第2話 真心の終わり
ミレーヌ・ヴァンディールという女は、春の訪れのような顔をして現れた。
けれどエルザは、すべてが終わったあとで思うのだ。あれは決して温かな春などではなかったと。雪解けの優しさに偽装して、足元から静かに、だが確実に土台の土を抉り取っていく冷たい濁流だったのだと。
夜の書斎で、夫の机の上に無造作に放られていた例の招待状を目にしてから二週間が過ぎた頃。朝の光が差し込む食堂で、銀のポットから琥珀色の紅茶を注いでいたエルザの耳に、侍女のクララが遠慮がちに報告をささやいた。
最近、レイモンドが王都西区のヴァンディール邸で開かれるサロンに足繁く通っているという。新進の芸術家や若い貴族が多く集うその場所の主宰者は、例のミレーヌ・ヴァンディール。クララの言葉を借りれば、彼女は息を呑むほど美しく、気さくで、何より殿方の自尊心を立てるのが呆れるほど上手い女らしかった。話しているだけで、自分が世界で最も特別な人間になったように錯覚してしまうのだと。
言いかけて自らの不敬に気づき口をつぐんだクララに、エルザは手を止めることなく「続けてちょうだい」と穏やかに促した。
声は穏やかだったが、胸の奥では黒い染みがじわじわと広がっていくのを感じていた。自尊心を立てるのが上手い女。それは、レイモンドがこの世で最も抗えない種類の毒だ。彼を立派だと思い、誇らしく思い、誰よりも彼を立ててきた自負はエルザにもあった。けれど、いつしか彼にとってエルザの支えは「空気のように当然のもの」になりすぎていたのかもしれない。
今夜もヴァンディール邸の夜会へ向かうという夫の予定を聞き、エルザは静かにティーカップを置いた。
「私も一緒に参ります。子爵夫人が、夫の同行先に顔を出して問題があるはずもありませんわ。まだ一度も、彼女にご挨拶をしていないのですから」
驚愕に目を見張るクララと執事のグレアムを背に、エルザの決意は揺るがなかった。
夕刻。上機嫌で出かける準備を整えていたレイモンドは、夜会用のドレスに身を包んで現れたエルザを見て、あからさまに狼狽えた。
「君も行くのかい? あそこは若い芸術家や身分の低い者も出入りする。君が楽しむような格式張った場じゃないと思うが」
「だからこそですわ。たまには、貴方が心惹かれる新しい世界を私も見てみたいのです」
完璧な微笑みで退路を断つと、レイモンドは体裁を取り繕うように渋々頷くしかなかった。ヴァンディール邸へ向かう馬車の中は重苦しい沈黙に包まれ、彼は終始、落ち着きなく窓の外の暗闇へ視線を逃がし続けていた。
ヴァンディール邸は、古き良き伝統とは無縁の、若さと野心に満ちた熱気を孕んでいた。白亜の廊下には新進気鋭の画家の鮮烈な色彩が並び、豪奢な客間には南方由来の甘い香木が焚き染められている。王立劇場から引き抜かれた楽団の華やかな調べが響く空間は、金と新しい流行の匂いがむせ返るほどに充満していた。
群衆を掻き分けて出迎えたのは、噂に違わぬ美女だった。ミレーヌ・ヴァンディール。夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪に、笑うたび三日月の形に細まる柔らかな瞳。透き通るような白い肌には、あどけなさと妖艶さが絶妙な均衡で同居している。
「お初にお目にかかります、エルザ様。ずっとお会いしたかったんです。私の方こそ、レイモンド様にはいつも場を華やかにしていただいてばかりで」
甘すぎない声で紡がれる歓迎の言葉に、レイモンドは照れたような、だが明確な優越感を滲ませた笑みを浮かべた。自分が場にいるだけで皆が安心する、自然と人の中心に立てる稀有な方だ。そんなミレーヌの言葉は、レイモンドが欲してやまない形の称賛そのものだった。彼女は彼を持ち上げるのではなく、彼自身に「自分は元からそういう特別な人間なのだ」と錯覚させる術を心得ていた。
やがてミレーヌは、エルザに向けて悪意の欠片も見えない完璧な笑みを向けた。
「エルザ様も、いつもご心配でしょう? だってレイモンド様のような素敵な方、放っておいたら皆が目で追ってしまいますもの。愛する人の心が自分以外の何かに向いてしまうなんて、私でしたら不安で仕方ありませんわ」
まるで「貴方では彼を繋ぎ止められない」と無邪気に断じるような一言。女遊びではなく、明確に「心」という言葉を使った彼女の意図に、エルザは背筋が凍るのを感じた。それは妻としての不可侵の領分への、明確な宣戦布告だった。
「私は、主人を信じておりますから」
エルザが完璧な淑女の微笑で返すと、ミレーヌは感嘆したように目を丸くし、それから微かに同情を含んだ視線を向けた。その目は、エルザがただ見ないふりをしているだけの哀れな女だと嘲っているようだった。
そして、別れ際。ミレーヌはレイモンドの外套を差し出しながら、エルザには聞こえないほどの声で、しかしエルザの目を真っ直ぐに見据えたまま彼に耳打ちをした。レイモンドの顔色がさっと変わり、エルザへ向ける視線に明確な「警戒」と「嫌悪」が混じるのを、エルザは見逃さなかった。
『エルザ様は、貴方が私のところで安らぐのがお気に召さないようですわ。あんなふうに監視にいらっしゃるなんて……貴方が可哀想』――そんな毒にも似た哀れみを吹き込まれたのだろう。
帰りの馬車の中で、レイモンドは一切口を開かなかった。自分のささやかな聖域にまで妻が踏み込み、監視し、手綱を握り直そうとしている。ミレーヌの言葉によって被害妄想を膨らませたレイモンドにとって、エルザの行動はもはや耐え難い「束縛」として映るようになっていた。
その夜を境に、レイモンドは目に見えて豹変した。
帰宅は深夜に及び、食卓での会話は消え失せた。エルザが彼の好みに合わせて仕入れたワインを勧めても、来月の狩猟会に向けた新しい乗馬服の到着を告げても、彼はただ「そう」と空虚な相槌を打つだけだった。夜会用の青い上着に細工師の袖飾りを頼んだと伝えたときなどは、「君はいつも抜かりがないね」と、誉め言葉の形を借りた冷たい棘を向けてきた。何か気に障ったかと尋ねるエルザから視線を逸らし、彼はただ忌々しそうに「別に」と吐き捨てるばかりだった。
ある夜、書斎で取引記録の確認をしていたエルザに、グレアムが沈痛な面持ちで報告をもたらした。
レイモンドが、ミレーヌにアルヴェイン家の内情を洗いざらい話しているというのだ。赤字工房の黒字化から王立銀行との交渉、さらにはエルザがレイモンドの身の回りの支出から贈答品の手配までを一元管理していることまで。向こうの使用人が漏らしたというミレーヌの述懐は、エルザの心臓を鷲掴みにした。
『なんて息苦しいのかしら。愛しているのではなく、金で飼い慣らしているだけではなくて?』
ペンを持つ指が白く粟立つ。彼に苦労をさせたくない、彼の人生を少しでも輝かせたい。その一心で尽くしてきたすべてが、「金で去勢する傲慢」だと嘲笑われている。そして何よりエルザを絶望させたのは、レイモンドがその言葉を否定しなかったという事実だった。
それでもエルザは、ただの行き違いだと信じたかった。
数日後、長く赤い夕陽が差し込む応接室で、エルザは夫と向き合った。椅子に浅く腰掛け、あからさまに面倒そうな顔をするレイモンドに対し、エルザは自分のやり方が彼に窮屈な思いをさせているなら改めたいと、静かに切り出した。
だが、返ってきたのは氷のような拒絶だった。
「その“貴方のため”が、重いんだよ。僕がどこで何をして、誰と会って、何を着て、何を飲むか。全部君の手のひらの上じゃないか。君は金も才覚もあって、誰よりも有能だ。だが、その横に立つ僕は君の作った台本を読むだけの飾りだ!」
彼の苛立ちは、今まで押し隠していた劣等感の爆発だった。
彼を立てていたつもりの行動が、彼にとっては「上からの施し」に過ぎなかったのだと、レイモンドは吐き捨てるように言った。
「君は、僕を信じていたんじゃない。見下していたんだ。君は僕がいなくても生きていけるが、僕は君がいなければ回らない。君はそれを誇らしく思っていたんだろう!」
「そんなはことありません! 私は、貴方に苦労してほしくなくて……」
泣きそうになるのを必死で堪えるエルザの声は、空気を震わせた男の怒声にかき消された。
「それが傲慢だと言ってるんだ! 君は結局、金しか出せない女なんだよ」
パチン、と、頭の中で何かが千切れる音がした。
金しか出せない女。
その一言が、エルザが積み上げてきた愛と献身のすべてを虚空へと葬り去った。彼のためにと整えた完璧な暮らしは、彼を惨めにする首輪でしかなかったのだ。
「…。ミレーヌ様を、愛していらっしゃるのですね」
長い沈黙の末、エルザの口からこぼれたのは、感情の一切を削ぎ落とした問いだった。レイモンドは少しの間の後、彼女は自分を一人の男として見てくれる、君とは違う、と明確な別離を突きつけた。
「離婚してほしい。その方が、お互いのためだ」
解放感すら滲ませる夫の顔を見て、エルザの目の前がすっと白く染まる。怒りも悲しみも通り越し、ただひたすらに空虚だった。
「わかりました。条件は、後日文書で詰めましょう」
あまりにもあっさりとした承諾に、レイモンドは微かに目を瞠った。もっと泣き縋ると思っていたのだろうか。だが、エルザの心はすでに死んでいた。彼がミレーヌの言葉を借りて「肩の荷を下ろしたいはずだ」と気遣うふりをしたとき、エルザは薄く微笑むことしかできなかった。
夜更け、静まり返った寝室の鏡台の前で、エルザは一人座っていた。
鏡の中の完璧に結い上げられた髪と上質な寝衣を纏う女は、中身のない、がらんどうのように見えた。「金しか出せない女」。その呪いのような言葉が胸をきりきりと締め付ける。引き出しから取り出した小さな箱には、レイモンドがかつて贈ってくれた少し不格好なブローチや安価な指輪が眠っていた。
どれも彼が自分のために選んでくれた宝物だった。
箱をそっと閉じ、胸に抱いても、不思議と涙はこぼれなかった。泣いてしまえば、この手から零れ落ちた愛の残骸にすがってしまいそうだったから。
翌朝、離婚の決定は瞬く間に屋敷中に知れ渡った。使用人たちは息を殺し、執事のグレアムは顔面蒼白で再考を嘆願した。一時の気の迷いだから、と訴える老執事に、エルザは静かに首を振った。
「レイモンド様は、本気です。なるべく穏便に済ませますわ。家の名誉は守る。レイモンド様のお立場も、傷つけたくないの」
それが、エルザの中に残された最後の愛の形だった。彼を困らせたくない。すべてを奪い尽くして去ることもできるはずなのに、彼女は自分が築き上げた富を彼に残していくことを選んだ。
なんて滑稽で、哀しい愛だろうか。
愛していたはずの人の口から放たれた言葉が、彼女の中の何かを完全に殺してしまった。それでもなお、彼を憎みきれない自分の愚かさを抱きしめたまま、エルザはそこを去る準備を始めるのだった。
お読みいただきありがとうございました。




