第6話 お嫁さんになりたいのはどっちですか
美冬さんは、生姜焼きを味見しなかった罰として俺のを味見すると言い出した
……率先してする罰とは何なんだろう
しかも言い出した本人は、罰を受ける人間とは思えないくらい楽しそうだった
少し前の俺なら何を言われたのか理解したところで固まっていたはずなのに、今では買い足した箱がどこに置いてあるかまで知っている
慣れって怖い
結果については省略する
料理の味見は最後までしなかったくせに、そっちだけ積極的だったことは覚えておこうと思う
◇
その週の土曜日
目を覚ました時には、隣に美冬さんがいなかった
休日なら俺より遅くまで寝ていることも珍しくないので、少し意外だった
顔を洗ってリビングへ向かう
「……何してるんですか」
美冬さんはソファの上にいた
大きなヘアクリップで亜麻色の髪をまとめ、ゆったりしたTシャツに短パン
そこまではいい
テーブルには枝豆と冷奴、チーズが並び、その中央には開封済みの缶ビールが置かれている
壁の時計は十一時十八分だった
「休日を満喫してる」
「まだ午前中ですよ」
「あと四十二分でお昼」
「そこまで計算して飲むなら十二時まで待ちません?」
「休みなのに?」
万能だな、その言葉
俺が冷蔵庫を開けると、食材自体はちゃんと入っていた
俺が料理をするようになってから買った肉や野菜、卵もある
ただ、上段の一角だけ様子がおかしい
枝豆
豆腐
チーズ
ナッツ
刺身こんにゃく
そして酒
明らかに一人だけ目的の違う棚ができている
「美冬さん」
「なに?」
「この上の段、美冬さんのですよね」
「うん」
「つまみ置き場になってますけど」
「分かりやすいでしょ?」
「分かりやすさは認めます」
野菜室より充実させる必要があるかは分からない
「慎太郎も飲む?」
「まだいいです」
「休みだよ?」
「美冬さん、昨日も仕事終わってから飲んでましたよね」
「仕事終わってたから」
どう転んでも飲むらしい
俺は水を入れたコップを持ってソファへ座った
すると美冬さんが枝豆の皿をこっちへ押してくる
「食べる?」
「もらいます」
一つ摘まんで口へ入れる
普通にうまい
「これは安心できますね」
「どういう意味?」
「枝豆」
「喧嘩売ってる?」
「茹でてあるやつ買ってきたんですよね?」
「慎太郎」
「はい」
「昨日のこと、まだ引っ張る?」
「俺は忘れませんよ」
「……あれは忘れて」
美冬さんがビールを飲む
昨日の生姜焼きは本人の中でも触れられたくない記憶になったらしい
「料理の味見はしなかったのに――」
「慎太郎!」
枝豆が飛んできた
胸元で受け止める
「言い出したの美冬さんですよ」
「昼間に言うことじゃないでしょ」
「夜ならいいんですか?」
「最近ほんと口回るようになったよね」
それは俺も少し思う
一週間前なら、この手の話題を振られた時点で終わっていた
毎日のようにからかわれていれば、さすがに多少は返せるようになるらしい
代償が大きすぎる気もするけど
◇
「そういえばさ」
美冬さんが空になった缶をテーブルへ置いた
「新しい家に移る前に、家事どうするか決めない?」
「家事ですか」
「今より部屋も広くなるし、二人分になるでしょ」
言われてみればそうだ
今は美冬さんの1LDKへ俺が仮住まいしているだけで、持ってきた荷物も最低限しかない
新居へ移れば俺の大量の本も来るし、服も仕事道具も全部二人分になる
「料理は俺ですよね」
「昨日決まったね」
「かなり強制的に」
「適材適所」
「美冬さん、その言葉好きですね」
仕事でもよく聞く
まさか家庭内でも使われるとは思わなかった
「じゃあ洗濯は私」
「いいんですか?」
「うん」
返事が早かった
「俺もできますよ」
「駄目」
もっと早かった
「何でです?」
「私がやるから」
「理由になってませんけど」
「別にいいでしょ」
美冬さんが冷奴へ箸を伸ばす
さっきまで普通にこっちを見ていたのに、急に豆腐へ集中し始めた
「美冬さん」
「なに?」
「何か理由あります?」
「ない」
「じゃあ交代でも」
「洗濯は私」
妙に頑固だ
「俺がやると困るものでもあるんですか?」
箸が止まった
数秒して、美冬さんが小さな声を出す
「……下着」
「はい?」
「私の下着」
今度は聞こえた
「慎太郎に洗わせるの、恥ずかしい」
「今さらですか?」
「今さらって何!」
「いや、だって」
続きを口にする前に睨まれた
さすがにここから先は言わない方がいい
「洗濯機が洗うんですよ?」
「干すでしょ」
「乾燥機もありますけど」
「畳むでしょ」
「それはまあ」
「慎太郎が私の下着を一枚ずつ畳んでるところ想像すると恥ずかしいの!」
「見るのは?」
「それとこれは別!」
即答だった
俺には違いがよく分からない
ただ、美冬さんの中には明確な線引きがあるらしい
「じゃあ洗濯は美冬さん」
「うん」
「俺の分も?」
「一緒に洗うよ」
「俺の下着は畳めるんですか?」
「別に平気」
「不公平では?」
「これは女心だから」
便利な言葉が出てきた
そこへ踏み込めるだけの経験値を俺は持っていない
「分かりました」
「よろしい」
美冬さんが満足そうに枝豆へ手を伸ばす
「料理は慎太郎、洗濯は私」
「掃除は交代でいいですか」
「いいよ」
「風呂掃除も」
「交代」
「ゴミ出しも?」
「交代で、朝早い方が出せばよくない?」
「買い物は」
「基本交代、休み合ったら一緒に行く?」
「それでいいですね」
思ったよりすんなりまとまった
紙に書き出すほどでもない
料理と洗濯だけ担当を固定し、残りは交代
どちらかの仕事が遅くなれば、家にいる方がやる
そのくらいなら揉めずに続けられそうだ
「当番表とか作らないんですか?」
「やだ」
「即答ですね」
「家まで仕事みたいにしたくないもん」
ちょっと意外だった
会社では予定も数字もかなり細かく見る人なのに、家では逆らしい
そう考えると、昼前からビールを飲んでいるのも納得できなくはない
「できる方がやればいいじゃない」
「まあ、その方が楽ですね」
「ただし料理は慎太郎」
「そこだけは絶対なんですね」
「命に関わるから」
「とうとう自覚しました?」
「昨日自分で食べたし」
そこまで言われると、俺も反対できなかった
◇
昼食は俺が作ることになった
冷蔵庫に卵と冷凍ご飯があったので、簡単に炒飯を二人分
ついでにビールを二本目へ進めようとしている美冬さん用に、だし巻き卵も焼く
「慎太郎」
ソファから声が飛んできた
「はい?」
「それ何?」
「だし巻きです」
「私の?」
「他に誰が食べるんですか」
「やった」
分かりやすく喜んでいる
酒のつまみになる物を作った時だけ反応が一段違う
「慎太郎」
「はい」
「好き」
危うく菜箸を落としかけた
振り返る
美冬さんはビールを持ったまま、こっちを見ている
「……何がです?」
「だし巻き」
「そっちですか」
「あれ、何だと思ったの?」
「何でもないです!」
楽しそうに笑われた
こういう時に追及すると、最後に困るのは俺だ
学習した
「もう少しでできますから」
「はーい」
炒飯を皿へ盛り、切っただし巻きと一緒にテーブルへ運ぶ
「いただきます」
美冬さんは炒飯より先にだし巻きを取った
一口食べる
すぐ二切れ目へ箸が伸びた
「おいしい」
「よかったです」
「これ何入ってるの?」
「だしと砂糖と醤油を少し」
「量る?」
「最初は量りますけど、慣れたらだいたいです」
「目分量でも失敗しないんだ」
「味を見ながら調整するので」
「まだ言う?」
「今のは料理の話ですよ!」
美冬さんが目を細める
自分から聞いたのに
俺も炒飯を食べ始める
向かいでは美冬さんがビールを飲み、だし巻きを食べている
俺が作った昼飯を当たり前みたいに二人で食べる
こういう光景も、この数日で急に増えた
「慎太郎」
「はい」
「今度、唐揚げ作って」
「いいですよ」
「焼き魚も」
「はい」
「あと豚汁」
「定食屋にするつもりです?」
「家で出てきたら最高じゃない」
「美冬さんが作る日は?」
箸が止まった
二人とも昨日の夕食を思い出す
「……慎太郎お願い」
「でしょうね」
美冬さんは何事もなかったようにだし巻きへ戻った
◇
食べ終えて食器を洗っていると、美冬さんが洗面所から洗濯カゴを持ってきた
「洗濯するね」
「お願いします」
「慎太郎の服、これ全部?」
「はい」
カゴの中から服を取り出し、手際よく分けていく
少なくとも洗濯については俺が口を出す必要はなさそうだ
「美冬さん」
「なに?」
「ちゃんとできますね」
「どういう意味?」
「いえ、料理と差が激しいなと」
「あれ一回だけでしょ」
「一回の印象が強かったので」
「次はちゃんと作るし」
「次あるんですか?」
洗剤を入れようとしていた手が止まった
「あるよ」
「俺が料理担当になりましたけど」
「たまには私だって作りたい」
そこまでして料理したい理由が分からない
「料理好きなんですか?」
「好きとかじゃなくて」
美冬さんが洗濯機のスイッチを押した
少ししてからリビングへ戻ってくる
「夢だから」
「料理が?」
「違う」
ソファへ座り、二本目のビールを開ける
プシュッという音のあと、美冬さんが何でもないことみたいに続けた
「私、昔からお嫁さんになりたかったの」
「…………」
思わず手が止まった
水口美冬
二十八歳
営業部長
二十五歳で部長へ抜擢され、今でも営業部で一番数字を持っている人
趣味、仕事
休日、昼前からビール
料理は味見をしない
夢、お嫁さん
情報同士がうまく並ばない
「何、その間」
「ちょっと整理してました」
「失礼だなぁ」
「いや、意外だっただけです」
「私だってそういうの憧れるよ」
美冬さんが枝豆の最後の一つを摘まむ
「結婚したら、旦那さんが帰ってきた時におかえりって言って、一緒にご飯食べて、休みの日は二人でだらだらして」
「だらだらも入るんですね」
「大事でしょ」
「昼前からビール飲むお嫁さんでも?」
「今どきのお嫁さん」
随分と都合のいい現代化だ
「家族ができて、帰る場所がちゃんとある感じっていうか……そういうの、昔からいいなって思ってた」
さっきまでより声が少し小さくなった
「部長になってから忙しくなったし、仕事ばっかりしてたら、全然そっちに進まなかったけどね」
美冬さんが缶へ口をつける
仕事が趣味だと本人も言っていたし、実際よく働いている
でも、それしか欲しくなかったわけではないらしい
「それで料理を?」
「お嫁さんって料理するでしょ?」
「かなり昔のイメージじゃないです?」
「夢なんだからいいの」
そこは譲らないらしい
俺はキッチンを見る
昼食を作ったのは俺
だし巻きを焼いたのも俺
冷蔵庫の食材を確認したのも俺
今、洗った食器を拭いているのも俺
一方、美冬さんはソファでビールを飲んでいる
「美冬さん」
「なに?」
「現状、お嫁さんっぽいことしてるの俺じゃないですか?」
動きが止まった
「料理、俺」
「……うん」
「美冬さんが飲んでる横でつまみ作ったのも俺」
「慎太郎」
「はい」
「それ以上言わなくていい」
「俺の方が嫁力高くないです?」
「高くない!」
クッションが飛んできた
受け止める
「だし巻き作れますよ」
「知ってる!」
「掃除もできます」
「私もできる!」
「買い物も」
「私だってできる!」
「洗濯は美冬さんの勝ちですね」
「でしょ!」
「そこだけ急に嬉しそうですね」
二個目のクッションが飛んできた
今度は横へ避ける
「じゃあ競います?」
「何を?」
「嫁力」
「何で私が慎太郎とお嫁さんの座を争うのよ!」
「俺だっていりませんよ!」
「じゃあ私に譲って!」
「どうぞ!」
何を譲ったのか分からないまま、勝負が終わった
美冬さんはクッションを抱え、ソファへ座り直す
俺も食器を片付けて、その隣へ腰を下ろした
「でも」
「なに?」
「今の生活、美冬さんが言ってたのに少し似てません?」
美冬さんがこっちを見る
「朝起きたら誰かいて、帰ったらおかえりって言って、ご飯食べて、休みの日にだらだらして」
俺が言うと、美冬さんの視線がテーブルへ落ちた
「……まあね」
短い返事のあと、缶ビールを一口飲む
「今は慎太郎がお嫁さん側だけど」
「また俺ですか!」
「だってご飯作ってくれるし」
「美冬さんも洗濯してるでしょう」
「あ、じゃあ半分ずつ?」
「夫婦役割を半分ずつ分けるゲームじゃないですから」
美冬さんが笑う
しんみりするかと思ったら、結局いつもの調子へ戻った
その方が俺も楽だった
「慎太郎」
「はい?」
「枝豆、もう一袋ある」
「知ってます」
「茹でて?」
「美冬さんがやればいいでしょう」
「お嫁さん」
「誰がですか!」
「嫁力高い方」
「そういう時だけ認めないでください!」
結局、俺は立ち上がって冷蔵庫を開けた
後ろから美冬さんの笑い声が聞こえてくる
料理は俺
洗濯は美冬さん
それ以外は基本交代
そして嫁力だけは――
今のところ、俺の方が少し高そうだった
カクヨムで先行連載しております




