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第5話 部長、味見してください


 翌朝


 目を覚ますと、隣では相変わらず美冬さんが裸のまま眠っていた


 昨日、青砥の内見を終えた帰りに薬局へ寄り、コンドームを買い足した


 ベッド脇のサイドテーブルには、その箱が置いてある


 封はもう切られていた


「…………」


 買ったその日に開けることになるとは


 初夜なら酒の勢いと言えたけど、二日目も昨夜も俺は素面だ


 しかも昨日は、二人で住む部屋まで決めたあと、自分から美冬さんと一緒にこの家へ帰ってきている


 ここまで来て、まだ流されただけですは通らないだろう


 隣へ目を向けると、美冬さんは俺の腕を枕代わりにして眠っていた


 布団が肩から少し落ちている


 掛け直そうと手を伸ばしたところで、美冬さんのまぶたが動いた


「……慎太郎?」


「すみません、起こしました?」


「何してたの?」


「布団掛けようとしただけです」


「そっか」


 それだけ聞くと、また目を閉じる


 俺の腕から離れる気はないらしい


「美冬さん、何時だと思ってます?」


「休みの日に聞きたくない質問」


「七時半です」


「じゃあ寝られるね」


「そういう判断になります?」


 美冬さんが俺の胸元へ少し寄る


 こっちは完全に目が覚めてしまった


 仕方なく天井を見ていると、美冬さんが薄く目を開けた


 その視線がサイドテーブルへ向く


「……開いてるね」


「知ってますよね?」


「昨日開けたからね」


「俺が」


「うん」


「そこまで言わなくていいです!」


 美冬さんの肩が揺れる


 朝から完全に遊ばれている


「でも、買っておいてよかったでしょ?」


「それは本当にそうです」


 初日の失敗だけは繰り返したくない


 そこについては、からかわれる余地もなく同意できる


「なくなる前にまた買おうね」


「もう次の補充の話ですか?」


「なくなってからじゃ遅いでしょ?」


 正しい


 正しいけど、新居の家具より先に避妊具の在庫管理をしている二人暮らしってどうなんだ


「慎太郎」


「はい」


「難しい顔してる」


「ちょっと今、自分のここ数日を振り返ってました」


「楽しかった?」


 質問が急に直球になった


 俺は一度サイドテーブルへ逃げた視線を戻す


「……楽しかったですよ」


「ならいいじゃない」


 美冬さんは満足したらしく、また目を閉じた


 こういうところだけ妙に素直だ


 俺も枕へ頭を戻す


 新居を決めた翌朝


 まだ引っ越してもいないのに、この生活そのものには少しずつ慣れ始めていた


         ◇


 新居の申し込みについて連絡を確認したり、二人で引っ越しの段取りを話したりしているうちに、お盆休みは終わった。また新しい箱を買ったくらいか。


 休み明け初日の朝


 俺は美冬さんのマンションの玄関で、鏡を見ながらネクタイを締め直していた


 スーツも鞄も休み前と同じなのに、出勤前の景色だけが変わっている


「慎太郎、ちょっと待って」


「はい?」


 後ろから手が伸びてきた


 美冬さんが俺のネクタイを摘まみ、結び目を少し上へ直す


 本人もすでに仕事着へ着替え、亜麻色の髪を綺麗にまとめていた


 五分前までマグカップを持ってソファに座っていた人とは思えない


「はい、これで大丈夫」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 美冬さんが俺の胸元から手を離す


「ここを出たら部長ですよね」


「うん」


 返事が早い


「会社では佐々木くん」


「分かってます」


「間違えないでね」


「それ、美冬さんもですからね?」


「私は間違えないよ」


「朝から自信ありますね」


「部長だから」


「まだ玄関の中ですよ」


 美冬さんが笑う


 それから靴を履き、ドアノブへ手を掛けた


 同じマンションから同じ時間に出て、揃って会社へ着くのは避けることにしている


 社内恋愛が禁止されているわけではない


 それでも直属の上司と部下が、休みの間に同棲を始めて新居まで決めましたなんて、わざわざ発表する話でもない


「じゃあ私、先に行くね」


「はい」


「慎太郎」


「何ですか?」


「いってきます」


 美冬さんが一度だけ振り返る


「……いってらっしゃい」


 その返事を聞いてから、玄関のドアが閉まった


 俺も十分ほど時間を空けて家を出た


         ◇


「おはようございます」


 営業部へ入ると、あちこちから挨拶が返ってきた


 休み明けだけあって、普段より少し静かだ


 パソコンを立ち上げながらメールの件数を確認している人もいれば、帰省土産の箱を持って席を回っている人もいる


 自分の席へ鞄を置いたところで、背後から声を掛けられた


「佐々木くん」


 一瞬だけ反応が遅れた


 振り返る


 そこにいるのは水口部長だった


 手には休み前に俺が作った案件資料


 表情も声も、完全に仕事中の上司へ戻っている


「はい、部長」


 俺も切り替える


「この企業、求める経験年数を更新したって連絡来てるよね?」


「連休前に確認しました。候補者向けの資料はまだ直してません」


「午前中にお願いできる?」


「十時までに修正版を持っていきます」


「お願いします」


 それだけで部長は自席へ戻っていった


 普通だ


 あまりにも普通すぎる


 今朝、俺のネクタイを直した人と同じ人物だと知っているのは俺だけらしい


 いや、美冬さん本人も知ってるけど


「佐々木パイセーン!」


 今度は聞き慣れた大声が飛んできた


 折笠真奈美が小さな菓子箱を俺の机へ置く


「お土産!」


「ありがとう、実家帰ってたのか?」


「そそ。で、パイセンは?」


「何が?」


「お盆休み。何してたん?」


 返事に困った


 直属の上司の家に泊まり続けていた


 二人で新居を決めた


 今朝も同じベッドから起きた


 一個も言えない


「……本読んだり、出掛けたり」


「ふっつー」


「休みにまで面白さ要求するなよ」


「彼女くらい作って戻ってくればよかったのに」


 惜しい


 方向だけならかなり近い


「何でお盆休みにそんな宿題があるんだよ」


「二十五年間未提出じゃん」


「休み明け一発目で掘り返すな」


 折笠が笑いながら自分の席へ戻っていく


 俺はパソコンへ向き直りながら、少し離れた部長席を見た


 水口部長はこちらを見てもいない


 もう資料の確認を始めている


 切り替えだけなら、俺より何枚も上手だった


         ◇


 午後六時過ぎ


 一日の仕事を終え、美冬さんのマンションへ戻った


 玄関を開ける


「ただいまです」


 奥から足音がして、部屋着姿の美冬さんが顔を出した


「おかえり、慎太郎」


 朝からずっと聞いていた「佐々木くん」が消えた


 たったそれだけで、仕事が終わったことをようやく実感する


「美冬さん、早かったんですね」


「今日はね」


「部長、昼から結構忙しそうでしたけど」


「家で部長って呼ばないで」


 即座に返ってきた


「今俺、美冬さんって呼びましたよ」


「その前」


「話の中でも駄目なんですか?」


「なんか仕事に戻される感じする」


 そう言いながら、美冬さんが冷蔵庫を開ける


 今日は外食でもするのかと思っていると、豚肉と玉ねぎを取り出した


 続いてキャベツ


「何するんです?」


「ご飯」


「美冬さんが?」


 冷蔵庫の扉越しに見られた


「何、その反応」


「いや、料理するんだなと思って」


「するよ、それくらい」


「得意なんですか?」


「普通」


 自信がある


 少なくとも本人は


「何作るんです?」


「生姜焼き」


「いいですね」


 仕事帰りの夕食としてはかなり嬉しい


「手伝います?」


「今日は私が作る」


「じゃあお願いします」


「任せて」


 返事まで頼もしい


 俺は素直に席へ座った


         ◇


 最初の十分ほどは、本当に何の問題もなかった


 玉ねぎを切る手つきも普通


 キャベツもちゃんと細く切れている


 肉を焼く時だって、火が強すぎるわけでもない


 美冬さんは小さな器へ醤油、みりん、酒、おろし生姜を入れ始めた


 ここまで見れば、俺より丁寧なくらいだ


「美冬さん」


「ん?」


「その醤油、量ってます?」


「だいたい分かるよ」


「そうですか」


 一人暮らしをしていれば、毎回計量スプーンを使うわけでもない


 俺も目分量で作ることはある


 美冬さんは出来上がったタレをフライパンへ流し込んだ


 ジュッと音がして、醤油と生姜の香りが広がる


 普通にうまそうだ


「いい匂いですね」


「でしょ?」


 自信満々である


 美冬さんがフライパンの中を見る


 少し首を傾けた


「なんか色薄いな」


「そうです?」


「もうちょっとかな」


 醤油のボトルへ手が伸びたのを見て俺は椅子から立った


「美冬さん、先に一回味見しません?」


「まだ完成してないよ?」


「途中でも味は見られますよ」


「大丈夫だって」


 結構な量の醤油が追加された


「今かなり入りませんでした?」


「そう?」


「味見しましょうよ」


「完成してから食べれば分かるじゃない」


 その考え方は初めて聞いた


「失敗してから分かっても遅くないですか?」


「失敗する前提で言わないの」


 美冬さんは楽しそうに肉を返している


 見た目はいい


 焼き加減も悪くない


 あとは味だけだ


 それが一番重要なんだけど


         ◇


 十分後


 完成した生姜焼きがテーブルへ並んだ


 豚肉には艶があり、玉ねぎにも綺麗に色がついている


 キャベツの千切りまで添えられ、写真だけなら普通に店で出てきても違和感がない


「できた」


 美冬さんが得意そうに皿を俺の前へ置く


「どうぞ」


「いただきます」


 箸で豚肉を一枚取る


 口へ入れた


 噛む


「…………」


 濃い


 濃いという言葉では少し足りない


 生姜も甘みも全部、醤油に押し流されている


 俺は無言で水へ手を伸ばした


「慎太郎?」


 コップ一杯を半分ほど飲む


「どう?」


「美冬さん」


「うん」


「まず一口食べてもらっていいですか」


「慎太郎の感想が先」


「食べれば分かります」


「そんな言い方する?」


 美冬さんが不満そうに箸を取った


 自分の皿から肉を一枚摘まみ、口へ入れる


 二回ほど噛んだところで動きが止まった


 そのままコップへ手が伸びる


 水を飲む


 もう一度、皿を見る


「……しょっぱい」


「でしょうね」


「何で?」


「俺に聞きます?」


「ちゃんと作ったのに」


「最後に醤油足したじゃないですか」


「色薄かったから」


「味で決めてください!」


 美冬さんが箸を置く


「味見って大事なんだね」


「料理する人が今それを学ぶんですか?」


「完成する前に食べる発想なかった」


「その発想で今まで何食べてたんです?」


「外食とか、お惣菜とか」


 なるほど


 妙に説得力があった


 冷蔵庫にあった酒のつまみも、開ければそのまま食べられるものばかりだった気がする


「これ、どうしよう」


 美冬さんが生姜焼きを見ている


 さっきまでの自信は消えていた


「捨てるのはもったいないので、ちょっと貸してください」


「直せる?」


「たぶん」


 俺は皿を持ってキッチンへ戻った


 肉と玉ねぎを一度フライパンへ戻し、水を少し加えて味を薄める


 そのまま玉ねぎを足し、溶いた卵を流し込んだ


 調味料は入れない


 元の味が強すぎるから十分だ


「何作ってるの?」


 美冬さんが後ろから覗き込む


「救済です」


「料理名は?」


「生姜焼きだったものの卵とじ」


「悲しい名前つけないでよ」


「原因、美冬さんですよ」


「おいしくなる?」


「さっきよりは」


「信用ないなぁ」


「さっきのを作った人が言います?」


 黙った


 珍しく勝った気がする


 炊いてあったご飯へ卵とじを載せる


 味を確認してから、今度こそ二人分をテーブルへ置いた


「はい、どうぞ」


 美冬さんが恐る恐る一口食べる


 今度は水へ手が伸びない


 もう一口


「……おいしい」


「よかった」


「さっきのと同じ肉だよね?」


「かなり薄めましたから」


「慎太郎、料理できるんだね」


「一人暮らし長いですし、このくらいなら」


「毎日作れる?」


「毎日?」


 美冬さんが箸を持ったまま俺を見る


「ご飯」


「ああ」


 毎晩凝ったものは無理だ


 仕事で遅くなる日もある


 でも簡単なものなら作れるし、料理自体は嫌いじゃない


 何より、目の前にある元生姜焼きのことを考えると選択肢は少ない


「時間ある日は作れますよ」


「じゃあ料理、慎太郎担当ね」


「今決まりました?」


「適材適所」


「その言葉、会社以外でも使うんですね」


「だって私より上手だもん」


 そこは否定できない


 今日一日だけでもかなりの差がついた


「分かりました、料理は俺がやります」


「やった」


「ただし、美冬さんも作りたくなった時は作っていいですよ」


「ほんと?」


「味見してください」


「する」


「途中で」


「分かったって」


 返事だけはいい


 少し不安だけど、さっき自分で食べた以上、醤油を色だけで追加することはもうないと信じたい


 美冬さんは卵とじをもう一口食べ、満足そうに頷いた


「おいしい」


「それならよかったです」


「慎太郎」


「はい?」


「新しい家でもよろしくね、料理担当」


 新しい家


 その言葉を聞いて、昨日決めたばかりの2LDKが頭に浮かんだ


 まだ鍵もない


 引っ越しもこれからだ


 それなのに、そこで誰が夕食を作るのかだけは先に決まった


 料理担当、俺


 二人で暮らすための役割が、一つ増えた


カクヨムで先行連載しております

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