第2話 女子トイレの花子さんは、なぜか怒っていた
廊下は、さっきよりもずっと長く見えた。
いつもの学校の廊下なのに、夕方になると、どうしてこんなに別の場所みたいになるんだろう。
窓の外では、校庭でサッカー部がまだ走っている。ボールを蹴る音も、誰かが「ナイス!」と叫ぶ声も聞こえる。ちゃんといつもの学校だ。家に帰ればランドセルをおろして、手を洗って、お母さんに「宿題やったの」と言われる、いつもの日だ。
なのに、廊下の奥だけが違った。
旧校舎へ続く渡り廊下の向こう。
そこだけ、夕方の光が届いていなかった。
女子トイレの赤い表示が、暗がりの中でぼんやり光っている。
「無理」
ぼくは言った。
すずめは、ぼくの横をふわふわ浮かびながら、顔だけこちらに向けた。
「まだ何もしてないよ」
「何もしてないのに無理なんだよ」
「便利な無理だねぇ」
「便利じゃない。ほんとの無理」
「じゃあ、帰る?」
「帰れるなら帰る」
「帰れないね」
「じゃあ聞かないでよ!」
自分でも情けないくらい声が裏返った。
すずめは、けらけら笑った。
その笑い声は、廊下に変に響かなかった。まるで、ぼくの耳のすぐ横だけで鳴っているみたいだった。
「だいたいさ」
ぼくは、ノートを胸に抱えたまま言った。
「男子が女子トイレに入るのはよくないと思う」
「ああ、それは正しい」
「でしょ?」
「うん。正しい。だから、まず誰もいないか確認しよう」
「それでもだめだよ」
「花子さんは女子だけど、人間じゃないから」
「そういう問題じゃない!」
「細かいなぁ、部長は」
「細かいんじゃなくて、普通のこと言ってるの」
ぼくは、本当に困っていた。
怖いのもある。いや、ほとんど怖い。けれど、それとは別に、女子トイレに近づくこと自体が落ち着かなかった。誰かに見られたらどうするんだ。高坂くんたちに見られたら、一生言われる。いや、一生は言いすぎかもしれないけど、少なくとも六年生になるまでは言われる。
ぼくは足を止めた。
すずめも止まった。
「じゃあ、ここから呼ぶ?」
「呼ばない」
「花子さーんって」
「やめて!」
「三番目の個室を三回ノックして」
「やめてってば!」
「花子さん、いらっしゃいますかー」
「言わないで!」
ぼくは思わず、すずめの口をふさごうとした。
手は空を切った。
すずめは幽霊みたいに少しだけ透けて、ぼくの手をすり抜けた。
その感触が、何もないのに冷たくて、ぼくはまた小さく「ひゃ」と言ってしまった。
すずめが笑いそうになった、そのとき。
「……森野?」
後ろから声がした。
ぼくは、今度こそちゃんと叫びそうになった。
でも、叫ぶ前に振り向いて、もっと変な声が出た。
「朝倉さん?」
そこに立っていたのは、同じクラスの朝倉ひまりだった。
ひまりは、紺色のランドセルを片方の肩にだけかけていた。髪は肩の少し上で切っていて、前髪をピンで留めている。いつもは明るい顔をしていて、給食のときも休み時間も、だいたい誰かと話している。
でも今は、変な顔をしていた。
怒っているような、困っているような。
それでいて、見つかりたくなかったところを見つかった人の顔だった。
「何してんの、こんなところで」
ひまりが言った。
ぼくは一瞬、すずめを見た。
すずめはひまりの目の前で、わざと手を振っている。
「見えてないね」
すずめが言った。
ぼくは口を閉じた。
そうか。
すずめは、ぼくにしか見えていない。
それって、すごく困る。
だって今、ぼくは女子トイレの前で、一人で誰かと会話していたことになる。
「いや、えっと」
ぼくは頭の中で言いわけを探した。
先生に呼ばれている。
さっき使った。
図書室にいた。
それは本当。
でも、そこから女子トイレの前に来た理由がない。
「廊下の、点検」
「点検?」
「そう。廊下の」
「森野って、廊下の点検係だったっけ」
「今日から」
「今日から?」
ひまりは、じっとぼくを見た。
ぼくは目をそらした。
すずめが、ぼくの耳元でささやく。
「嘘が下手だねぇ」
「うるさいな」
「え?」
ひまりが眉をひそめた。
しまった。
「いや、今のは、えっと、自分に」
「自分にうるさいなって言ったの?」
「うん。心の声がちょっと外に出た」
「大丈夫?」
「たぶん、だめ」
正直に言ってしまった。
ひまりは、少しだけ笑いそうになった。けれど、すぐに口元を引きしめた。
「森野こそ、何か探してるの?」
「え?」
「だって、こんなとこ来るの変じゃん」
「朝倉さんもでしょ」
「私は別に。忘れ物」
「何の?」
「何でもいいでしょ」
声が、少し強くなった。
ぼくは肩をすくめた。
ひまりはいつもなら、もっと軽く返してくる。
「ハンカチ」とか「秘密」とか「森野には関係ないし」とか、笑いながら言いそうな気がする。
でも今の言い方は、笑っていなかった。
ひまりの右手は、ランドセルの肩ひもをぎゅっと握っていた。指先が少し赤い。よく見ると、手の甲も赤くなっている。
水で何度も洗ったみたいに。
「朝倉さん、手、どうしたの」
「え?」
ひまりは、ぱっと手を後ろに隠した。
「別に」
「赤いよ」
「寒いだけ」
「今日、そんなに寒くない」
「森野って、意外と細かいね」
「さっきも言われた」
「誰に?」
すずめが、横でにやにやしている。
ぼくは首を振った。
「いや、何でもない」
そのとき。
じゃああああ。
女子トイレの中から、水の音がした。
ぼくとひまりは同時にトイレの入口を見た。
ひまりの顔から、すっと色が消えた。
「……今の、何?」
ぼくは答えられなかった。
すずめが、ふっと笑みを消した。
「いるね」
「いるって言わないで」
「いるものはいる」
「言い方を考えて」
ぼくが小声で言うと、ひまりがぼくを見た。
「森野、さっきから誰と話してるの?」
「自分」
「自分とそんなに会話する?」
「今日は、調子が悪い」
「ほんとに大丈夫?」
大丈夫じゃない。
むしろ、今日のぼくの人生の中で、今が一番大丈夫じゃない。
女子トイレの中から、また水の音がした。
じゃあああ。
じゃあああ。
今度は、水音に混じって、かすかな声がした。
女の子の声だった。
泣いているように聞こえた。
でも、ただ悲しそうというより、歯を食いしばっているみたいな泣き声だった。
ひまりが一歩下がった。
「私、帰る」
「え、でも忘れ物は」
「もういい」
「いいの?」
「いいの!」
強い声だった。
だけど、その声は少し震えていた。
ひまりはくるっと背を向けた。
その瞬間、女子トイレの中から、低い声がした。
「逃げるんだ」
ぼくの足が固まった。
ひまりも、動けなくなった。
声は続いた。
「また逃げるんだね」
すずめが、ぼくの前にすっと出た。
さっきまでと違う。
からかう顔じゃない。
小さな体なのに、その背中が少しだけ大きく見えた。
「花子さん」
すずめが言った。
「出てきな。部長が来たよ」
「来てない」
ぼくは反射的に言った。
すずめが横目でにらむ。
「来てるだろ」
「体は来てるけど、心は来てない」
「じゃあ心も連れてきな」
「無茶言わないで」
すると、トイレの中で何かが鳴った。
こん、こん、こん。
三回。
誰かが、中から個室のドアを叩いた音だった。
ひまりが小さく息を吸った。
ぼくはノートを抱きしめた。
すずめが顎で入口を示す。
「行くよ」
「本当に?」
「本当に」
「朝倉さんもいるけど」
「その子がいるから出てきたんだよ」
ぼくはひまりを見た。
ひまりは唇をぎゅっと結んでいる。
目はトイレの入口から離せないのに、足は帰りたいと言っているみたいに少し後ろを向いていた。
「朝倉さん」
ぼくは声をかけた。
「なに」
「いやだったら、先生呼んでくる?」
「先生に何て言うの」
「女子トイレから、花子さんの声がしますって」
「森野が怒られるよ」
「だよね」
「私も怒られる」
「だよね」
ひまりは、少しだけ息を吐いた。
「森野、何か知ってるの?」
「知らない」
「嘘」
「ほとんど知らない」
「ほとんど?」
「ぼくも、さっき巻き込まれたばっかりだから」
「何に?」
ぼくは答えに困った。
七不思議クラブのノートに名前を書いたら、口の悪い座敷わらしが出てきて、部長にされて、女子トイレの花子さんが泣いているから調べろと言われた。
そんな説明を、どうやって信じてもらえばいいんだろう。
ぼくが黙っていると、トイレの中から声がした。
「信じなくていいよ」
ひまりの肩がびくっと跳ねた。
「信じなくても、約束は破ったままだもの」
ひまりは、今度こそ顔を真っ白にした。
「……約束?」
ぼくが聞くと、ひまりは首を振った。
「知らない」
「でも」
「知らないってば」
強い声だった。
強い声なのに、今にも泣きそうだった。
すずめがぼくの袖をつまんだ。つまんだ、ように見えた。実際には触れていないのかもしれない。でも、冷たいものが袖口にかすった気がした。
「部長」
「なに」
「聞いてやりな」
「誰に」
「あの子にも。花子さんにも」
「ぼくが?」
「部長だから」
「それ、便利すぎるよ」
「便利に使うための部長だよ」
「ひどい」
ぼくは小さく深呼吸をした。
息を吸っても、胸の奥まで入っていかない。途中でつっかえる。
怖い。
本当に怖い。
でも、ひまりの顔を見たら、少しだけ別の気持ちも出てきた。
ひまりは、いつも明るい。
たぶん、クラスのみんなはそう思っている。
ぼくもそう思っていた。
でも今、ひまりは全然明るくなかった。
何かを隠している。
何かを、言いたくなくて、言えなくて、でもそれを誰かに見つけてほしいような顔をしている。
ぼくは、トイレの入口に向かって言った。
「あの」
声が小さすぎた。
すずめが横で言う。
「もう一回」
「あの!」
今度は少し大きかった。
「花子さん、ですか」
しん、とした。
水の音だけが続いている。
じゃあああ。
ぼくは、もう帰りたくなった。
いや、ずっと帰りたい。
でも、ここで黙るともっと怖い気がした。
「えっと、泣いてるって聞いて」
ぼくは言った。
「もし、何か困ってるなら」
そこで言葉が止まった。
困ってるなら、何だ。
助けます、なんて言えない。
ぼくに何ができるか分からない。
すると、三番目の個室のドアが、内側からぎい、と鳴った。
ひまりがぼくの腕をつかんだ。
「森野」
「ぼくも怖い」
「そういうことじゃなくて」
「いや、ぼくはそういうことしか考えられない」
ひまりの手が震えていた。
ぼくの腕も震えていたから、どっちがどっちの震えなのか分からなかった。
個室のドアが、ゆっくり開いた。
中から出てきたのは、赤いスカートの女の子だった。
髪はおかっぱ。
白いブラウス。
胸元には赤いリボン。
顔は、思っていたより普通だった。
いや、普通というのも変だけど、血だらけでもないし、目が真っ黒でもない。
ただ、ものすごく怒っていた。
目のふちが赤い。
泣いていたのは本当らしい。
でも、今は泣いているというより、怒っている。
花子さんは、ぼくを見るなり言った。
「遅い!」
ぼくは、思わず頭を下げた。
「すみません!」
なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。
花子さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「呼ばれてすぐ来なさいよ」
「呼ばれたの、たぶん十分くらい前で」
「十分も遅い」
「でも、ぼく、今日初めてで」
「初めてでも部長でしょ」
「その話、広まるの早くないですか」
すずめが横で腕を組んで言った。
「怪談同士の連絡網だね」
「そんなのあるの?」
「あるよ。たぶん」
「たぶんで言わないで」
花子さんは、すずめをじろりと見た。
「すずめ、あんたも何してたの。こんな頼りない子、連れてくるのに時間かけすぎ」
「頼りないのは認めるけど、連れてくるの大変だったんだよ。廊下で二十回くらい無理って言ってた」
「二十回も言ってない」
「数えてないけど、それくらいの気持ちだった」
「気持ちで数を増やさないで」
花子さんの目が、ぼくからひまりに移った。
ひまりの手が、ぼくの腕から離れた。
花子さんは一歩、トイレの外へ出た。
水の音が止まった。
急に静かになって、耳が痛いくらいだった。
「朝倉ひまり」
花子さんが名前を呼んだ。
ひまりは、唇をかんだ。
「……なんで、名前」
「知ってるよ。ここで泣いた子の名前は、だいたい覚えてる」
「私、泣いてない」
「泣いた」
「泣いてない」
「水を出して、泣き声をごまかしてた」
ひまりの顔が、くしゃっとゆがんだ。
でも、すぐに元に戻した。戻そうとした。
「ちがう」
「何が」
「私は、何もしてない」
花子さんの顔が、さらに険しくなった。
怖い。
怖いけれど、その怒りは、ぼくに向いているわけではない気がした。
花子さんは、怒っている。
でも、ただ怖がらせたいわけじゃない。
誰かに、ちゃんと言ってほしいみたいだった。
「約束したでしょ」
花子さんが言った。
「明日までに返すって」
ひまりの目が揺れた。
「……知らない」
「借りたものは返す。なくしたなら、なくしたって言う。そんなの、一年生でも分かる」
「知らないって言ってるじゃん!」
ひまりが叫んだ。
その声が廊下に響いた。
ぼくはびくっとした。
ひまり自身も、自分の声に驚いたようだった。
花子さんは、黙ってひまりを見ていた。
すずめも、何も言わなかった。
沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、ひまりの息だけが少し荒かった。
ぼくは、何か言わなきゃと思った。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
すると、花子さんがぼくを見た。
「部長」
「は、はい」
「この子、嘘ついてる」
ひまりがぼくを見た。
その目が、すごくいやだった。
怒っている。
困っている。
でも、それだけじゃない。
助けてほしいようにも見えた。
助けてほしくないようにも見えた。
人の顔って、こんなに面倒くさいものだったんだと思った。
ぼくは、ひまりの手を見た。
赤くなった指。
何度も洗った手。
ランドセルの横ポケットから、少しだけはみ出している小さな袋。
袋の口は開いていて、中は空っぽに見えた。
「朝倉さん」
ぼくは言った。
「なに」
「何か、探してたんだよね」
「だから忘れ物って言ったじゃん」
「忘れ物じゃなくて、なくし物?」
ひまりの肩が、わずかに動いた。
花子さんの目が細くなる。
すずめが、ぼくの横で小さく「へえ」と言った。
ぼくは続けた。
「手、何回も洗ったみたいに赤い。さっき水の音がしてたし。何かを、流しちゃったのかなって」
「……ちがう」
「ちがうなら、いいんだけど」
ぼくは、そこで言葉を切った。
本当は、言い負かしたかったわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ、ひまりがずっと一人で歯を食いしばっている感じがして、それが気になった。
「ぼくも今日、嘘ついた」
ぼくは言った。
ひまりが眉を寄せた。
「急に何」
「高坂くんたちに、先生に呼ばれてるって言った。本当は旧校舎が怖くて逃げた」
「……それ、今言うこと?」
「分かんない。でも、嘘つくと、なんか、体の中に石が落ちる感じがして」
言ってから、恥ずかしくなった。
何を言っているんだろう、ぼくは。
でも、花子さんは笑わなかった。
すずめも笑わなかった。
ひまりだけが、少しだけ下を向いた。
「石って」
ひまりが小さく言った。
「変なの」
「うん」
「でも、ちょっと分かる」
その声は、さっきよりずっと小さかった。
花子さんが一歩、ひまりへ近づいた。
ひまりは後ろへ下がらなかった。
「まだ本当のこと、言ってないね」
花子さんの声は、低かった。
怒っているのに、少しだけ泣きそうにも聞こえた。
「赤いリボンは、どこへやったの」
ひまりの目から、ぽろっと涙が落ちた。
それは、本人も予想していなかったみたいだった。
ひまりは慌てて袖でぬぐった。
「泣いてない」
誰も、何も言わなかった。
ひまりはもう一度、強い声で言った。
「泣いてないから」
でも、その声は震えていた。
そのとき、三番目の個室の奥から、何か赤いものがちらりと見えた。
細い布みたいなもの。
ぼくが目をこらした瞬間、トイレの鏡が白くくもった。
そして、くもった鏡に指で書いたような文字が浮かび上がった。
『うそつき』
ひまりが息を止めた。
花子さんは、ぼくを見た。
「部長。明日までに、この子に本当のことを言わせて」
「明日?」
「そう。明日」
「もし、言えなかったら?」
聞きたくなかった。
でも、聞いてしまった。
花子さんは、ゆっくり笑った。
その笑顔は、初めて少しだけ怪談らしかった。
「この学校の女子トイレ、ぜんぶ開かなくなる」
「それは困る!」
ひまりが叫んだ。
花子さんは、ひまりを見た。
「困るなら、約束を思い出しなさい」
水道から、一滴だけ水が落ちた。
ぴちゃん。
その音がした瞬間、花子さんの姿がふっと薄くなった。
最後に、花子さんはひまりへ言った。
「借りたものより、なくしたあとの嘘の方が、ずっと重いんだから」
赤いスカートが揺れて、花子さんは三番目の個室の中へ消えた。
ドアが、ゆっくり閉まる。
ぎい。
ばたん。
廊下に、ぼくとひまりと、ぼくにしか見えないすずめが残された。
ひまりは、しばらく動かなかった。
ぼくも動けなかった。
すずめだけが、腕を組んで言った。
「さて」
ぼくは、いやな予感がしてすずめを見た。
「なに」
「部長、初仕事だね」
「やっぱり、ぼくがやるの?」
「名前書いたからね」
「名前って怖いね」
「今さら気づいた?」
ひまりが、ぼくを見た。
「森野」
「うん」
「今の、夢?」
ぼくは少し考えた。
夢だったらよかった。
でも、夢にしては手が冷たい。足も震えている。ノートもちゃんと胸の中にある。
「たぶん、違う」
「だよね」
ひまりは、笑おうとした。
でもうまく笑えなかった。
「私、ほんとに何もしてないから」
その言葉は、さっきより弱かった。
ぼくは、すぐにはうなずかなかった。
うなずいたら、たぶん嘘になると思ったから。
かわりに、ぼくは言った。
「じゃあ、明日、一緒に探そう」
「何を」
「赤いリボン」
ひまりは、目を伏せた。
すずめが、ぼくの横で小さく笑う。
「少しは部長っぽくなってきたじゃん」
「なってない」
「なってる」
「なりたくない」
「それは知ってる」
廊下の蛍光灯が、ぱちん、とひとつ点いた。
それから、もうひとつ。
さっきまで暗かった廊下に、少しずつ明かりが戻ってくる。
けれど、女子トイレの三番目の個室だけは、最後まで暗いままだった。
ぼくはノートを開いた。
ページの文字は、さっきより濃くなっていた。
『第一の不思議。女子トイレの花子さんが泣いている』
その下に、新しい文字が浮かんでいた。
『赤いリボンを返せ』
ひまりが、小さく息をのんだ。
ぼくは、胸の中にまた石が落ちる音を聞いた気がした。
でも今度の石は、ぼくの嘘だけじゃない。
ひまりの嘘と、花子さんの涙と、どこかへ消えた赤いリボンの分まで、少しだけ重くなっていた。
「……明日までか」
ぼくがつぶやくと、すずめは楽しそうに笑った。
「よかったね。帰れる理由ができたよ」
「全然よくない」
ひまりが、ぽつりと言った。
「森野」
「なに?」
「明日、ほんとに……一緒に探してくれる?」
ぼくは、怖かった。
花子さんも怖い。
女子トイレも怖い。
明日、高坂くんたちに何か言われるのも怖い。
ひまりの嘘に踏み込むのも怖い。
でも、ひまりはもっと怖そうだった。
だから、ぼくは小さくうなずいた。
「うん。ちょっとだけなら」
すずめが横で笑った。
「出た。ちょっとだけ」
「うるさいな」
ひまりが、不思議そうに首をかしげた。
「やっぱり森野、誰かと話してる?」
ぼくはすずめを見た。
すずめは、にやにやしながら手を振った。
ぼくはため息をついた。
「……それも、明日説明する」
ひまりは、もう一度、女子トイレの三番目の個室を見た。
そして、小さな声で言った。
「明日かぁ」
その声には、帰れる安心よりも、明日が来てしまう怖さの方が混じっていた。
ぼくにも、それは少し分かった。
明日は、赤いリボンを探さなきゃいけない。
ひまりは、本当のことを言わなきゃいけない。
そしてぼくは、花子さんにもう一度会わなきゃいけない。
そんな明日、来なくていい。
そう思ったのに、廊下の窓の外では、夕日がゆっくり沈んでいた。
学校の一日は、ぼくの都合なんかおかまいなしに終わっていく。
そして、七不思議クラブの初仕事は、まだ始まったばかりだった。




