第三話 最初のダンス
【グレンヴィル伯爵邸・大広間入口/夜・開宴直後】
大広間の扉が開く。
華やかな音楽。
シャンデリアの灯り。
中央のダンスフロアでは、すでに何組もの男女が踊っている。
入口近く。
伯爵夫妻が招待客を迎えている列のそばで、深緑の瞳がリディアとノエルの繋いだ手に止まる。
栗色の髪を整えた青年が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
レオン
「リディア。来てくれて嬉しいよ」
リディア
「レオン……」
レオンは笑っている。
けれど、その視線がノエルの手へ落ちた瞬間だけ、笑顔が止まる。
オズワルド
「レオン。娘のリディアが、いつも世話になっている」
レオン
「いえ、こちらこそ。お会いできて嬉しいです」
リディアは何か言おうとする。
その前に、ノエルが穏やかに口を開いた。
ノエル
「レオン様。少しお時間をいただけますか」
レオン
「……もちろん」
ノエルはリディアの手を取ったまま、大広間の壁際へ歩く。
テラスへ続く硝子扉のそば。
客たちの声や音楽は聞こえるが、会話までは届かない距離。
レオンが二人の前に立つ。
ノエル
「本日は、グレンヴィル伯爵家のご招待に感謝しています」
レオン
「こちらこそ。急な話をしてしまったからね」
ノエル
「リディアとレオン様のご縁談についてですが」
リディアの肩が跳ねる。
ノエル
「父上から正式な返答を差し上げる前に」
「誤解のないよう、俺からお伝えしておきたくて」
ノエルは繋いだ手を、わずかに持ち上げる。
ノエル
「リディアは、俺の婚約者です」
リディア
「……ノエル」
レオンの深緑の瞳が、まっすぐリディアへ向く。
レオン
「それは本当かい? リディア」
リディアは息を呑む。
ノエルの指先が、手袋越しにそっと重なる。
【短い回想・一コマ】
――俺の婚約者として振る舞ってください。
現在へ戻る。
嘘を吐く罪悪感から、リディアは目をぎゅっと閉じる。
リディア
「……はい」
小さな声。
レオンはしばらく、リディアの顔を見ていた。
レオン
「……リディア。今の返事は」
一拍。
レオン
「君の言葉じゃないね」
リディアの目が見開かれる。
ノエルの紫の瞳が、すっと細くなる。
レオン
「――いや、失礼」
レオンは、いつもの柔らかな笑みを作る。
レオン
「婚約者殿の前で、無粋なことを言った」
ノエル
「グレンヴィル家のお気持ちを軽んじるつもりはありません」
「父上から、改めてご返答を差し上げます」
レオン
「そうしてもらおう」
ちょうど、楽団が次の曲を奏で始める。
レオンがリディアへ手を差し出す。
レオン
「では、最初の一曲をいただけますか?」
リディアが、思わずノエルを見る。
ノエルの紫の瞳が、一瞬だけ細められる。
けれどすぐに、穏やかな笑みが戻る。
ノエル
「もちろんです」
ノエルはレオンへ、軽く頭を下げる。
ノエル
「今夜はグレンヴィル家のお招きに預かっていますから」
リディアの手を離す。
ノエル
「楽しんできてください、姉上」
リディア
「……はい」
レオンの手を取る。
二人は大広間の中央、踊る人々の輪へ入っていく。
ノエルは硝子扉のそばに残る。
柱へ軽く背を預け、フロアの中央を見つめる。
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【大広間・中央ダンスフロア/レオンとのダンス】
レオンの手は、リディアの腰へ触れながらも、ノエルより少し距離を残している。
音楽に合わせ、一歩。
二歩。
レオン
「いきなりの求婚に驚かせてしまったかな」
リディア
「……ええ」
レオン
「そうだろうね」
少しだけ、沈黙。
レオン
「半年前、温室で言ったことを覚えている?」
リディア
「……もちろん」
レオン
「僕は、あれを冗談で言ったわけじゃない」
リディアの目が大きくなる。
レオン
「君との縁談を、本気で望んでいた」
リディア
「レオン……」
レオン
「だから、はっきり言っておくよ」
レオンの手に、わずかに力がこもる。
レオン
「僕は、この縁談を降りるつもりはない」
リディアの指先が、かすかに震える。
レオン
「昨日今日で決まったらしい婚約者殿には悪いけれど」
「僕が欲しいのは、アルヴェイン家の返事じゃない」
「君自身の言葉だ」
リディアは何も言えない。
リディア(心の声)
(もしかして……レオンは何か勘づいている?)
レオン
「今、答えなくていい」
「でもいつか、君自身の言葉で本当の気持ちを聞かせてほしい」
レオン
「誰かのためではなく」
「リディアが、どうしたいのかを」
曲が終わる。
レオンは、リディアの手をゆっくり離す。
レオン
「ありがとう」
リディア
「こちらこそ……」
レオンが一歩下がる。
その隣へ、ノエルが入れ替わるように立つ。
ノエル
「次は、俺と踊っていただけますよね。姉上」
リディア
「ノエル……」
レオンはノエルを見る。
ノエルは、礼儀正しく微笑んだ。
ノエル
「先ほどは譲っていただきましたので」
レオン
「……どうぞ」
リディアはノエルの手を取る。
ノエルの指が、少しだけ強く彼女の手を包む。
二人は再び、中央のダンスフロアへ進む。
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【大広間・中央ダンスフロア/ノエルとのダンス】
ノエルの手が、リディアの腰を支える。
一歩。
二歩。
リディアは、足元を見ようとする。
ノエル
「下を見ないでください」
リディア
「でも……」
ノエル
「俺を見て」
リディアが顔を上げる。
紫の瞳が、静かにこちらを見ている。
ノエル
「俺に合わせれば大丈夫です」
リディアは、言われるままノエルの動きに身を任せる。
気づけば、足が自然に音楽を追っていた。
ダンスフロア脇。
休憩用のテーブル席のそばで談笑していた令嬢たちが、こちらを見てひそひそと囁く。
令嬢A
「ご覧になって。アルヴェイン家のお二人よ」
令嬢B
「義理のご姉弟でしょう? あんなに親密でいらして……」
令嬢A
「先ほど、レオン様の前で『婚約者』と名乗られたそうよ」
令嬢B
「まあ……! では、グレンヴィル家との縁談は」
扇の陰で、囁きが波のように広がっていく。
リディアは、聞こえてしまった言葉に小さく目を伏せる。
リディア(心の声)
(噂になっている……)
(こんなに大勢の前で、嘘を重ねて)
(私、取り返しのつかないことをしているのではないかしら)
ノエル
「レオン様と、何をお話ししていたのですか」
リディア
「……縁談を、降りるつもりはないと言われたわ」
ノエルの表情が、一瞬だけ消える。
ノエル
「それで、姉上は何と?」
リディア
「……何も、答えられなかった」
短い沈黙。
ノエル
「……そうですか」
リディアが、ふとフロアの外へ視線を向ける。
硝子扉の近く。
先ほどまでノエルがいた場所に、今度はレオンが立っている。
リディア(心の声)
(催眠にかかったふりをした私が)
(ここで逆らったら、ノエルはどんな顔をするのだろう)
ノエル
「俺の腕の中にいる間は」
ノエルの手が、リディアの腰を少しだけ引き寄せる。
ノエル
「俺だけを見ていてください」
リディアの頬が熱くなる。
リディア
「……はい」
曲が終わりに近づく。
ノエルはリディアを導くように、ダンスフロアの端へ寄せていく。
窓際。
近くの休憩用テーブルからも、二人の姿がよく見える場所。
ノエルは、リディアの耳元へ口を寄せる。
ノエル
「婚約者らしく見せるためです」
リディア
「え……?」
ノエルは、ほんの少しだけ距離を取る。
紫の瞳が、まっすぐリディアを見る。
ノエル
「……頬に、口づけても?」
リディアは息を呑む。
ノエル
「嫌なら、やめます」
リディア(心の声)
(そんなふうに聞かれたら)
(嫌だなんて、言えるはずがない……)
リディア
「……嫌、ではないけれど」
ノエルのまなざしが、わずかに揺れる。
ノエル
「では、目を閉じてください」
リディアは戸惑いながら、そっと目を閉じる。
次の瞬間。
ノエルの唇が、リディアの頬へそっと触れた。
一拍の静寂。
令嬢A
「きゃあ……今の、見ました?」
令嬢B
「ノエル様が、あんなに甘いお顔をなさるなんて……」
貴婦人
「まあ。あんなに大切にされているのね」
リディアは、真っ赤になって固まる。
リディア(心の声)
(どうして皆、羨ましそうに見ているの?)
(私はただ、催眠にかかったふりをしているだけなのに……!)
少し離れた硝子扉のそば。
レオンの深緑の瞳が、頬を赤くしたリディアに向けられている。
笑ってはいない。
けれど、怒っているわけでもない。
レオンは静かに目を細めた。
曲が終わる。
ノエルは、すぐにはリディアを離さない。
そこへ、休憩用テーブルの近くにいた年配の貴婦人が歩み寄ってくる。
貴婦人
「リディア様とノエル様、素晴らしいダンスでしたわ」
ノエル
「ありがとうございます」
貴婦人は扇子で口元を隠す。
頬をわずかに染めながら、二人の手元を見る。
貴婦人
「その……もしかして、おふたりは」
「ご婚約なさったのですか?」
リディア
「それは……」
ノエルが、リディアの手を自分の腕へそっと添える。
ノエル
「ええ。まだ内々ではありますが」
貴婦人
「まあ……おめでとうございます」
「とてもお似合いですわ」
ノエル
「ありがとうございます」
ノエルは、リディアを見下ろす。
ノエル
「俺の大切な婚約者ですから」
リディアの心臓が、大きく鳴る。
リディア(心の声)
(どうして、そんな愛しげな目で言うの?)
(これは、ただの催眠術の確認でしょう……?)
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【大広間・夜会終盤/会場奥のテーブル席付近】
しばらく後。
曲が替わり、何組かの招待客が休憩用テーブルへ移っている。
帰り支度を始める者も、ちらほら見え始めた。
会場の奥。
伯爵夫妻や年配の貴族たちと談笑していたオズワルドが、ワイングラスを傾けながらこちらを見ている。
広間のざわめきと、盛り上がる声が響く。
オズワルドは何も言わない。
リディア(心の声)
(明日になったら、催眠が解けたことにしよう)
(レオンにも、きちんと謝る)
(これ以上、嘘を続けるわけにはいかない)
その時。
オズワルドが、人の輪を抜けてリディアとノエルの前へ来る。
オズワルド
「リディア。ノエル」
ノエルが、リディアの手を離さないまま父を見る。
オズワルド
「明朝、グレンヴィル伯爵家へ返書を出す」
「帰宅後、二人で書斎へ来なさい」
リディアの顔が青ざめる。
リディア(心の声)
(見られていた……)
(いったい、何て言われるか……)
ノエル
「承知しました、父上」
オズワルドは、それ以上何も言わない。
ただ一度だけ、繋がれた二人の手へ視線を落とす。
そして再び、伯爵夫妻のもとへ戻っていく。
リディア
「ノエル……どうするの? こんなことになってしまって」
ノエルは、リディアの手を包んだまま微笑む。
ノエル
「大丈夫ですよ」
「父上には、今夜のことをきちんとお伝えしましょう」
リディア
「……今夜のことを?」
ノエルの指が、リディアの手をやさしく絡め取る。
ノエル
「俺が姉上を、誰にも渡すつもりがないことを」
リディアの瞳が大きく揺れる。
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【大広間の隅/同時刻】
広間の隅。
レオンが、若い従者へ空のグラスを渡す。
レオン
「……一つ、頼まれてくれるかな」
従者
「はい」
レオンは、出口へ向かう二人の背を見つめている。
深緑の瞳は、もう笑っていない。
レオン
「ノエル・アルヴェインについて」
「調べられる限りのことを、調べてほしい」
従者
「……かしこまりました」
シャンデリアの灯りの下。
レオンは、静かにグラスの残りを飲み干す。
レオン(心の声)
(昨日まで口もきかなかった義姉弟が、一夜で婚約者、か)
レオン(心の声)
(……何かが、おかしい)
――第三話・了




