第5話 机の下の小鬼
大地の机の下から伸びた赤い手は、空っぽのプリンカップを持ったまま、しばらく動かなかった。
指は四本しかない。
一本足りないのではなく、最初から四本でできているように見えた。爪は小さくて、先だけ黒い。人間の手よりずっと細いのに、プリンカップを落とさないよう、しっかりつかんでいる。
ぼくも、ひまりも、声を出せなかった。
教室では、まだみんながプリンの犯人について話している。食器を返す音もする。牛乳パックをたたむ音も聞こえる。
なのに、大地の机の周りだけが、教室から切り離されたみたいに静かだった。
すずめが、そっと人差し指を唇に当てる。
「騒ぐなよ。あれ、逃げ足は速いから」
「どうすればいいの」
ぼくも声を落とした。
「つかまえる」
「誰が?」
「部長」
「聞くんじゃなかった」
ひまりが、ぼくの袖を引いた。
「何て言ってるの?」
「つかまえろって」
「誰が?」
「ぼく」
「無理でしょ」
「もう少し考えてから言ってくれてもよくない?」
「だって無理じゃん。あの手、赤いんだよ。しかも四本だよ。私は無理」
「ぼくだって無理だよ」
「でも部長なんでしょ?」
「朝倉さんまでそれ言うの?」
ひまりは少し困った顔になった。
「だって、昨日からずっと部長って呼ばれてるし」
「名前を書いただけなんだよ」
「書かなきゃよかったのに」
「それは、ぼくが一番思ってる」
ぼくたちが小声で言い合っている間に、赤い手がプリンカップを机の下へ引っこめ始めた。
すずめが言う。
「ほら、逃げるよ」
「待って」
ぼくは反射的に手を伸ばした。
プリンカップのふちを、ぎりぎりでつかむ。
机の下の何かも、反対側からカップを引っ張った。
「うわ」
思ったより力が強い。
空のカップが、べこっとへこんだ。
「森野、引っ張って!」
「引っ張ってる!」
「もっと!」
「朝倉さんも手伝ってよ!」
「私は見張り!」
「今、何を見張ってるの!」
「誰か来ないか!」
「教室にみんないるよ!」
ぼくとひまりの声が、思ったより大きくなった。
近くにいた子が振り向く。
「森野たち、何してんの?」
「落とし物!」
ひまりが即座に答えた。
「机の下で?」
「机の下に落ちたの!」
「何が?」
「えっと……」
ひまりはぼくを見た。
ぼくも分からない。
まさか、四本指の赤い手がつかんでいるプリンカップです、とは言えない。
「消しゴム」
ぼくが言った。
「森野、消しゴム手に持ってるじゃん」
言われて、自分の左手を見た。
本当に持っていた。
給食前の算数で使ったまま、なぜかポケットに入れず握っていたらしい。
「二個目」
「消しゴム二個持ってるの?」
「今日は」
「今日だけ?」
「たまたま」
その子は納得していない顔をしたけれど、友だちに呼ばれて離れていった。
ぼくはほっとした。
その瞬間、プリンカップが強く引かれた。
「わっ!」
手からカップが抜ける。
ぼくは勢い余って、大地の机に額をぶつけた。
ごん、と鈍い音がした。
「痛っ……」
「森野、大丈夫?」
「たぶん、大丈夫じゃない」
「おでこ赤い」
「赤い手につかまれてないだけ、ましかな」
「比べるところが怖いよ」
ひまりが心配そうにぼくの額を見ている横で、すずめは机の下へ顔を入れた。
「あーあ。奥に逃げた」
「机の下に奥なんてある?」
「怪異のいる場所にはあるんだよ。人間が見てる広さと、あっち側の広さは違う」
「そういう大事なこと、もう少し早く教えて」
「聞かれなかったから」
「すずめって、本当に説明が足りないよね」
「説明ばっかりしてたら、話が進まないだろ」
もっともらしく言われた。
でも、すずめの場合は面倒だから省いているだけだと思う。
教室の前では、吉田先生が戻ってきていた。
先生の隣には大地がいる。
大地は、さっきより少しだけ落ち着いたように見えた。ただし、顔はまだ固い。誰とも目を合わせず、自分の席まで歩いてくる。
ぼくとひまりが机の横にいたので、大地は足を止めた。
「何してんの」
「えっと」
「机の下、見てた」
ひまりが正直に言った。
「何で」
「何かいるから」
「朝倉さん」
ぼくは慌てて止めた。
でも、もう遅い。
大地は、嫌そうに眉を寄せた。
「何かって何だよ」
「まだ分かんない」
「おれの机だから、何かいるって?」
「そういう言い方してないじゃん」
「同じだろ」
「同じじゃないよ。私たち、プリンの犯人を探してて」
大地の顔が変わった。
「やっぱり、おれを疑ってんのか」
「違う!」
「じゃあ、何でおれの机の下なんだよ」
大地の声は大きくなかった。
でも、怒鳴られるより嫌な感じがした。
教室のあちこちから、また視線が集まる。
大地はそれに気づくと、さらに顔をこわばらせた。
「もういい。どけよ」
「山岸くん」
ぼくは、思わず声をかけた。
「何」
「プリン、山岸くんじゃないと思う」
大地は、ぼくを見た。
「思うって何だよ。見たわけじゃないだろ」
「見た」
「え?」
「小さい手が、空のカップを持ってた」
言ってから、教室の中が妙に静かになった気がした。
実際には、給食の片づけの音が続いている。
でも、ぼくの周りだけ、音が遠くなった。
大地は、しばらく何も言わなかった。
それから、すごくゆっくり言った。
「森野、おまえさ」
「うん」
「おれをかばおうとして、変な嘘ついてんの?」
「嘘じゃない」
「小さい手って何だよ」
「赤くて、指が四本で」
「もういい」
大地は椅子を引いた。
ぼくたちを押しのけるようにして席に座る。
「おまえらまで、ふざけんなよ」
「ふざけてないよ」
ひまりが言った。
「昨日、私たち本当に変なの見てるから」
「変なのって何」
「それは……女子トイレの花子さん」
「朝倉さん、それ言っていいの?」
「もう今さらでしょ」
大地は、ぼくとひまりを交互に見た。
そして、鼻で笑った。
「仲良しで楽しそうだな」
その言葉は、ぼくが思っていたより刺さった。
大地は、たぶん、ぼくたちを本気でうらやましがったわけではない。腹が立ったから、適当に嫌なことを言っただけだ。
それでも、ひまりは気まずそうにぼくから少し離れた。
ぼくも、何となく大地の机から手を放した。
「先生には、おれじゃないって言ったから。もう放っとけよ」
大地はそう言って、机の中へ給食袋を押し込んだ。
すると、机の奥で何かが小さく鳴いた。
「きゅっ」
大地の手が止まる。
「今の何」
ひまりが聞いた。
「知らない」
「机の中から聞こえたよ」
「消しゴムだろ」
「消しゴムは鳴かないよ」
「おまえらが何か入れたんじゃないの」
大地は机の中を探った。
教科書。
ノート。
筆箱。
くしゃくしゃになったプリント。
大地がそれらを次々と机の上に出していく。
最後に、空になったプリンカップが転がり出た。
教室の空気が止まった。
大地の顔も止まった。
「……何で」
誰かが言った。
「やっぱり大地じゃん」
大地は立ち上がった。
「違う!」
「でも机の中に入ってるし」
「知らねえよ! こんなの、今初めて見た!」
「山岸くん、落ち着いて」
吉田先生が近づいてくる。
大地は机の上のプリンカップをつかむと、床にたたきつけそうになった。
でも、ぎりぎりで止めた。
腕が震えている。
「おれじゃない」
さっきより小さな声だった。
「本当に、おれじゃない」
その声を聞いたら、胸の中がざわざわした。
怒っているだけじゃない。
大地は、傷ついている。
信じてもらえないことに怒っている。
でも、怒れば怒るほど、まわりには怪しく見える。
自分でどうしたらいいか分からなくなっている顔だった。
「山岸くん」
吉田先生は、大地の近くまで来た。
「先生は、決めつけません」
「でも、みんな決めつけてる」
「みんなに決めつけないよう話します」
「今さら言っても、そう思ってんだろ」
「先生は――」
「もういい」
大地は先生の横を通り抜け、教室を出ていった。
今度は、扉を乱暴に閉めなかった。
それが余計につらそうだった。
吉田先生は追いかけようとしたが、別の先生が給食室から呼びに来た。食器の数が合わないらしい。
先生は迷った末、学級委員に教室を頼み、廊下へ出ていった。
教室の中には、気まずい空気だけが残った。
「誰かが大地の机に入れたんじゃない?」
ひまりが言った。
「でも誰が?」
「知らないよ。だから調べるんでしょ」
「朝倉、探偵みたい」
「からかわないで」
ひまりは、さっき大地を疑う言葉を口にした男子をにらんだ。
男子は目をそらす。
すずめが、大地の机の下へしゃがみこんだ。
「出ておいで」
返事はない。
「もう見つかってるよ。隠れても無駄」
机の下の影が、もぞりと動いた。
すずめは腕を伸ばし、影の中へ手を突っ込んだ。
「よいしょ」
「よいしょで出せるの?」
「小さいからね」
すずめが何かを引っ張る。
最初に赤い手が出た。
次に、丸い頭。
それから、小さな角。
出てきたのは、ぼくの膝よりも小さな生き物だった。
全身は赤茶色。
頭には、短い角が二本。
腰には、ぼろぼろの布を巻いている。
顔は鬼みたいなのに、目だけはびっくりするほど丸い。
口の周りには、プリンがべったりついていた。
「いた」
ひまりが言った。
「見えるの?」
「今、見えた」
ひまりは自分で驚いたように目をこすった。
「何これ。小さい鬼?」
「小鬼だね」
すずめが、小鬼の首の後ろをつまんでいる。
猫を持つみたいな持ち方だった。
小鬼は空中で手足をばたつかせた。
「はなせ! はなせ!」
「しゃべった!」
ひまりが一歩下がる。
「そりゃしゃべるよ。小鬼だから」
「小鬼ってしゃべるの?」
「しゃべる小鬼もいるし、しゃべらない小鬼もいる。こいつは、よくしゃべる方だね」
「勝手に決めるな!」
小鬼が怒鳴った。
声は高い。
体が小さいせいか、怒っていても少しだけかわいい。
「プリン盗んだの、あんた?」
ひまりが聞く。
小鬼は顔をそらした。
「しらない」
「口にプリンついてるよ」
「これは、べつのプリンだ」
「別のプリン、どこで食べたの?」
「……きのう」
「今日は?」
「食べてない」
「空のカップ持ってたでしょ」
「あれは拾った!」
「歯形もついてた」
「あれは……」
小鬼はしばらく黙った。
それから、すごく小さな声で言った。
「ふたが、かたかった」
ひまりが、ぼくを見た。
「犯人だね」
「うん」
「犯人じゃない!」
小鬼は叫んだ。
「プリンが、おれを呼んだ!」
「プリンは呼ばないよ」
「呼んだ! 食べて、食べてって!」
「お腹が空いてただけでしょ」
「ちがう!」
小鬼は暴れた。
すずめの手から逃げようとするが、首の後ろをつままれているので、手足が空をかくだけだった。
「おれが食べたんじゃない! こいつが食べたかったんだ!」
小鬼が、大地の机を指さした。
ぼくたちは黙った。
「こいつって、山岸くん?」
小鬼はうなずいた。
「こいつ、ずっと食べたかった。食べたいのに、食べちゃだめだと思ってた。だから、おれが食べてやった!」
「何で食べちゃだめだと思ってたの?」
ひまりが聞く。
小鬼は口を閉じた。
さっきまで大声で言い返していたのに、急に黙りこむ。
すずめが、小鬼を床へ下ろした。
「こいつらはね、お腹が空いてる子や、寂しい子のところへ寄ってくるんだよ」
「どっちなの?」
ぼくが聞く。
「両方」
すずめは大地の机を見た。
「本当に腹が減ってる時もある。でも、人間のお腹ってのは、食べ物だけで空くわけじゃない」
「どういう意味?」
「自分だけ我慢してるとか、誰にも言えないとか、そういうのがたまると、腹の中に穴が開く。小鬼は、その穴から入ってくる」
小鬼が、机の脚に背中をつけて座った。
「こいつ、いつも言ってる」
「何を?」
「おれが我慢すればいいって」
ぼくは、大地が教室を出ていった扉を見た。
大地が何を我慢しているのか、ぼくは知らない。
給食をたくさん食べること。
からかわれても笑うこと。
プリンを食べたかったのに、列から離れたこと。
知らないことばかりだ。
「山岸くんに、聞かないと」
ぼくが言うと、ひまりはうなずいた。
「探そう」
小鬼が、びくっと顔を上げた。
「だめだ!」
「何で?」
「あいつに言うな! おれのこと言ったら、あいつ怒る!」
「もう怒ってるよ」
「もっと怒る!」
「でも、山岸くんが疑われたままになる」
「知らない!」
小鬼は大地の机の下へ逃げこもうとした。
すずめが着物の襟をつかむ。
「逃げるな」
「はなせ!」
「プリン一個なら、ただのいたずらで済んだ。でも、このまま大地の気持ちにくっついてたら、あんたはもっと腹を空かせる」
「食べればいい!」
「そのうち、食べ物じゃ足りなくなるよ」
すずめの声が低くなった。
小鬼は動きを止めた。
「消しゴム。鉛筆。誰かの大事なもの。それでも足りなくなったら、次は気持ちを食べる」
小鬼の丸い目が揺れた。
悪いことをしようとしていた顔には見えなかった。
ただ、お腹が空いて、どうしたらいいか分からない子どもの顔に見えた。
「おれ、そんなことしない」
「今はね」
すずめは、小鬼から手を離した。
「でも、腹が空くと、自分でも自分が分からなくなる」
小鬼は膝を抱えた。
しばらく黙ってから、ぼくを見上げる。
「あいつに、言うのか」
「うん」
「おれのことも?」
「それは……」
ぼくは少し迷った。
大地は、怪談を信じないかもしれない。
小鬼のことを言ったら、また変な嘘だと思われるかもしれない。
でも、言わないままでは、何も変わらない。
「見てもらった方がいいと思う」
「見えなかったら?」
「見えるようにする」
「どうやって?」
「分からない」
「分かんないのかよ!」
「ぼくも、昨日から急に部長になったばかりだから」
小鬼は、ぽかんとした。
それから、すずめを見る。
「こんなのが部長なのか」
「こんなのだから部長なんだよ」
すずめが答える。
「それ、どういう意味?」
ぼくが聞いても、すずめは笑うだけだった。
その日の放課後、ぼくたちは大地を探した。
教室にはいない。
昇降口にもいない。
校庭にもいない。
「もう帰ったのかな」
ひまりが言った。
「ランドセル、教室にある」
「じゃあ、どこ?」
すずめが鼻をひくつかせた。
「こっち」
「匂いで分かるの?」
「小鬼の匂いが残ってる」
「どんな匂い?」
「甘い匂いと、泣くのを我慢してる匂い」
「後ろの方、匂いなの?」
「怪異には分かる」
すずめは旧校舎へ向かう階段を上っていく。
ぼくとひまりは顔を見合わせた。
「また旧校舎?」
ひまりが嫌そうに言う。
「ぼくに聞かないで」
「でも部長でしょ」
「今日、みんなそればっかり」
階段を上りきると、誰も使っていない空き教室の前に着いた。
中から、物音がする。
「山岸くん?」
ひまりが呼びかけた。
返事はない。
ぼくが扉に手をかける。
鍵は開いていた。
ゆっくり扉を開くと、大地が窓ぎわに座っていた。
膝を抱えて、外を見ている。
「何しに来た」
ぼくたちの方を見ずに、大地が言った。
「話があって」
「おれはない」
「プリンのこと」
「帰れよ」
「山岸くんじゃないって、分かった」
大地の肩がわずかに動いた。
でも、振り向かない。
「先生に言えば」
「言う。でも、その前に山岸くんに聞きたい」
「何を」
ぼくは、小鬼を見た。
小鬼はぼくのランドセルの後ろに隠れている。
さっきまで偉そうに怒鳴っていたのに、今は大地を怖がっているみたいだった。
「プリン、食べたかった?」
大地が振り向いた。
顔が、また怒った形になる。
「それ聞くために来たの?」
「違う。いや、違わないけど」
「おれが食べたかったから、盗んだって言いたいんだろ」
「盗んだのは山岸くんじゃない」
「じゃあ誰だよ」
ぼくは大地の前に立った。
「小鬼」
空き教室に沈黙が落ちた。
大地は、ぼくの顔をじっと見た。
「帰れ」
「本当にいる」
「おまえ、馬鹿にしてんのか」
「してない」
「小鬼がプリン盗んだ? そんな話、誰が信じるんだよ!」
大地が立ち上がった。
体が大きいので、ぼくよりずっと高く見える。
怖かった。
怒った大地も怖い。
大地の後ろにある暗い窓も怖い。
ぼくのランドセルに隠れている小鬼も、少し怖い。
でも、ここで帰ったら、大地はずっと一人で怒ったままだ。
「信じなくてもいい」
ぼくは言った。
「じゃあ何で来たんだよ!」
「山岸くんが、何を我慢してるのか聞きに来た」
大地の顔から、一瞬だけ怒りが消えた。
代わりに、もっと見てはいけないものを見られたような顔になった。
「何も我慢してない」
「小鬼が言ってた」
「小鬼なんかいない!」
大地が叫んだ瞬間。
教室中の机の中から、がたがたと音がした。
ぼくたちは息を止めた。
一つではない。
前の机。
後ろの机。
窓ぎわの机。
すべての机の中で、何かが動いている。
小鬼が、ぼくの背後で震えた。
「おれじゃない」
「え?」
「こんなの、おれ、やってない」
机のふたが一斉に開く。
消しゴム、鉛筆、ノート、小さなお菓子。
教室中の物が、見えない手に引かれるように宙へ浮かび始めた。
黒板に、白い文字が勝手に書かれていく。
『おなかすいた』
その下に、もう一行。
『だれもわかってくれない』
大地が、真っ青な顔で小さく言った。
「……それ、おれが昨日、思ってたことだ」




