第7話 夜の音楽室から、知らない曲が聞こえる
誰もいないはずの音楽室から聞こえたピアノの音は、放課後の廊下をゆっくり歩いてきた。
ぽーん。
ひとつ目の音は、ためらうように弱かった。
ぽーん。
ふたつ目は、さっきより少し低い。
そして三つ目は、誰かを呼び止めるみたいに、長く、いつまでも消えなかった。
ぼくは七不思議クラブのノートを閉じた。
「今日は、もう帰ろう」
「まだ始まってもいないよ」
すずめは、当然のように言った。
「始まる前なら帰れるでしょ」
「帰れないね」
「どうして」
「部長が聞いちゃったから」
「音を聞いただけだよ」
「怪談ってのはね、気づかれると喜ぶんだ。ずっと誰にも気づいてもらえなかったやつほど、しつこくなる」
「今の説明、帰りたくなる要素しかなかったよ」
ひまりも、音楽室のある特別教室棟を見ながら顔をしかめている。
「音楽室って、普通に怖いよね」
「うん」
「昼間は平気なのに、放課後になると急に怖くなる。肖像画があるからかな」
「目が動くっていうよね」
「言わないでよ」
「朝倉さんが肖像画の話をしたんでしょ」
「私は、あるって言っただけ。目が動くとは言ってない」
「同じようなものじゃない?」
「違う。全然違う」
ひまりは自分で話を始めたくせに、本気で嫌そうだった。
人は、自分で怖い話を始めても、他の人から続きを言われると怒る。ぼくもそういうことがあるので、あまり責められない。
大地の机の下から、小鬼が顔だけ出した。
「おれ、行かない」
「山岸くんのところにいるんじゃなかったの?」
ぼくが聞くと、小鬼は机の脚にしがみついた。
「いる。だから行かない。ここ守る」
「何から?」
「泥棒」
「昨日まで、きみが泥棒だったよね」
「昨日の話をいつまで言うんだ!」
小鬼は怒ったが、音楽室からもう一度ピアノが鳴ると、すぐ机の下へ引っこんだ。
「小鬼でも怖いんだ」
ひまりが言う。
机の下から声が返ってくる。
「怖くない! 大地の机から離れられないだけだ!」
「大地、もう帰ったけど」
「……留守を守ってる!」
少し間があった。
たぶん、怖いのだと思う。
すずめはあきれたように肩をすくめ、特別教室棟の方へ進み始めた。
「ほら、行くよ」
「ぼく、ランドセル重いから、一度教室に置いてきていい?」
「逃げる気だろ」
「半分くらいは」
「正直でよろしい。持ったまま来な」
「正直に言ったのに」
「正直なら、何でも許されると思ったら大間違いだよ」
昨日は本当のことを言えと言っていたのに、今日はこれだ。
座敷わらしは、その日の都合で正しいことを変えるらしい。
ぼくとひまりは仕方なく、すずめのあとを追った。
特別教室棟へ向かう渡り廊下には、夕方の光が斜めに差しこんでいた。窓の外では、運動部の声がまだ聞こえている。教室へ戻れば、小鬼が大地の机を守っている。女子トイレには花子さんもいる。
怪談がいることを知る前よりも、学校の中がにぎやかになった。
でも、安心できるかというと、そうでもない。
どこに何がいるか分からないという意味では、前よりずっと怖い。
「ねえ、森野」
ひまりが歩きながら言った。
「何?」
「音楽室の怪談って、どんなのがある?」
「聞きたいの?」
「聞きたくないけど、知らない方が怖い」
「知った方が怖くなるかもしれないよ」
「じゃあ、怖すぎないやつだけ」
「そんな選び方できないよ」
ぼくは、知っている話を思い出した。
「夜になるとピアノが勝手に鳴るとか、肖像画の目が動くとか、ベートーベンの髪が一本ずつ増えるとか」
「最後だけ変じゃない?」
「学校によって違うみたい」
「髪が増えるなら、ちょっといい怪談じゃない?」
「誰にとって?」
「ベートーベンにとって」
「本人が気にしてたか分からないよ」
すずめが振り返った。
「人の髪を勝手に心配するんじゃないよ」
「すずめ、ベートーベン知ってるの?」
ひまりにはすずめの姿はまだぼんやりとしか見えていないらしい。声は近くにいる時だけ聞こえるようになったようで、何もない空間に向かって話しかけている。
「知ってるよ。いつも音楽室の壁にいる」
「それは肖像画でしょ」
「肖像画も本人みたいなもんだ」
「本人ではないと思う」
「細かい子だねぇ」
すずめは、ひまりまで細かい子にしてしまった。
音楽室に近づくにつれ、ピアノの音ははっきりしてきた。
曲には聞こえない。
ぽん。
ぽ、ぽん。
ぽーん。
ばらばらの音が、少し間を置きながら鳴っている。
「下手なのかな」
ひまりが小声で言った。
「怪談に聞こえたら怒るよ」
「でも、曲じゃないよね」
「練習中かもしれない」
「怪談が?」
「怪談だって練習するかも」
怖さをごまかすために話しているうちに、音楽室の前へ着いた。
扉には鍵がかかっている。
中の電気も消えていた。
なのに、ピアノだけが鳴っている。
ぽん。
ぼくたちは同時に肩を震わせた。
「鍵、かかってるよ」
ぼくは言った。
「よかった。入れないね」
ひまりが少し安心した顔をする。
すずめは扉をすり抜けようとした。
「中から開けてくる」
「待って」
「何」
「開けなくていい」
「調べに来たんだろ」
「鍵がかかっているところへ勝手に入ったら怒られるよ」
「怪談に会うより、先生に怒られる方を気にするの?」
「どっちも嫌だけど、先生には明日も会うから」
そのとき、廊下の反対側から声がした。
「開けられるよ」
ぼくたちは驚いて振り向いた。
窓の下に、一人の男子がしゃがんでいた。
いつからいたのか分からない。
黒い髪はきちんと短く切られている。
制服ではなく、ぼくたちと同じ私服だ。
膝の上には小さなタブレット端末があり、音楽室の扉へ向けて録音している。
見覚えはあった。
四月の途中で転校してきた、黒川レンだ。
同じクラスなのに、ほとんど話したことはない。
レンは休み時間になると本を読んでいるか、タブレットに何かを書いている。話しかけられれば返事はするけれど、返し方が少し冷たい。
前に高坂くんが「黒川って前の学校で何してたの」と聞いたら、レンは「普通に生活していた」と答えた。
間違ってはいない。
でも、高坂くんはそれ以上何も聞けなくなっていた。
「黒川くん」
ひまりが言った。
「何してるの?」
「見れば分かると思うけど、録音」
「何を?」
「音を」
「それは見れば分かるよ。どうして録音してるの?」
「原因を調べるため」
レンはタブレットの画面を見たまま答える。
人の顔を見ずに話すので、怒っているようにも、面倒がっているようにも聞こえる。
「音楽室のピアノ、誰もいないのに鳴ってるんだよ」
ひまりが言う。
「知ってる」
「怖くないの?」
「別に」
「出たよ、別に」
ひまりがぼくを見る。
「何が」
「怖い人って、すぐ別にって言うよね」
「僕が怖がっていると言いたいの?」
レンが初めて顔を上げた。
まっすぐ見られると、ひまりは少し言葉に詰まった。
「そうとは言ってないけど」
「今、ほとんど言っていた」
「でも、本当に怖くないなら、別にって言わなくてもいいじゃん」
「怖くないから怖くないと説明する必要がない」
「説明、めちゃくちゃしてるじゃん」
二人の間の空気が、急にとげとげしくなった。
ぼくは、どうして人は出会って一分くらいで相手を嫌な気分にできるんだろうと思った。
ひまりは悪気なく聞いただけだ。
レンも、たぶん普通に答えただけだ。
なのに、もう二人とも少し腹を立てている。
「黒川くんは、誰かが中で弾いてると思ってるの?」
ぼくが間に入って聞いた。
「その可能性が一番高い」
「鍵、かかってるよ」
「予備の鍵を使ったかもしれない。入ったあと中から鍵をかけた可能性もある。音楽準備室には別の出入口があるかもしれない」
「あるの?」
「知らない。だから調べる」
「知らないのに、怪談じゃないって決めるの?」
ひまりが言った。
レンは少しだけ眉を寄せる。
「怪談だと決めるよりはましだと思う」
「私たち、見たことあるから」
「何を」
「花子さんと小鬼」
「昨日、女子トイレで騒いでいたのは君たち?」
ぼくとひまりは顔を見合わせた。
「聞こえてたの?」
「教室で噂になっている。朝倉さんが女子トイレで幽霊と話したとか、森野くんが誰もいない廊下で一人で謝っていたとか」
「混ざってる」
ぼくは頭を抱えたくなった。
学校の噂は、怪談より速い。
「花子さんは本当にいるよ」
ひまりが言った。
「プリンを盗んだ小鬼もいる」
「証拠は?」
「証拠って言われても」
「写真は?」
「撮ってない」
「他に見た人は?」
「森野と私と、大地」
「山岸くんに聞けば確認できる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「大地、あまり話したがらないと思う」
レンは小さくため息をついた。
「それなら、今のところ確認できない話だね」
「黒川くんって、嫌な言い方するね」
ひまりが言った。
「事実を言っただけ」
「事実なら、どんな言い方でもいいわけじゃないよ」
「朝倉さんこそ、僕が怖がっていると決めつけた」
「それは……」
ひまりは口を閉じる。
少し考えてから、ぶっきらぼうに言った。
「そこは、ごめん」
レンは意外そうな顔をした。
「謝るんだ」
「悪かったら謝るよ。黒川くんも謝れば」
「僕は何を?」
「嫌な言い方したこと」
「事実を説明しただけだけど」
「ほら、そういうところ!」
また始まってしまった。
すずめは、二人を見比べながら楽しそうに笑っている。
「面白いのが増えたねぇ」
「増やさなくていいよ」
ぼくが小声で言うと、レンがこちらを見る。
「森野くん、さっきから誰と話しているの?」
「えっと」
「一人で返事をしている」
「これは、その」
「すずめ」
ひまりが先に答えた。
「座敷わらし」
「朝倉さん」
「もう隠してもしょうがないでしょ」
レンはぼくの横を見た。
そこには、すずめがいる。
もちろんレンには見えていない。
「座敷わらしが、そこに?」
「うん」
ぼくが答えると、レンは笑わなかった。
馬鹿にもしなかった。
ただタブレットを持ち直し、ぼくの横へ近づいた。
「どの位置?」
「ぼくの右側」
「高さは?」
「ぼくより少し低い」
「服装は?」
「赤い着物」
「おい、勝手に調べるんじゃないよ」
すずめがレンの鼻を指で押そうとする。指はすり抜けた。
レンは何も感じないようだった。
「声は聞こえる?」
「今は聞こえないと思う」
「朝倉さんには?」
「近くにいると、たまに聞こえる」
「見える?」
「ぼんやり。赤い服の子がいるかな、くらい」
ひまりは、すずめがいるあたりに目を細めた。
レンはタブレットに何かを入力する。
「何を書いてるの?」
「観察記録」
「信じるの?」
「信じてはいない。ただ、二人が同じ内容を話していることは記録できる」
「変なの」
「朝倉さんに言われたくない」
「またそういう言い方」
レンは返事をせず、音楽室の扉へ向かった。
「鍵を開けるよ」
「どうやって?」
レンはポケットから小さな鍵を出した。
「音楽委員の先生に借りた」
「勝手に?」
「ピアノの音を調べたいと言ったら貸してくれた」
「信じてもらえたの?」
「窓が開いていて、風で何かが動いている可能性があると説明した」
「怪談を調べたいとは言わなかったんだ」
「言ったら貸してもらえないと思う」
レンは鍵穴に鍵を差しこんだ。
かちゃり、と音がする。
ぼくの背中に冷たいものが走った。
「本当に入るの?」
「ここまで来て、入らない理由がある?」
「怖い」
「森野くんは、怖いと普通に言うんだね」
「うん。怖いから」
レンは、ぼくをじっと見た。
馬鹿にされるかと思った。
でも、レンは少しだけ目をそらし、
「そう」
とだけ言った。
扉が開く。
音楽室の中には、夕方の薄暗い光が残っていた。
窓は閉まっている。
カーテンも動いていない。
椅子はきちんと机の下に入っている。
壁には、作曲家たちの肖像画が並んでいた。
バッハ。
モーツァルト。
ベートーベン。
全員が、入ってきたぼくたちを見ているような気がした。
「肖像画の目、動いてない?」
ひまりが小声で言う。
「動いてない」
レンが即答する。
「ちゃんと見た?」
「静止画だから、動かない」
「怪談なら動くかもしれないでしょ」
「もし動いたら記録する」
「黒川くん、怖さより記録が先なんだ」
「何かを怖がる時も、正体が分かった方がいい」
レンはタブレットの録音画面を開き、音楽室の中央へ進む。
ぼくとひまりは、ほとんど同時に一歩下がった。
「二人とも来ないの?」
「入口を守る」
ひまりが言った。
「何から?」
「急にドアが閉まらないように」
「合理的ではあるね」
「今、ちょっと馬鹿にした?」
「していない」
「してる顔だった」
「顔まで決めつけないでほしい」
レンとひまりは、話すたびに少しずつ相性が悪くなっている気がする。
すずめだけが、すたすたとピアノへ向かった。
音楽室の奥に、黒いグランドピアノが置かれている。
ふたは閉じていた。
椅子にも誰も座っていない。
それでも。
ぽん。
鍵盤が一つ、沈んだ。
ぼくの足もとから、ぞわっと寒さが上がってくる。
ひまりが、ぼくの腕をつかんだ。
「今、押した?」
「押してない」
「すずめ?」
「すずめはピアノの横にいる」
すずめが振り返る。
「あたしじゃないよ」
レンはピアノへ近づいた。
「近づくの?」
「鍵盤が動いた原因を確認する」
「急に手が出たらどうするの」
ひまりが聞く。
「急に手が出る根拠がない」
「怪談に根拠を求めないでよ」
「何を求めればいいの?」
「雰囲気」
「一番信用できない」
レンがピアノの鍵盤をのぞきこむ。
次の瞬間、別の鍵盤が沈んだ。
ぽん。
レンの顔のすぐ近くで音が鳴る。
さすがのレンも、肩をわずかに震わせた。
「今、怖かった?」
ひまりが聞く。
「驚いただけ」
「似たようなものじゃない?」
「違う」
レンはすぐに答えたが、さっきより声が少し硬かった。
すずめがピアノの上へ飛び乗る。
「こいつ、曲を弾いてるんじゃないね」
「じゃあ、何?」
「名前」
ぼくはノートに浮かんだ言葉を思い出した。
死んだ子の名前を弾くピアノ。
「音で名前なんて分かるの?」
ひまりが聞いた。
「一つの音を一文字にしたり、音の高さで言葉を作ったりするんだよ。怪談は、普通のやり方で話すとは限らない」
「すずめは普通にしゃべるけど」
「あたしは賢いからね」
「口が悪いだけじゃない?」
「聞こえてるよ」
そのとき、ピアノが鳴り始めた。
さっきまでのように、一音ずつではない。
ぽん、ぽぽん。
ぽーん。
ぽん、ぽん。
短い音と長い音が、同じ形を繰り返す。
レンが急いで録音画面を確認した。
「同じ並びだ」
「何の?」
「さっき廊下で鳴っていた音。間隔も同じ」
また繰り返す。
ぽん、ぽぽん。
ぽーん。
ぽん、ぽん。
ぼくには、ただの音にしか聞こえない。
でも、レンの顔色が少しずつ変わっていった。
「黒川くん?」
ひまりが呼ぶ。
レンは答えない。
タブレットの画面とピアノを何度も見比べている。
「どうしたの」
ぼくが聞くと、レンはようやく顔を上げた。
いつも冷たく見える目が、今ははっきり揺れていた。
「このリズム」
「分かるの?」
「前の学校で、友だちが作った」
「何を?」
レンは答えようとして、一度口を閉じた。
ピアノが、もう一度同じ音を鳴らす。
ぽん、ぽぽん。
ぽーん。
ぽん、ぽん。
レンはピアノから一歩下がった。
「僕の名前だ」
ひまりが息をのむ。
「黒川レンってこと?」
「違う」
レンは、真っ青な顔で首を振った。
「前の学校で、僕を呼ぶ時だけ使っていたリズムだ。知っているのは、僕と――」
その先を言う前に、ピアノのふたが勢いよく開いた。
ばん、と大きな音が音楽室に響く。
壁に並んだ肖像画が、一斉にこちらを向いたように見えた。
そしてベートーベンの肖像画の口元が、ゆっくり動いた。
「やっと来たか」
低い声が、音楽室の壁を震わせた。
「名前を捨てようとしている子どもよ」




