第3話 俺の部屋、本しかないんですけど
テーブルの上に、小さな箱が置かれていた
「……それ」
「うん」
美冬さんが箱を持ち上げる
昨日、緊急避妊薬を買いに行った時、薬局で一緒に買ってきたらしい
何なのか聞く必要はなかった
コンドームだ
「昨日みたいなのは駄目だからね」
「はい」
ここは俺も異論なしだった
初めてだったとか、酔っていたとか、そんなもので済ませていい話じゃない
朝に避妊できていなかったと聞いた時の血の気が引く感覚は、まだ残っている
「慎太郎も、それでいい?」
「もちろんです」
「ならよし」
美冬さんが箱を持ったまま立ち上がった
さっきまで俺の家へ明日行く話をしていたはずなのに、空気が急に変わる
「……美冬さん」
「なに?」
「今日も、するんですか?」
聞いてから、何を今さら確認しているんだと思った
美冬さんも同じことを思ったらしい
「嫌なの?」
「嫌じゃないです」
「じゃあ?」
「昨日と違って、今日は酒飲んでないんですよ」
「私も飲んでないよ」
「だから余計に緊張するんです!」
昨日は飲み会の帰りだった
森川に言われたことを引きずって、勢いで土下座までして、そのまま美冬さんの家へ来た
今夜は違う
頭ははっきりしている
美冬さんが目の前にいて、自分が何をしようとしているのかも分かっている
「慎太郎」
「はい」
「もう一回聞くね」
美冬さんが箱をテーブルへ戻し、俺の前まで来る
「今日は酔ってない」
「はい」
「昨日の続きだから、断りにくいとかもなし」
「はい」
「それでも私としたい?」
真正面から聞かれた
こういう時、この人は逃がしてくれない
昨日もそうだった
俺が勢いだけで言っているのか、誰でもいいのか、美冬さん自身がいいのか、何度も確認された
今日も同じだ
違うのは、俺の頭が完全に起きていることくらい
「……したいです」
口にすると一気に恥ずかしくなった
美冬さんが少し笑う
「じゃあ決まり」
「そこで仕事みたいに即決しないでください」
「慎太郎が答えたんでしょう?」
「そうですけど」
「あと今日はちゃんと使う」
美冬さんがもう一度箱を持つ
「はい」
「途中でも、嫌だったら言ってね」
「美冬さんもですよ」
「もちろん」
そこまで確認してから、美冬さんが俺の手を取った
昨日と同じ寝室へ向かう
昨日は引かれるままだった
今日は二歩目から、自分で歩いた
◇
目を開けると、部屋は暗かった
枕元の時計を見る
午前一時を少し回っている
隣では美冬さんが俺の腕へ頬を乗せ、目を閉じていた
昨夜ほど身体が重くない
回数が違うからだろう
そこまで考えて、余計なことを思い出しそうになったのでやめる
「……慎太郎?」
「起こしました?」
「ちょっと」
美冬さんが薄く目を開ける
「何時?」
「一時過ぎです」
「そっか」
そのまま俺の肩へ寄ってきた
「明日、慎太郎の家ね」
「覚えてたんですか」
「私が言ったんだけど」
「それはそうですけど」
眠そうなのに返事だけは早い
「漫画いっぱいあるんでしょ?」
「いっぱいどころじゃないですよ」
「楽しみ」
「期待するところですか?」
「慎太郎が何好きなのか見るの、楽しそうじゃない」
さらっと言われた
俺は返事をせず、天井を見る
昨日なら、ここでまた頭が混乱していたと思う
会社では営業部長
家では俺の隣で寝ている
しかも明日は俺の家へ来る
展開が速すぎるのは何も変わっていない
ただ、一つだけ昨日とは違った
今日は酒を飲んでいない
それでも俺は美冬さんの家へ戻ってきた
同じベッドへ入ることも、自分で選んだ
昨日一晩だけなら、酔った勢いだったと言い張れたかもしれない
でも二日目まで同じ言い訳はできない
「美冬さん」
「ん?」
「明日、俺の部屋見ても引かないでくださいね」
「そんなに?」
「ちょっと普通じゃない量です」
「本が?」
「はい」
「じゃあ見てから決める」
「何を?」
「引くかどうか」
「先に安心させてくださいよ」
美冬さんが小さく笑った
そのまままた目を閉じる
俺も布団を掛け直した
仮同棲
まだその言葉でいい
数日間一緒に暮らしてみるだけ
ただ、嫌々ここにいるわけではない
そこまで認めたら、少しだけ頭が楽になった
◇
翌朝
美冬さんのマンションを出て、電車で俺の自宅へ向かった
今日は二人とも休みだ
昨日持ってきた着替えだけなら数日で済むが、美冬さんは俺が普段どんな部屋で暮らしているのか見たいらしい
自宅マンションへ着き、エレベーターで上がる
玄関前まで来たところで、美冬さんが俺を見る
「慎太郎」
「はい」
「何で鍵開けないの?」
「心の準備を」
「自分の家で?」
「会社の人を入れたことないんですよ」
「私は?」
「会社の人でしょう」
「今も?」
答えに困った
上司なのは間違いない
それ以外が何なのか聞かれると、まだ名前がない
「……部屋見せます」
「逃げた」
「開けますよ」
鍵を回す
「どうぞ」
「お邪魔します」
美冬さんが玄関へ入り、靴を脱ぐ
そして顔を上げたところで動きが止まった
まあ、そうなる
廊下の壁際に本棚
リビングへ入っても本棚
テレビの横にも本棚
入り切らない漫画やライトノベルは収納ケースへ入れ、棚の上へ重ねてある
床へ投げ散らかしているわけではない
掃除もしている
ただし、本が多い
圧倒的に多い
「……慎太郎」
「はい」
「本屋?」
「違います」
「貸し漫画屋?」
「もっと違います」
美冬さんがゆっくり部屋を見回した
「何冊あるの?」
「ちゃんと数えたことないです」
「漫画だけで?」
「千冊は超えてると思います」
「漫画だけで?」
「はい」
「ラノベは?」
「別です」
美冬さんがもう一度本棚を見る
「すごいね」
「引きました?」
「量にはびっくりした」
やっぱりそこか
「でも綺麗にしてるじゃない」
「一応、場所は決めてます」
「これ、作者順?」
「棚によります」
「こっちは?」
「出版社とレーベルで分けてます」
「本屋じゃん」
「違いますって」
美冬さんが笑いながら、一つの棚の前へ移動する
手を伸ばしかけてから止めた
「これ触っていい?」
「はい」
そこを確認してくれるとは思わなかった
美冬さんが抜いたのは、十二巻で完結している異世界ファンタジーだった
表紙には鎧姿の女騎士が大きく描かれている
「これ好き?」
「かなり」
「面白い?」
「主人公が最初は弱いんですけど、旅しながら少しずつ――」
途中で止まった
美冬さんがこっちを見ている
「何で止めるの?」
「いや、興味ないのに説明したら迷惑かなと」
「聞いたの私だけど」
「じゃあ話しますよ?」
「どうぞ」
そこから三分ほど説明した
途中で長くなっていることに気づき、俺から切り上げる
美冬さんは笑ったり馬鹿にしたりせず、読み終えたあらすじをもう一度見ていた
「慎太郎、こういう時はよく喋るね」
「すみません」
「何で謝るの?」
「オタクが好きな話を始めると長いので」
「別にいいじゃない」
本が棚へ戻される
しかも抜いた場所へそのまま戻してくれた
「自分のお金で買って、ちゃんと片付けてるんでしょ?」
「はい」
「じゃあ趣味じゃない」
あっさりしていた
「もっと何か言われると思ってました」
「例えば?」
「こんなにいらないでしょ、とか」
「私は読まないから量の基準分からないし」
美冬さんが別の棚を見る
「でも捨てろとは言わないよ」
その一言には、ちょっと救われた
「ありがとうございます」
「そんな大事?」
「かなり」
「昨日私を選ぶ時より返事早くない?」
「比べないでください!」
「あ、図星?」
「違います!」
美冬さんが笑う
俺はメガネを押し上げながら、ソファへ腰を下ろした
少なくとも趣味を見られる第一関門は越えたらしい
「これ全部、持っていくの?」
美冬さんが収納ケースを指した
「どこへです?」
「私の家」
「無理でしょう」
即答した
美冬さんの1LDKを思い浮かべる
俺が昨日持っていったボストンバッグだけなら問題ない
でもここにある本棚とケースを持ち込めば、リビングがかなり狭くなる
「ですよね?」
「うん、無理」
「ですよね」
「慎太郎の家なら?」
今度は自分の部屋を見回す
一人なら十分だ
ベッドもあるし、クローゼットもある
ただ美冬さんの服、仕事道具、日用品まで持ってくるなら話が変わる
今でも収納のかなりの部分を本に使っている
「ここも厳しいですね」
「だよね」
美冬さんが隣へ座る
「仮同棲の間は私の家でいいとして」
「はい」
「もし、このまま続けるならどうする?」
昨日までなら、その言葉だけで慌てたと思う
今日は少し違った
美冬さんの家で二晩過ごした
一晩目は酒があった
二晩目は素面だった
仮同棲をやめたいかと聞かれれば、今のところ答えは違う
だからと言って、いきなり引っ越しを決める気にもならない
「……とりあえず、二人で住めそうな部屋がどんな感じか見るだけ見ます?」
自分から言ったら、美冬さんの目が少し大きくなった
「慎太郎から言うんだ」
「見るだけですよ」
「うん」
「まだ契約するとかじゃないですからね」
「分かってるって」
スマホを取り出し、二人で物件サイトを見る
条件は2LDK
今より少し広め
会社のある上野まで通いやすい場所
駅から遠すぎない
あとは家賃
金額の分担はまだ決めない
まず、現実にどんな物件があるのかを見るだけだ
「上野近いとやっぱ高いね」
「会社の人にも会いそうです」
「それはちょっと面倒」
美冬さんが路線図を指で動かす
「こっち側は?」
「京成線?」
「うん」
上野から東へ目を移していく
いくつか駅を見たところで、一つの地名が引っかかった
「青砥」
「ここ?」
「上野方面まで一本で出られますね」
東京都葛飾区
会社からは少し離れるが、通勤できない距離ではない
むしろ会社の人間と生活圏が被りにくいなら都合がいい
「2LDKも結構ある」
美冬さんが検索条件を絞る
表示された物件を二人で眺めていると、駅から徒歩五分の部屋が出てきた
築十年ほど
三階
洋室が二つ
LDKも今の俺の部屋より広い
「これ、良さそう」
「写真は綺麗ですね」
「収納もある」
「本棚置けるかな」
「慎太郎、最初にそこ見るの?」
「重要です」
「分かった分かった」
美冬さんが笑いながら詳細画面を開く
「内見できるみたい」
「いつです?」
「明日」
早い
俺は画面を見る
まだ契約するわけではない
実際に見て、狭ければやめればいい
仮同棲の続きをどうするか考える材料にはなる
そこまでなら、別におかしくない
「行きます?」
俺から聞いた
今度は美冬さんが一拍止まった
「行く」
「即答ですね」
「慎太郎から言ってくれたから」
そう言って、美冬さんが内見予約の画面を開く
十一時
青砥駅で待ち合わせ
予約完了の文字が表示された
「決まった」
「見るだけですからね」
「分かってるって」
何度目か分からない念押しをする
それでも、昨日までみたいに全部押し切られた感じはなかった
二日目の夜に美冬さんの手を取ったのは俺だ
今日、二人で住める部屋を見てみようと言ったのも俺だ
まだ何と呼べばいいのか分からない関係ではある
でも少なくとも、美冬さん一人に全部決めてもらっているわけじゃない
スマホには明日の予定が残っている
午前十一時
青砥
人生で初めて、誰かと住むための部屋を見に行くことになった
カクヨムで先行連載しております




