第1話 入ってはいけない図書室で、ぼくは名前を書いてしまった
ぼくは、怖い話がきらいだ。
どれくらいきらいかというと、夜にトイレへ行くとき、廊下の電気をぜんぶつける。洗面所の鏡は見ない。階段の下も見ない。押し入れのすき間なんて、ぜったい見ない。
だって、見たらいるかもしれない。
いなかったとしても、「いない」と思った瞬間に出てくるかもしれない。
そういうことを考えているうちに、トイレに行きたいのか、もう行きたくないのか、自分でもよく分からなくなる。
だからぼくは、怖い話がきらいだ。
なのに。
「森野、今日の放課後、旧校舎な」
五時間目が終わったあと、隣の席の高坂くんが、給食袋を机にひっかけながら言った。
ぼくは、ノートをランドセルにしまおうとしていた手を止めた。
「……え?」
「え? じゃなくて。旧校舎。行くだろ?」
「なんで?」
「なんでって、おまえ、昨日言ったじゃん。七不思議調べようって」
「言ってない」
「言った」
「言ってないよ」
「言ったって。なあ、言ったよな?」
高坂くんが後ろを向くと、同じ班の男子たちが、にやにやしながらうなずいた。
「言った言った」
「森野、けっこう乗り気だった」
「『ぼく、花子さんと友だちになれるかも』って言ってた」
「言ってない!」
思わず大きな声が出た。
教室の何人かがこっちを見た。ぼくはすぐに首をすくめる。声を出したあとって、なんでこんなに恥ずかしいんだろう。自分の声だけ教室に残っているみたいで、耳の奥が熱くなる。
高坂くんは、ぼくの顔をのぞきこんだ。
「もしかして、怖いの?」
その言い方が、いやだった。
別に、高坂くんがすごく悪いわけじゃない。たぶん、ただからかっているだけだ。からかわれるくらい、誰にでもある。ぼくだって、それくらい分かっている。
でも、「怖いの?」と聞かれると、こっちの胸の中にある小さな箱を、勝手に開けられた感じがする。
箱の中には、言いたくないものが入っている。
夜の廊下が怖いこと。
トイレの鏡が怖いこと。
お風呂で髪を洗うとき、後ろに誰か立っている気がすること。
クラスのみんなが笑っているとき、自分だけ笑えないこと。
そんなものを見られたくなくて、ぼくは言った。
「べつに、怖くないけど」
言ったあと、自分で「うわ」と思った。
声が小さすぎた。しかも、最後の「けど」がふるえていた。
高坂くんの口元が、にやっと上がる。
「じゃあ行こうぜ。放課後、旧校舎。三階の女子トイレな」
「女子トイレはだめだよ」
「なんで?」
「だって女子トイレだから」
「森野、そこ?」
男子たちが笑った。
ぼくも笑えばよかったのかもしれない。だけど、口がうまく動かなかった。
旧校舎の三階には、もう使われていない女子トイレがある。去年の六年生が、そこで白い手を見たとか、鏡に知らない女の子が映ったとか、そんな話をしていた。
もちろん、ただのうわさだ。
ただのうわさに決まっている。
でも、ただのうわさなら、どうして旧校舎の三階はいつもあんなに暗いんだろう。
「じゃあ、放課後な」
高坂くんはそう言って、自分の席へ戻っていった。
ぼくはランドセルのふたを閉めながら、頭の中で言いわけを探した。
お腹が痛い。
家の用事。
先生に呼ばれている。
歯医者。
急に遠い親戚が来た。
急に遠い親戚が来るのは、さすがに変か。
最後の授業のあいだ、ぼくは黒板の文字を見ているふりをしながら、ずっとそのことを考えていた。
チャイムが鳴った。
帰りの会が終わった。
みんながランドセルを背負って、ざわざわと教室を出ていく。
「森野、行くぞー」
高坂くんが、教室のドアのところから手を振った。
ぼくは立ち上がって、言った。
「あ、ごめん。先生に呼ばれてる」
高坂くんが眉を上げる。
「どの先生?」
「えっと……」
しまった。
そこまで考えていなかった。
「図書の、先生」
「図書の先生って、今日いる?」
「いる、と思う。たぶん。いや、呼ばれてるから、いるんじゃないかな」
「なんだそれ」
高坂くんはちょっと変な顔をしたけど、すぐに「じゃあ先行ってる」と言って廊下へ出ていった。
ぼくはほっとした。
ほっとしたけど、胸のあたりが少しだけ重くなった。
嘘をつくと、体の中に小さな石が落ちる。落ちた石は、しばらくそこに残る。
ぼくはその石をかかえたまま、図書室へ向かった。
先生に呼ばれているなんて、もちろん嘘だ。
でも、図書室なら安全だと思った。
本がたくさんあるし、明るいし、たまに図書委員がいる。なにより、旧校舎の三階女子トイレよりはずっとましだ。
ところが、図書室の前まで来て、ぼくは足を止めた。
電気がついていない。
入口のガラス窓から中をのぞくと、本棚の間に夕方の光が細く入りこんでいるだけだった。窓の外の空はオレンジ色で、校庭からはサッカー部の声が聞こえる。
なのに、図書室の中だけ、しんとしていた。
ぼくはドアの前で少し迷った。
ここで帰ればいい。
そう思った。
でも、廊下の向こうから男子たちの声がした。
「森野、ほんとに先生のとこ行ったのかな」
「逃げたんじゃね?」
「ありえる」
ぼくは反射的に図書室のドアを開けた。
そして、そっと中に入った。
図書室は、いつもと同じはずだった。
貸し出しカウンター。
低学年向けの絵本棚。
調べ学習の本。
古い百科事典。
窓ぎわの丸い机。
でも、人がいないだけで、同じ場所なのにまるで知らない場所みたいに見えた。
本棚の影が、床に長くのびている。
夕方の光が、本の背表紙をななめに照らしている。
時計の針の音が、やけに大きい。
カチ。
カチ。
カチ。
「……すぐ帰ろ」
小さくつぶやいて、ぼくは入口の近くに立ったまま時間をつぶすことにした。
五分くらいいればいい。
先生に呼ばれていた感じになる。
そのあと帰れば、高坂くんたちもたぶん旧校舎から戻っている。
そう思って、ぼくは本棚の横にしゃがんだ。
そのとき、足の先に何かが当たった。
「ん?」
黒いノートだった。
本棚の一番下。床と棚のすき間に、半分だけはさまっていた。
ぼくは拾おうとして、やめた。
いやな予感がした。
黒いノートなんて、もうその時点でいやだ。もっと明るい色ならよかった。黄色とか、水色とか。せめて表紙に動物の絵が描いてあるとか。
でも、そのノートは真っ黒だった。
しかも、表紙の真ん中に白い紙が貼ってある。
そこには、へたでも上手でもない、不思議な字でこう書かれていた。
『七不思議クラブ』
ぼくは、ノートを床に戻した。
見なかったことにしよう。
そう決めた。
決めたのに、なぜか目が離せなかった。
七不思議クラブ。
さっき高坂くんたちが言っていた言葉と同じだった。
胸の中の石が、ころんと動いた気がした。
「……ただの落とし物だよね」
ぼくはノートを拾った。
表紙はざらざらしていた。古い本みたいなにおいがした。角は少しすり切れていて、長いあいだ誰かが持っていたようにも見える。
中を開く。
一ページ目には、こう書いてあった。
『七不思議クラブ入部届』
その下に、名前を書くための線が一本だけ引かれている。
ぼくはすぐに閉じようとした。
でも、その下の文章を読んでしまった。
『名前を書いた人は、今日から部長です』
「ばかじゃないの」
思わず声に出た。
図書室の中に、ぼくの声だけが落ちた。
それから、ぼくはなぜか笑ってしまった。怖いというより、ばかばかしかったからだ。名前を書いたら部長になるなんて、そんなことあるわけがない。
たぶん、誰かのいたずらだ。
高坂くんたちかもしれない。
そう思うと、少しだけ腹が立った。
怖がりだと思われるのはいやだった。逃げたと思われるのもいやだった。いや、本当は逃げたんだけど、それを見つけられるのはもっといやだった。
だからぼくは、カウンターに置いてあった短い鉛筆を取った。
「書いたらどうなるんだよ」
誰に言うでもなく、ぼくはそうつぶやいた。
そして、名前を書いた。
『森野こたろう』
書いた瞬間。
ばたん。
図書室のドアが閉まった。
ぼくは肩をびくっとさせた。
「……風?」
窓は閉まっていた。
カーテンも動いていない。
なのに、部屋の空気が急に冷たくなった。
ぼくはノートを閉じようとした。けれど、手がうまく動かない。指先が冷たくなって、鉛筆を落としそうになる。
カチ。
時計の針が鳴った。
カチ。
もう一度、鳴った。
カチ。
その音に混じって、上から声がした。
「ばかはさ」
ぼくは息を止めた。
「読んだあとに名前を書くやつだね」
ゆっくり顔を上げる。
本棚の上に、女の子が座っていた。
赤い着物を着ていた。
足は、本棚のふちからぶらぶら下がっている。けれど、その足は棚にも床にもついていない。黒い髪はあごのあたりで切りそろえられていて、目だけが妙にきらきらしている。
女の子は、にやりと笑った。
「ようこそ、ビビり」
ぼくは口を開けた。
叫ぶつもりだった。
でも出た声は、
「ひゃ」
だった。
女の子は一瞬きょとんとして、それからお腹をかかえて笑った。
「ひゃ、だって。ねえ、今の聞いた? 誰もいないけど。ひゃ、はないだろ、ひゃ、は」
「だ、だれ……」
「だれ、じゃないよ。あんたが呼んだんだろ」
「呼んでない」
「名前書いた」
「書いたけど、呼んでない」
「同じようなもんだよ」
「ちがうよ!」
自分でもびっくりするくらい必死に言った。
女の子は本棚から、ふわりと降りてきた。
降りてきた、というより、落ちてこなかった。空気に乗るみたいに、すうっとぼくの前に浮かんだのだ。
ぼくは後ろへ下がった。
背中が本棚にぶつかる。
「こ、こないで」
「失礼だね。あたしは化け物じゃないよ」
「じゃあ、なに?」
「座敷わらし」
「ざしき……」
「知らないの?」
「知ってるけど、学校に出るものなの?」
「細かい男だねぇ。学校にも座敷くらいあるだろ。和室。茶道クラブで使ってる」
「そういう問題?」
「そういう問題」
女の子は当然みたいに言った。
ぼくは、少しだけ変な気持ちになった。
怖い。
ものすごく怖い。
でも、この女の子は、思っていた幽霊とちょっと違った。恨めしそうに髪をたらしているわけでも、首が変な方向を向いているわけでもない。口が悪い。とにかく口が悪い。
それが怖さを少しだけ変な方向へずらしていた。
「名前は?」
ぼくが聞くと、女の子は胸を張った。
「すずめ」
「すずめ……さん?」
「さんはいらない。気持ち悪い」
「じゃあ、すずめちゃん」
「もっと気持ち悪い」
「どう呼べばいいの」
「すずめでいいよ、ビビり」
「ぼくは森野こたろう」
「知ってる。書いたじゃん」
すずめは、ぼくの手元のノートを指さした。
ノートが、勝手に開いた。
ぼくは思わず手を離した。ノートは床に落ちず、空中でぱらぱらとページをめくった。
白いページの真ん中に、黒い文字がじわりと浮かび上がる。
『第一の不思議』
ぼくは、のどを鳴らした。
文字は続いた。
『女子トイレの花子さんが泣いている』
「……見なかったことにしていい?」
ぼくは言った。
すずめは、にっこり笑った。
「だめ」
「なんで」
「あんた、部長だから」
「なりたくてなったんじゃない」
「世の中にはね、なりたくてなったものだけ背負えるわけじゃないんだよ」
「急に大人みたいなこと言わないで」
「座敷わらしは、あんたより年上だからね」
「何歳?」
「忘れた」
「それ、年上って言えるの?」
すずめの眉がぴくっと動いた。
「あんた、ビビりのくせに口だけはちょっと動くんだね」
「今のは、すずめが変なこと言ったから」
「ほら、動く動く」
すずめは楽しそうだった。
ぼくは全然楽しくなかった。
女子トイレの花子さん。
その言葉だけで、背中のあたりがぞわぞわする。
花子さんは有名だ。
三番目の個室を三回ノックして、「花子さん、いらっしゃいますか」と聞くと返事がある。学校によっては引きずりこまれるとか、赤い手が出るとか、血のついたスカートの女の子が出るとか、いろいろな話がある。
どれもいやだ。
全部いやだ。
「ぼく、帰る」
ぼくはノートを拾わずにドアへ向かった。
ドアノブを回す。
回らない。
「……あれ」
もう一度回す。
動かない。
引いても押しても、びくともしない。
背後ですずめが言った。
「言い忘れてたけど、事件を解決するまで出られないよ」
「そういう大事なことは先に言って!」
「だって、言ったら名前書かなかったでしょ」
「当たり前だよ!」
ぼくはドアを何度も押した。
無理だった。
窓を見る。開かない。カーテンも、さっきより暗く見える。
図書室の外では、まだ校庭の声がしている。サッカーボールを蹴る音。誰かの笑い声。いつもの学校の音。
なのに、ここだけが別の場所みたいだった。
ぼくはドアに額をつけた。
「なんで、ぼくなんだよ……」
声が小さくなった。
すずめは、すぐには答えなかった。
少しのあいだ、図書室には時計の音だけがした。
カチ。
カチ。
やがて、すずめが言った。
「名前を書いたから」
「それは分かってる」
「あと、あんたが怖がりだから」
ぼくは振り向いた。
「怖がりだから、なに?」
「怖がりは、怖がってる子の気持ちが分かる」
すずめは、さっきまでのからかうような顔ではなかった。
少しだけ、真面目な顔をしていた。
「花子さんが泣いてる。怪談が泣くってのは、けっこうまずいんだよ。怒ってるより、ずっと面倒くさい」
「面倒くさいって……」
「泣いてるやつはさ、自分が何で泣いてるのか分からなくなってることがある。そういう時は、強いやつより、弱いやつの方が話を聞ける」
「ぼくは弱いやつってこと?」
「うん」
「そこはごまかしてよ」
「ごまかしてほしかった?」
「ちょっと」
すずめは、ぷっと笑った。
ぼくは笑えなかったけど、さっきより少しだけ息がしやすくなった。
そのときだった。
図書室の外から、水の音が聞こえた。
じゃあああ。
手洗い場の水を出しっぱなしにしたような音。
ぼくは体をこわばらせた。
この階の水道は、さっき通ったとき止まっていた。
それに、音がする方角は、図書室の隣の廊下ではない。
旧校舎へ続く渡り廊下の方だ。
すずめがノートを拾い、ぼくに押しつけた。
「行くよ、部長」
「行かない」
「行く」
「行かないってば」
「じゃあ、ここにずっといる?」
ぼくは図書室を見回した。
薄暗い本棚。
勝手に動くノート。
空中に浮かぶ座敷わらし。
開かないドア。
そして、廊下の向こうから聞こえる水の音。
どっちもいやだった。
でも、ここにずっといるのは、もっといやだった。
ぼくはノートを胸に抱えた。
「……ちょっとだけだからね」
「はいはい」
「本当に、ちょっとだけ。見に行くだけ。花子さんに会うとか、そういうのはなし」
「泣いてるって書いてあるのに?」
「じゃあ遠くから心配する」
「あんた、なかなか器用に逃げるね」
すずめは笑いながら、ドアに手をかざした。
さっきまで動かなかったドアノブが、かちゃりと音を立てる。
ドアが開いた。
廊下には、夕方の光が細く伸びていた。
その奥から、また水の音がした。
じゃあああ。
その音に混じって、女の子の泣き声が聞こえた気がした。
ぼくは足を止めた。
すずめが振り返る。
「どうしたの、ビビり」
「……今、聞こえた」
「泣き声?」
ぼくは、うなずいた。
すずめは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、急いだ方がいい」
「なんで」
「花子さんが泣いてるときはね」
すずめは、廊下の奥を見た。
「あの子、たいてい怒る寸前だから」
その瞬間、廊下の蛍光灯が、ぱちんとひとつ消えた。
続けて、もうひとつ。
また、ひとつ。
暗くなっていく廊下の奥で、女子トイレの赤い表示だけが、ぼんやり光っていた。
ぼくは、ノートを抱える手に力を入れた。
帰りたい。
今すぐ帰りたい。
でも、泣き声はまだ聞こえていた。
小さくて、くやしそうで、誰かに気づいてほしそうな声だった。
「……ちょっとだけだから」
ぼくはもう一度言った。
すずめは笑わなかった。
ただ、ぼくの横に並んで、言った。
「うん。ちょっとだけ行こう、部長」
ぼくたちは、暗くなりはじめた廊下を歩き出した。




