第1話 献身という名の日常
王都でもっとも美しい裏切りは、眩いシャンデリアの光が届かない夜会の片隅で起きる。
豪奢な広間の壁際では、扇で口元を隠した令嬢たちが、甘い毒を含んだくすくすという笑い声を漏らしていた。彼女たちの視線の先、豪奢なタペストリーの前に立つのは、完璧に仕立てられた夜会用の燕尾服を纏う若い子爵、レイモンド・アルヴェインである。
人当たりの良い笑みと、少しだけ甘く無責任な響きを持つ彼の声は、生来、女心をくすぐるようにできている。今も彼は、栗色の髪をした愛らしい令嬢の華奢な手を取り、いかにも楽しげに耳元で何かを囁いていた。
まぁ、奥方様がいらっしゃるのに。でも怒ったりはしないのでしょう、だって「あの」エルザ様ですもの。
ひそやかな囁きに混じる明らかな哀れみの色を、エルザは表情一つ変えずに聞き流した。金糸の刺繍が重厚な瞬きを放つ深緑のドレスの裾を静かに捌き、大理石の床を踏みしめて歩みを進める。
人々が自然と海が割れるように道を空けるのは、彼女がアルヴェイン子爵夫人という威厳を纏っているからか、それとも、沈みかけていたアルヴェイン家をその細腕一つで王都屈指の富裕な家門へ引き上げた「真の支配者」であることを、この場の誰もが知っているからか。
「レイモンド様」
エルザが静かに声を掛けると、彼はびくりと肩を揺らして振り返った。ほんの一瞬だけ気まずそうに泳いだ瞳は、すぐさま見慣れた人当たりの良い笑みに塗り替えられる。
「エルザ、どうしたんだい?」
と、咄嗟に令嬢から手を離し悪びれもせず尋ねる夫へ、エルザは完璧な淑女の微笑みを返した。
「そろそろ、財務卿がお見えになりますわ。先日の茶葉の件、ぜひ貴方から直接お礼をお伝えしていただきたくて」
「ああ、そうだったね。すまない、少し話し込んでしまった」
少し、どころではないことをエルザはとうに知っている。今夜の数時間だけで、彼が三人の女性に同じ甘い笑顔を向けていたことも、そのうちの一人の髪に、先月彼が「自分のために」と仕立てたはずの髪飾りがさりげなく飾られていたことも、彼女の冷徹な観察眼は見逃していなかった。
それでも、彼女の口から責める言葉が落ちることはない。お話し相手が必要な方はたくさんいらっしゃるでしょうから、と穏やかに返す妻の腕を取り、レイモンドは「わかってくれる君はやっぱり最高の妻だよ」と無邪気に笑う。
たったそれだけの言葉、ほんの少しの優しい眼差し。それだけで胸の奥がじんわりと熱くなり、今日一日の静かな痛みをすべて飲み込めてしまう自分が、エルザにはひどく滑稽で、だが、どうしようもなく愛おしく思えた。
誰もが羨む理想の夫婦。きらびやかな夜会の光の中を連れ立って歩く二人の姿は、少なくとも遠目には、一片の瑕疵もない絵画のように完璧に仕上がっていた。
アルヴェイン子爵家は、三年前まで瓦解寸前の泥船だった。先代の放漫な経営と見栄だけで膨れ上がった借入金、不作の年に高利の金に手を出した結果の火の車。そして、その泥船を指揮する力がない現当主。その惨状を一人で清算し、黄金の城へと作り変えたのがエルザ・フェルンベルクである。
彼女が嫁入り道具として持ち込んだのは、目先の金貨だけではない。実家の商会で培った緻密な取引網、冷徹な目利き、そして埋もれて見捨てられていた品々の海から「まだ息をしている価値」を拾い上げる天性の才覚だった。
赤字を垂れ流していた広大な葡萄園は容赦なく規模を縮小し、王族向けの高級酒に特化させて莫大な利益を生んだ。倉庫で埃を被っていた不良在庫の布地は、王都の流行を先読みした型に仕立て直して売り捌いた。領内の街道には商人の流れを計算し尽くした宿場を整備し、物流の要衝として息を吹き返させた。
無駄な中抜きを徹底的に潰し、三年目には「最も堅実な成長を続ける家」として王都の社交界で確固たる地位を築き上げたのだ。
誰の目にも奇跡と映るその手腕も、エルザにとってはただの手段に過ぎない。すべては、愛する夫が誰に臆することもなく、胸を張って華やかな世界を歩くための土台作りのためだった。
夜の静寂に包まれた屋敷へ戻ると、豪奢なエントランスの仄暗いランプの下で、古参の執事グレアムが深く頭を下げて出迎えた。エルザが夫の姿を尋ねると、彼は少し言い淀みながら、お疲れの様子で先にお休みになられた、と告げた。
裏門の陰には、アルヴェイン家の紋章を持たない見慣れぬ辻馬車が一台、息を潜めるように出発の準備を整えていたことをエルザは知っている。どこぞの女が手引きした迎えの馬車なのだろう。今夜も彼は、暗闇に紛れてどこか別の場所へ向かうのだ。
胸の奥を細い針で突かれるような痛みを覚えながらも、エルザは表情を崩さなかった。
グレアムが銀の盆に乗せて差し出したのは、王都南区の高級香油店からの見積書だった。先日レイモンドが気に入った香りを定期購入するためのものだという。質の割に法外な値がつけられた数字の羅列を一瞥し、エルザはすぐさま契約の継続と、同じ香りを用いた銀箔押しの箱入り石鹸の追加発注を命じた。
少しだけ口ごもったグレアムが、旦那様はすでに十分すぎるほどのものをお持ちです、と差し出がましい忠言を口にする。エルザはそれに小さく笑みをこぼした。
「知っています。でも、もっと持っていてほしいの」
それは紛れもない彼女の本心だった。アルヴェイン家の当主であるレイモンドには、誰よりも立派で、誰よりも華やかでいてほしい。自分にできるのは、そのための完璧な土台を整え続けることだけだ。
普通の妻のように甘え、嫉妬し、涙を流す可愛げなど、商家の娘として数字と契約書に囲まれて育った彼女には最初から持ち合わせていない。だからこそ、最高の暮らし、最高の食卓、最高の服を用意し、彼がどこで誰と過ごそうとも、最後に帰る場所だけは世界でいちばん眩しく、居心地の良い場所にしておきたかった。
明朝の北部倉庫の棚卸し報告、昼の王立銀行支店長との面談、午後の織布工房の新規契約。立て続けに予定を確認しながら、エルザはレイモンドの乗馬服の仕立て直しと、彼が「落ち着く部屋が欲しい」と気まぐれにこぼしていた南棟の客間の改装を言い渡す。
夫の希望の九割がその場限りのものであると知りながら、いつか彼が振り返ったとき、この家に足りないものは何一つなかったと思ってもらうために、彼女は富を紡ぎ続けるのだ。
翌朝、陽光がたっぷりと降り注ぐ応接室には、王都でも名の知れた大商人たちが顔を揃えていた。北方交易の実務的な話をエルザと直接進めたがる商人たちを、彼女は「最終決裁は当主であるレイモンド様から」と柔和な笑顔で制する。
エルザの指先一つで王都のガラス細工の原料相場が動き、砂糖の取引ルートが塗り替わることを熟知している商人たちは、その徹底した裏方へのこだわりに苦笑しながらも感服していた。
やがて重厚な扉が開き、朝の光を背に受けてレイモンドが姿を見せた。明け方にこっそりと屋敷へ戻り、湯浴みをして身を清めたばかりなのだろう。昨夜の放蕩による疲労など微塵も感じさせない完璧な装いと、自信に満ちた足取りで上座につく。
エルザはあらかじめ数字の並びを整え、先方が頷きやすい順序で要点に印をつけた完璧な資料を夫の前に滑らせた。
レイモンドがその資料をなぞるように読み上げ、冬のうちに運搬費を抑えて春の需要期に合わせる計画を口にすると、商人たちから一斉にわざとらしいほどの賛辞が飛んだ。
満更でもなさそうに笑う夫の横顔を見つめながら、エルザは深く安堵の息を吐く。今日も彼に自信を持たせ、顔を立てることができた。手柄などすべて彼に渡してしまえばいい。
契約書にさらさらと署名する夫の筆跡を見つめるだけで、何度裏切られても、やはりこの人を愛しているのだと実感する自分がいた。
商人たちが去り、静けさの戻った応接室で、レイモンドは上機嫌にソファへ深く身を預けた。成功に酔いしれる彼は、少年のように素直にエルザの手腕を褒め称える。
君は有能だ、君が妻でよかった。
その無邪気な言葉だけで、張り詰めていたエルザの胸の奥がふわりとほどけていく。
機嫌を良くした彼は、利益が出たのなら入ったのなら例のサファイアを買ってくれないかと無邪気にねだる。エルザは微塵の躊躇いも見せず、明日にでも手配し、彼の瞳の色に合わせた白金の台座に仕立て直そうと提案した。
何でも叶えてくれる最高の妻。その称号に甘んじるためなら、彼が夜の闇に紛れて別の誰かの香水をつけて帰ってこようとも、この屋敷で「おはよう」と言い合えるだけで十分だった。
ふいに、控えていた侍女が銀の盆に乗せて一束の花を運んできた。東通りの花屋から届いた、差出人不明の白薔薇。旦那様宛てだというその純潔の象徴を前に、一瞬だけ部屋の空気が凍りつく。
気まずそうに視線を泳がせたレイモンドが「ただの社交だ、深い意味はない」と肩をすくめるのを、エルザは静かに受け入れた。
今夜の夕食には貴方の好物である小牛の香草焼きを用意し、寝かせておいた極上のワインを開けましょうと提案する。レイモンドは「それは楽しみだ」と満面の笑みで頷いた。
だが、その約束が果たされることはなかった。夕刻になると、彼は「急な社交の予定が入った」と言い残し、逃げるように屋敷を出て行ってしまったのだ。
彼の曖昧な言い訳も、残された豪華な食卓も、胸の奥に刺さる冷たい棘も、すべては見えない箱に閉じ込めて蓋をした。彼が心地よく暮らせる今日を作り続ければ、いつかきっと、彼はこちらだけを見てくれると信じて疑わなかったからだ。
その日の夜更け。静寂に包まれた書斎のデスクで、一人残されたエルザは分厚い帳簿に静かにペンを走らせていた。窓の向こうには、王都の街明かりがまるで星屑を散りばめたように瞬いている。
今月の収支は上々で、新しい投資先からの見返りも計算通りだった。来年には王都の真ん中に、彼にふさわしい新しい別邸を構えることもできるだろう。
あの光の海のどこかで、今頃彼は誰かとグラスを傾けているのかもしれない。それでも、最後に帰る場所として自分を選んでくれるのなら、それでいい。
ふと、日中に彼が書き物をしていた机の端に、見慣れぬ意匠の封筒が無造作に置かれているのを見つけた。宛名には、はっきりと『レイモンド・アルヴェイン子爵様』と記されている。
すでに開けられていた蝋封から中身を引き出すと、それは王都で最近急激に名を広めている新興サロンからの招待状だった。
主宰者の欄に記された、ミレーヌ・ヴァンディールという名。
聞き覚えのないその文字の羅列を見た瞬間、エルザの胸の奥で、氷の欠片が滑り落ちたような奇妙なざわめきが起きた。まるで、完璧に組み上げられたはずの時計の歯車が、たった一つの異物の混入によって狂い始めるのを予感させるような、冷たい悪寒。
それでもエルザは、大丈夫だ、と自分に言い聞かせるように小さく呟き、招待状を伏せた。私はあの人の妻であり、彼を支え続けることが私の愛の形なのだと。
与え続けることが必ずしも幸福な結末を約束するわけではないこと、そしてそれが時に、愛そのものを根底から腐らせてしまう猛毒になるのだという真実を、孤独な夜の書斎に座る彼女はまだ、知る由もなかった。
お読みいただき、ありがとうございました。




