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第7話 見た目だけなら、かなり好み


 夜の嫁力勝負は俺の完敗だった


 何と言うわけではないが、実地訓練がまだまだ足りない


 また新しい箱を買わなければ……


 そんなことを考えながら目を覚ましたのは、日曜日の朝だった


 枕元の時計は九時を少し過ぎている


 隣では美冬さんが布団に半分埋まり、俺の肩へ額を押しつけたまま眠っていた


 昨日の昼間は俺の方が嫁力は高いなんて言っていたはずなのに、夜になった途端に勝負の種目を変えられた


 あれまで嫁力に含めるのは納得していない


「……慎太郎」


「起きてたんですか?」


「今起きた」


 目を閉じたまま、美冬さんの腕が俺の腹へ回ってくる


「おはよ」


「おはようございます」


「何時?」


「九時過ぎです」


「今日休みだよね?」


「休みです」


「じゃあ寝る」


「時間を聞いた意味ありました?」


 返事はない


 代わりに腹へ回った腕が少し強くなった


 完全に二度寝するつもりだ


「美冬さん」


「んー?」


「朝ご飯どうします?」


「慎太郎」


「はい」


「お嫁さん」


「昨日その席は美冬さんに譲りましたよね?」


「朝ご飯」


「都合のいい時だけ返却しないでください」


 布団の中から小さく笑う声が聞こえた


 起きる気はないらしい


 俺は腕を抜こうとしたものの、美冬さんにもう一度抱え込まれ、結局あと五分だけ付き合わされた


         ◇


 キッチンへ行き、冷蔵庫に残っていた卵とベーコンを取り出す


 パンをトースターへ入れ、フライパンで目玉焼きを作っていると、ようやく美冬さんが寝室から出てきた


 亜麻色の髪を後ろで適当にまとめ、まだ少し眠そうなまま冷蔵庫から水を取る


「おはようございます、二回目」


「おはよ」


「起きました?」


「半分」


「残り半分も起こしてください」


「コーヒー飲んだら」


 それなら話が早い


「ブラックでいいです?」


「今日はミルク入れる」


 二人分を淹れてテーブルへ運ぶ


 俺も席へ着こうとしたところで、淹れたばかりのコーヒーから上がった湯気がレンズに当たった


 視界の下側が白く曇る


「うわ」


 メガネを外した俺を見て、美冬さんがトーストを持ったまま首を傾けた


「慎太郎、裸眼だとどれくらい見えるの?」


「かなり悪いですよ」


「私の顔は?」


「ぼやけてます」


「私って分かる?」


「髪の色と声で」


「じゃあ今なら何しても分からない?」


「その前置きで警戒しない人います?」


 ぼんやりした美冬さんの輪郭が少し動いた


「何してるんです?」


「変顔」


「見えません」


「よかった」


「本当にしてました?」


 返事がない


 俺は鞄からメガネ拭きを取り、レンズを拭いて掛け直した


 一気に視界が戻る


 美冬さんは何事もなかったようにトーストへバターを塗っていた


「もう終わったんですか?」


「何が?」


「変顔」


「知らない」


 やっぱり教える気はないらしい


 俺も諦めて目玉焼きへ箸を伸ばす


「でも」


 美冬さんの視線が俺のメガネへ向いた


「掛けてる方がいいね」


「何がです?」


「慎太郎」


 唐突に自分の名前が出た


「裸眼よりメガネの方が似合ってる」


「ああ、そういう意味ですか」


「私の好みはそっち」


 箸が止まった


「……好み?」


「うん」


 美冬さんは普通にコーヒーを飲んでいる


 俺の方だけ、聞き慣れない単語を処理するのに時間が掛かった


「美冬さんって、メガネ男子が好みなんですか?」


「そうだよ」


 初めて聞いた


 同じ会社で何年も働いているのに、そんな話をしたことは一度もない


 考えてみれば当然か


 部下が上司へ好みの男性について質問する機会なんて普通はない


「知らなかったです」


「言ってないからね」


「他にはあるんです?」


「何が?」


「見た目の好み」


 美冬さんが少し考える


「黒髪かな」


 俺は自分の前髪へ触れた


「細身の人もいい」


 今度は自分の身体を見る


 身長百七十五センチ、六十五キロ


 筋肉質というほどでもなく、昔から細い方だ


「髪型ならツーブロックも結構いい」


 また自分の髪へ手が伸びる


 そこまで来ると、さすがに気づく


「美冬さん」


「なに?」


「俺の特徴を順番に言ってません?」


「そうだよ」


 あっさり認められた


「慎太郎の見た目、最初からかなり好みだったし」


「…………」


 危うく箸を落としかけた


 慌てて皿の上へ戻す


「最初から?」


「うん」


「会社に入った時から?」


「そう」


 俺は反射的にメガネの位置を直した


 ずれてはいない


 ただ、何かしていないと落ち着かなかった


「全然知りませんでした」


「会社でわざわざ言わないよ」


「それはそうですけど」


 試しに想像する


 俺が営業資料を持って部長席へ行く


 内容を確認した水口部長が「ここだけ修正して、それと佐々木くんの見た目かなり好み」と付け足す


 無理だ


 翌日から部長席へ近づくたびに緊張する


「言われても困りますね」


「でしょ?」


「はい」


「だから言わなかった」


 理屈は分かる


 それでも今になって聞かされると妙な気分だった


 俺は自分が女性から見て特別目を引く外見だと思ったことがない


 少なくとも森川みたいな、放っておいても女性から声を掛けられる男とは違う


「俺、女性受けする方だと思ったことなかったんですけど」


「どうして?」


「二十五年間の実績です」


「実績?」


「彼女ゼロ」


「ああ」


 普通に納得された


「そこは少しくらい否定してくれてもよくないですか?」


「事実は事実でしょ」


「そうですけど」


 美冬さんが笑いながらベーコンを切る


「でも慎太郎、自分から告白したことなかったんだよね?」


「ないです」


「誰かに告白されたことも?」


「ないです」


「なら、何も起きなかっただけじゃない?」


「そんな簡単です?」


「少なくとも、彼女がいなかったから見た目が悪い、にはならないでしょ」


 返す言葉を探して、少し黙る


 自分から動いたことはない


 誰かから好意を向けられた経験も、少なくとも俺が気づいた範囲ではなかった


 それで二十五年経った


 だから自分は恋愛対象になりにくいんだろうと、いつの間にか決めていた


「でも美冬さんも何もしてこなかったですよね」


「私?」


「見た目は最初から好みだったんでしょう?」


「うん」


「じゃあ、何で」


「三歳下だから」


 すぐに答えが返ってきた


「三歳ってそんなに大きいです?」


「年齢差だけなら、今はそんなに」


 美冬さんがコーヒーカップを置く


「でも直属の部下だったから」


「ああ……」


 そっちは大きい


 俺が入社した時から、美冬さんは俺の上司だ


 しかも営業部長


 仕事の評価まで握る立場の人が、自分から年下の直属部下へ近づくのは簡単な話ではない


「三歳下で、直属の部下」


 美冬さんが指を二本立てる


「だから私からはなし」


「見た目は好みでも?」


「それとこれは別」


 はっきりしている


「仕事ができる、可愛い年下の部下って感じだったよ」


「可愛い?」


 そこは聞き流せなかった


「俺、二十五ですよ」


「私は二十八」


「三歳しか違わないでしょう」


「私から見れば年下は年下」


「可愛いは納得できないなぁ」


「そういうところも?」


「疑問形にしないでください」


 美冬さんが笑う


 俺はコーヒーを一口飲んだ


「じゃあ、飲み会の日まではずっとそのままだったんです?」


「そうだね」


「それが何で急に」


 そこまで言ったところで、自分で答えに気づいた


 美冬さんはふっと笑った


「誰が土下座したんだっけ?」


「俺です」


「誰が『水口部長がいいです!』って言ったの?」


「俺です……」


 声が少し小さくなる


「誰が私の家まで来たの?」


「俺です」


 全部俺だった


 今さら並べられると改めて酷い


「私からは何もしないつもりだったけど、慎太郎が自分から来たから」


「それでいいやって?」


「そんな雑じゃないよ」


 美冬さんの返事が少しだけ遅くなる


「あの日、慎太郎かなり飲んでたでしょう」


「はい」


「酔ってる部下が勢いで言ってるだけなら、絶対駄目だったし」


 だから何度も聞かれた


 帰るか


 本当に美冬さんでいいのか


 誰でもいいわけではないのか


 翌朝に酒のせいにしないか


 今なら、あの確認の多さにも納得できる


「それでも慎太郎が何回聞いても答え変えなかったから」


「……はい」


「だったら、私もいつまでも部下だからって外してなくていいかなって」


 美冬さんが最後のトーストを食べる


 その言い方はあまりにも普通で、俺だけがまたメガネへ手を伸ばした


「慎太郎、さっきから何回メガネ触ってるの?」


「落ち着かないんですよ」


「好みって言われただけで?」


「そういうこと言われ慣れてないので」


「じゃあ、そのうち慣れるんじゃない?」


「そんな頻繁に言う予定なんですか?」


「さあ?」


 そこは答えないらしい


 美冬さんはコーヒーへ口をつけた


         ◇


 朝食を片付けたあと、洗面所で歯を磨く


 顔を上げると、鏡の中にはいつも通りの俺がいた


 黒髪にツーブロック


 痩せ型


 メガネ


 昨日までと何一つ変わっていない


 俺は一度メガネを外した


 視界がぼやける


 すぐ掛け直す


 別に急に格好よく見えるわけでもなかった


 ただ、美冬さんはこっちの方が好みらしい


「…………」


 鏡へ少し顔を近づける


 今までなら、こんなふうに自分の見た目を確認すること自体ほとんどなかった


 整髪料が変じゃないか


 寝癖が残っていないか


 ネクタイが曲がっていないか


 見るのはその程度だ


 今日も顔は同じなのに、メガネだけ少し丁寧に掛け直した


「慎太郎ー?」


 リビングから声が飛んでくる


「はい?」


「何してるの?」


「歯磨いてます」


「長くない?」


「今行きます」


 口をゆすぎ、タオルで拭いてリビングへ戻る


 美冬さんはソファでスマホを見ていたが、俺が隣へ座ると一度だけこちらへ視線を向けた


「ちゃんとメガネ」


「外して出てきたら何も見えませんよ」


「コンタクトにはしないの?」


「考えたことはありますけど」


「ふーん」


 それだけ言って、またスマホへ戻る


 俺は横から覗いた


「何ですか、その反応」


「別に」


「コンタクトにした方がいいです?」


「仕事とかで必要なら」


「特には」


「じゃあ今のままでいいんじゃない?」


「美冬さんの好みだから?」


 スマホを動かしていた指が一瞬止まった


「似合ってるから」


「今、ちょっと言い換えました?」


「気のせい」


 しれっと画面をスクロールし始める


 俺もそれ以上は追及しなかった


 メガネを外す予定は元々ない


 だから何かを変える必要もない


 ただ、これから朝に鏡を見る時くらいは思い出しそうだった


 俺がずっと何とも思わず掛けていたこのメガネまで、かなり好みだと言う人が隣にいるらしい

カクヨムにて先行連載しております

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