実だった。


「先ほど提示した条件は変わりません。これ以上、個人の裁量で大きなお金は動かさないこと。領地運営と主要事業の管理権を、一時的にこちらから派遣するセドリックたちへ預けること。よろしいですね?」


「……僕に、選ぶ資格なんてあるのか」


「あります。最後に自分の弱さを受け入れ、認め、責任を取るか。それとも逃げ出すか。その違いだけは、まだ貴方に選べるわ」


 レイモンドは顔を上げた。そこに情けはない。だが、侮りもなかった。それが余計につらかった。彼女は今、元夫としてではなく、一人の愚かな当主としての最低限の選択を迫っているのだ。


「……グレアムを」


 長い沈黙のあと、レイモンドはそう言った。「グレアムを、呼んでくれ」


 エルザは小さく頷き、扉の外へ声をかける。やがて入ってきた老執事は、応接間の空気を一目見てすべてを察したようだった。


「旦那様」


 その呼びかけに、レイモンドはしばらく答えられなかった。執事の顔を見ることすら、恥ずかしかった。


「お前は、ずっと正しかったな。僕は結局、一度も家を見ていなかった。自分のことしか考えていなかった」


 グレアムは何も言わない。否定も、慰めもない。ただ黙って立っている。その沈黙に支えられるように、レイモンドはようやく言った。


「条件を受ける。領地運営も事業管理も、君の代官に預ける。……いや、預けさせていただく。もう、僕の見栄で潰していいものじゃない」


 そこまで言ってから、彼はエルザへ向き直った。


「……お願いします」


 床に膝をついて、深く、頭を下げた。


「領地を、領民を、助けてくれ」


 それは、ここへ来る前に彼が想像していた“自分の価値をわからせるための言葉”とはあまりにも違っていた。誇りも、格好も残っていない。それでも初めて、言うべき言葉を言ったのかもしれなかった。


 エルザはしばらく彼を見ていた。やがて、淡く息をつく。


「……承知いたしました」


 短い返答だった。そこに甘さはない。けれど、領地を見捨てないという決意だけは確かにあった。


「ありがとうございます、奥様」


 思わずグレアムがそう呼び、すぐに言い直そうとして口をつぐむ。エルザは少しだけ目を伏せ、それから静かに首を振った。


「その呼び方は、もう違うわ」


「……失礼いたしました」


 彼女はセドリックだけに微笑んだ。レイモンドは自分の居場所がここにないことを悟った。

 レイモンドは顔を上げ、傍らに控える老執事へ静かに告げた。


「グレアム。これからはもう、僕の顔色を窺う必要はない。領地と領民のために、彼女が派遣する代官の指示に全力で従ってくれ」


「……旦那様」


 グレアムは深く一礼した。その礼は、かつての愚かな主へ向けたものではなく、ようやく現実を受け入れ、すべてを明け渡した一人の男へ向けた、静かな敬意のようだった。


 手続きは、その夜のうちに始まった。実務の担当者が呼ばれ、管理権移譲の仮契約が整えられ、猶予と引き換えにアルヴェイン家の実務がエルザが派遣する者たちへと移される。


 灯りの下で書類に署名しながら、レイモンドは奇妙な感覚に襲われていた。すべてを失うのではない。だが、もう自分のものでもない。かつて彼女が支えていたものを、今度は債務者として、契約の上で引き受けていく。それは救済であると同時に、完璧な敗北でもあった。


「これで、例の詐欺で契約させられた担保も含め、差し押さえは当面止まります。明日から監査と人員整理に入ります」


 最後の書類を閉じてエルザが言う。


「無駄な支出を止め、交易路を組み直して、農地の優先順位も見直す。混乱を抑えるために、表向きは共同管理という形にします。貴方はしばらく、公の場で余計な約束をなさらないで」


 余計な約束。その一言に、レイモンドはかすかに肩を震わせ「わかった」と答えた。もう逆らう力もなかった。


 エルザは必要なことを言い終えると、席を立った。


「エルザ」


 最後に、もう一度だけ彼は呼び止める。彼女は振り返った。


「……ありがとう」


 レイモンドのその礼が何に向けたものなのか、自分でもはっきりしなかった。領地を救ってくれることへの感謝か。最低限の責任を取らせてくれたことへの感謝か。それとも、かつて本当に愛してくれていたことへの遅すぎる感謝か。おそらくは、その全部だった。


 エルザは少しだけ目を細めた。


「その言葉が、もっと早く聞けていたらよかったわね」


 責める声音ではない。ただどうしようもない事実として告げただけだった。レイモンドは何も答えられなかった。


 館を出る頃には、夜はすっかり深くなっていた。


 石段を下りる足は重い。だが不思議と、館へ来る前よりは少しだけましだった。何もかも元に戻る可能性が、彼女がまた愛してくれる可能性が、自分が以前のままでいられる可能性が、全部終わったからだ。


「旦那様、お疲れでございましょう」


 隣を歩くグレアムが静かに声をかける。


「……ああ。だが、命はつながった。エルザのおかげでな」


 短い返答だった。その短さが、いっそ清々しかった。


 レイモンドは夜空を見上げる。自分は愛されていた。だがその愛に甘え、胡坐をかき、最後には自分の無能さでそれを殺した。


 かつて自分が「金しか出せない女」と嘲笑ったその金こそが、彼女の血を流すような献身であり、形を持った愛そのものだったのだと、すべてを失った今になってようやく理解した。


 愛は魔法ではない。壊しても、謝れば元通りになるものではない。その当たり前のことを、彼はようやく知ったのだ。


 数日後。


 アルヴェイン領では、新たな布告が出された。領地運営の再編、工房の不採算部門の停止、交易の見直し、冬越しの備蓄優先。


 混乱はあったが、動きは驚くほど早かった。エルザから派遣されたセドリックたち代官の手によって、どこを切り、どこを残し、どこから立て直すべきかが的確に実行されていく。


 誰かの妻でなくても。アルヴェイン家の夫人でなくても。ただ一人の商人として、実務家として、彼女は揺るがなかった。


 報告書に並ぶ整然とした指示を見つめながら、レイモンドは苦く笑う。


「最初から、敵うはずもなかったな」


 その呟きを聞いた者はいない。けれど、それでよかった。ただ、自分が壊したものの大きさを知り、その後始末の端に座っているだけだ。


 一方その頃。王都北区の館で、エルザは窓辺に立っていた。


 机の上には新しい契約書の束と、数通の招待状。王都の商会からの会談依頼、地方有力家からの共同事業提案、海運商会との新規取引の打診。


「ご主人様。次のご予定のお時間です」


 執事の控えめな声に、エルザは振り返る。頬に悲しみの影がまったくないわけではなかった。十年近く愛した相手だ。消耗がゼロであるはずがない。


 けれど、その目はもう前を見ていた。彼を助けたのは過去へのけじめだ。彼の人生は彼のもの。自分の人生は自分のもの。


 エルザは机の上に置かれた古い印章へ、ふと目を落とした。離縁のとき、たった一つだけ持ち出した、自分の名が刻まれたもの。あの日はそれだけでよかった。それだけあれば、自分はまた立てるとどこかで知っていたから。


 そして今、彼女は本当に自分の名で生きている。誰かの妻としてではなく、一人の人間として、自分の足で。


「参りましょう」


 執事が扉を開く。エルザはもう振り返らなかった。


 過去は背中にある。痛みも、愛も、後悔もそこに置いていく。そのうえで前へ進むのだ。


 彼女は静かに歩き出す。自らの手で掴み取った、新しい人生へ。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

お時間とっていただきましたこと、感謝申し上げます。

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― 新着の感想 ―
尽くしすぎて男をだめにする女が追加で尽くして男にダメージを与えて、実質領地を支配するまでの流れが自然で素晴らしいです。 ただ、領主の親戚とかが物申したりする下りを入れればちょっとした不自然さが無くな…
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