春、来りて
レオノール王女の暮らす泉の女神教の修道院は、王都から馬車で半日ほど離れた山間にある。
最寄りの宿場町から石段を登ってきたクロエと随行の者たちは、山塊に抱かれるようにして聳える荘厳な建物を見上げた。
標高の高いこの一帯は冬も始まったばかりだというのにすでに雪深く、白い息が空へと昇っていく。息も凍りそうな寒さだが空は晴れており、降り注ぐ陽光が雪に反射して眩しかった。
「もうあと少しですよ、クロエ。足元に気をつけて」
「ありがとう」
手を差し伸べるトリスタンに支えられ、クロエは滑りやすい石段を踏みしめた。この季節は、修道院に向かうだけでちょっとした修行のようなものだ。
泉の女神教の総本山は隣国スノーレイクであるが、マグノリアでも一応国教として信仰されている。
とはいえ現実主義的な国民性のマグノリアでは熱心な信徒は少なく、修道院の戒律もそこまで厳しくない。
この修道院も王都に近い立地上、わけあり上流階級出身の修道女が多く、規則を守れば異性との面会も可能だ。
修道女になるにあたってレオノールが唯一出した条件がカルロとの面会だったので、この地が選ばれたのも妥当といえた。
「遠路はるばるようこそ。泉の女神さまの名のもとに、あなた方を歓迎します」
到着したクロエたちを出迎えたのは、黒い修道服に身を包んだレオノールだった。
城にいたころの扇情的なドレスとは真逆の詰襟のロングワンピースに、美しい金髪をベールで覆った淑やかな姿は別人のようだ。
「お久しぶりです、レオノール様。御身の麗しさに一層の磨きがかかっていて驚きました」
「ふふん、そうでしょう?なかなか気に入っているのよ、この格好」
得意げな口ぶりはあまり変わっていないが、他者を見下すような目つきが無くなるだけで雰囲気はずっと親しみやすくなっていた。
「本当のところ、お母様に命じられて着ていたドレスは趣味じゃなかったの。修道服は暖かくて快適だしね。でもここだとさすがに冷えるし、部屋に案内するわ」
修道院には外部の貴族が滞在することもあるので、宿泊設備も整っている。
レオノールに先導されて通された部屋もその一つで、あらかじめ暖炉でしっかりと暖められた居心地の良い二間続きだった。
荷解きは随行の侍女たちに任せ、クロエとトリスタンは並んで長椅子に腰掛けた。その向かい側にレオノールも座る。
「まずは改めてご結婚おめでとう。夫婦だからあんたたちの部屋は一緒にしたけれど、ここは女神さまの身許なのだから節度はわきまえなさいね」
「余計なお世話です」
トリスタンがムスッと言い返すのをまぁまぁと宥め、クロエはレオノールに向き直った。
「祝福のお言葉、ありがとう存じます。レオノール様はこちらでの暮らしにご不便はありませんか?」
「不便といえば不便だけれど。身の回りのことを自分でするのは、なかなか面白いわ」
答えるレオノールの瞳は幼いころのように生き生きと輝いており、あながち強がりでもなさそうだ。
「規律が緩いとはいえ修道院だから、やらなくちゃいけないお勤めはいろいろあるけど、やることなすこと自由にできなかったのは昔だって同じだったわ。それに男に見られたり触られたり、誰かを貶めたりしなくてもいいのは気が楽よ」
たまに訪れるカルロの土産話や差し入れを励みに、女神への祈りと奉仕に勤しむ暮らしをレオノールは彼女なりに楽しんでいた。
「それよりクロエ、あんたのことよ。体調は大丈夫なの?鉱血病の発症は明日の予定でしょ?なんでもっと早く来ないのよ」
「天候が回復するのを宿場で待っていたら、ギリギリになってしまいました。それに発症してすぐに死ぬわけでもないですから」
今回の訪問の目的は、鉱血病の治療である。クロエの口ぶりに、レオノールはやれやれと首を振った。
「のんきなものね。発症して歩けなくなったら、横の旦那様が担いでやってくることになったわよ?トリスタンの体力なんてわたくしより頼りにならないのだから、自殺行為よ」
「失礼な。さすがに殿下よりは体力ありますよ。だいたい俺たちが訪問してすぐ出迎えた殿下のほうこそ、ずっとクロエを入り口で待っていたのでは?」
「そ、そんなわけないじゃない、わたくしはこれでも忙しいのよ!」
憎まれ口をたたきあうレオノールとトリスタンを見た通りすがりの侍女が、含み笑いを浮かべている。
クロエもなんだか威嚇する子猫を見るような眼差しになっているのに気付いたレオノールは、わざとらしく咳払いしてみせた。
「とにかく、わたくしはこれで失礼するけど、発病を確認したらすぐに呼ぶこと!わかったわね?」
そう言いおいて、修道服の王女様は部屋を出て行った。
「あの王女様は相変わらずですね」
「でも、お元気そうで安心したよ」
エウラリアが処刑されたのはほんのひと月ほど前のことだ。
レオノールはこれから、女神への祈りと母親の魂を慰めるために生涯を捧げることになる。
まだ若く華やかな暮らしに慣れた彼女がうまくやっていけるのか、クロエは気がかりだった。
節制を重んじる修道院の暮らしはかえってレオノールの心身に良い影響があったようで、このまま彼女が心穏やかに暮らせればいい、とクロエは思った。
翌日の午後、恐れていた心臓の激痛でクロエはいったん気を失った。
目を覚ますとあてがわれた客間のベッドに寝かされて、両隣にレオノールとトリスタンがいた。
レオノールはクロエの手を取って魔力を操っており、反対側ではトリスタンは怪しい動きを見逃すまいとするように険しい顔をしている。
(そんなに心配しなくても大丈夫なのに)
レオノールの魔力がゆっくりとクロエの体に浸透し、心臓を凍らせる異物を優しく遠ざけていくのがわかった。前回死ぬときに感じたのとは、真逆の魔力の動きだ。
「目が覚めたのね、クロエ。わかる?もうおしまいよ」
「ありがとう、ございます。ずいぶんと、あっけなかったですね……」
「初期症状だから楽だったわ。人体には老廃物や有害なものを体外に排出する機能があるから、あとはあんた自身の体に任せれば大丈夫。魔法は使わず安静にして、栄養はしっかり取って、魔鉱石の粒子が完全になくなるまで二、三日は様子見で滞在していくといいわ」
レオノールが手を離すと、入れ替わるようにしてトリスタンがクロエの手を取った。彼には他者の魔鉱石を感じ取る力はないはずだが、そんなことは関係ないとばかりだ。
「クロエ、本当に大丈夫?もう、辛くない?」
「うん、もう痛くないよ。心配かけてごめん、トリスタン」
「よかった……」
クロエの傍らに突っ伏すようにして安堵の息を吐いたトリスタンは、すぐに体を起こすとレオノールに視線を向けた。
「レオノール王女殿下、妻を助けていただき誠にありがとうございます」
珍しく悪意のない真摯な態度にレオノールはちょっとだけ居心地悪そうな顔をして、視線をそらした。
「別に。継承権を失ったとはいえ、わたくしは王族だもの。義務を果たしただけよ」
それから王女の視線はトリスタンとつながれたクロエの手から、下腹部のほうへ向けられた。
「……本当は、あんたたちの代償もどうにかしてあげられたらよかったのだけど」
時戻しの代償について反故にする方法がないか、クロエはレオノールにも手紙で相談をしていた。そのためレオノールはトリスタンの寿命も、クロエが子供を産めないことも承知している。
彼女だけではなく、カルロやリュシアンもそれぞれの伝を使って協力してくれているのだが、今のところ有効な手立ては見つかっていない。
「先祖が長年研究を重ねても覆らなかったことですから、仕方ありませんよ。人の生死を覆すような禁術を用いて、この程度の代償で済んだのが幸運でさえあるのです」
クロエは最後までトリスタンの命も自分たちの子も諦めるつもりはなかったが、それはそれとして現実問題から目をそらすわけにもいかない。
トリスタンが早世した後のことも考えていかなければならなかった。
「そう。子供は養子をとるとして、再婚はするの?」
「いいえ。私の夫はトリスタンだけです。そのくらいの我儘は通します」
もう何度も聞いた言葉なのだろう、妻の主張にトリスタンは複雑そうだ。
「俺はもういつまで生きられるかわからない身ですから、いずれはクロエと養い子を大切にしてくれる方がいてくれたらと思うのですがね」
そう言いながらもクロエの伴侶は自分だけ、という宣言に満更でもなさそうなトリスタン。レオノールは久々に、意地の悪そうな顔つきでにやりと笑った。
「あら、それならわたくしが立候補しちゃおうかしら?」
「……は?」
「実子を持つ必要がないなら、伴侶は別に男性にこだわらなくてもよいのではなくって?」
「はぁ!!?よくないに決まって、いや、この際性別はどうでもいいとして、あなた前回の自分が何したか忘れたわけではないでしょう!?駄目です、絶対!!!」
レオノールの視界からクロエを隠すように覆いかぶさってトリスタンが威嚇すると、修道服の王女様はころころと笑い声を上げた。
「奥様をわたくしに奪われるのが嫌なら、せいぜい足搔いてごらんなさいな、トリスタン・ローラン」
レオノールは本気とも冗談ともつかぬ口ぶりでそう言って、部屋を出て行った。
この発破が効いたのか定かではないが、トリスタンは当初想定されていたよりは、ほんの少しだけ長く生きることになる。
治療が終わって王都へ帰還した二人は、クロエの体調が完全に回復したころにささやかな結婚式を挙げた。
それからほどなく、一人の男の子が養子に迎えられた。
ローラン家の遠縁で、強い魔力に恵まれたものの早くに父親を亡くした少年だった。
存命の実母が下位貴族出身のため、母方の実家に戻って生活するだけなら何とかなる。
しかし、その子の魔力に見合った教育を受けさせるのは厳しいとの事情で、クロエたちの養子にどうかとシリルが勧めてくれたのだった。
実父の死から時を置かず養父の死まで経験させてしまうのは却って残酷ではないか。
二人は迷った末、実母と二度と会えなくなるわけではないなら魔法の勉強がしたい、という本人の希望を聞いて引き取ることを決意したのだった。
利発な少年との暮らしは、ともすれば絶望に陥りそうなクロエたち夫婦にとってかけがえのないものとなった。
クロエもトリスタンも己の知見の限りを息子に教え、遊び、一日の終わりには食卓を囲んで、家族の時間を最優先に過ごした。
シリルとディアナが実務のほとんどを引き受けてくれたからできたことである。
そうして、息子が十歳になった春のこと。
この頃はほとんど魔力も希薄になって、一日中寝たきりでいることの多かったトリスタンが静かに息を引き取った。
眠るように穏やかな、最愛の妻に看取られての最期だった。
窓の外では、公爵邸の桜の大木が満開の花を咲かせていた。
とうとうここまで来てしまいました。
もうあと一話だけ続きます。




