第44話 崩れ落ちる氷河のように
テニスコートに足を踏み入れる時、高揚感も緊張感も湧いてこなくなったのは何時からだろう?
始めた頃は、ラケットを手に持つだけで胸が高まった。コート設営をするだけで偉業を成し遂げた気持ちになった。ただの乱打が楽しくて仕方なかった。
でも何時しかそれは当たり前になって、体調や精神状態によっては練習が嫌だと思う日もあった。
それでも試合の時は流石に緊張したけど、仲間内の練習試合では以前ほどの緊迫感は持てなくなった。
当たり前のことだ。誰だって最初の感動を持続なんてできない。そこからどう向き合っていくか、モチベーションを持続するかは一種の技術とも言われているくらいだから。
けど、今日は違う。
久し振りだ。コートに入るだけでこんなに緊張するのは。
不思議と、ここ数日感じていた不安や絶望は綺麗サッパリ消えている。いい加減悩み疲れたってのもあるし、理久とリオに緊張を解して貰ったのも大きい。
でも結局、一番大きいのは――――
「昨日は俺のこと庇ってくれてありがとうございました」
それが嬉し過ぎて、自分のやってきたこと……先輩への想いがねじ曲がって伝わった訳じゃないとわかって、満足してしまった。
嫌われることより、ペアを解消して先輩と疎遠になることより、結局下心で近付いてきただけだと誤解されるのが怖かった。
もしそう思われてしまったら、先輩はもうソフトテニスを好きになれなくなってしまう。
自惚れかもしれないけど、そんな気がしたから。
「ううん」
俺の御礼は、素直に受け取っては貰えなかった。
でも、たとえ拒絶されても悔いはない。俺以外の誰かが先輩を好きにさせたとしても……
いや、流石にそれはカッコ付け過ぎか。
できれば俺が先輩を好きにさせたかった。歓喜の瞬間を一緒に味わいたかった。
先輩の笑顔を、一瞬でも独り占めしたかった。
それが本音だ。
だから――――
「ごめんね。先輩なのに、あんなことしか言えなくて」
諦観の境地に達しつつあった俺に、先輩は目を合わせようとはしない。
憐憫でも構わないからこっちを向いて欲しいと思っていた俺にとって、その姿は寂しく映った。
「昨日だけじゃなくて、ずっとそう思ってたんだけどね。私が先輩なのに、それっぽいこと一つもできなくて……」
そんなことを気にしてたのか。全然気付かなかった。
「……篠原君、ソフトテニス始めたのは中学生になってからなんだよね?」
「あ、はい。天和から聞いたんですか?」
「うん。だからスポーツ歴でも私が先輩。それなのに、ずっと篠原君に引っ張って貰うばっかりで……自分が情けなくてモヤモヤしっぱなし」
な、なんか想像してた先輩の胸の内と全然違うな。嫌悪は嫌悪でも自己嫌悪だったのか。
まさか、そんなことを気に病んでペア解消を訴えてきたんだろうか……?
「一茉里に相談したらね、篠原君はそういうの全然気にしないって言ってくれたんだけど」
私生活の俺、等身大の俺を一番理解しているのは明莉だと思う。多分、親よりも。
けどテニスプレイヤーとしての俺を一番理解してくれているのは、間違いなく天和だ。
「天和、ずっと献身的に俺たちを支えてくれてましたから。あいつが俺たちにしてくれたように、少しでも先輩を後押ししたいってだけです」
日頃からそんな意識で先輩に接していた訳じゃない。でも学年が上の人たちと全然コミュニケーションを取れなかった俺が、高校に入って曲がり形にも先輩の人たちと渡り合えているのは、一つ下の天和と過ごした経験が活きている。
あいつが俺たちにしてきたように、自分から壁を作らないようにしてきたつもりだ。結果、少し偉そうになってしまった感は否めないけど……
「誤解されやすいけど、結構熱い奴なんですよね」
「……一茉里のこと、ちゃんとわかってくれてるんだね」
「二年間、ほぼ毎日顔を合わせてましたから」
先輩ともそうなりたかった。
……とは言えないけど。
「随分イジられましたけど、あいつとのやり取りは楽しかったです」
「一茉里もね、篠原君の話題になると凄く楽しそうなんだよ。LINEのラリーが倍速になるくらい」
え、俺のこと二人で話題に出してるのか。どんな内容なのかメッチャ知りたいんですけど!
にしても、もっと重い空気になるかと思ってたけど天和っていう共通の話題のおかげで話が弾んでる気がする。これなら混合ダブルス継続の芽も――――
「やっぱり、お似合いだね」
……ん?
なんか今、理解できないワードが先輩の口から出てきたような……
「二人ともお互いのことを理解してて、冗談の中にも思いやる気持ちが見えて……凄く良い関係」
「いや、そんな大袈裟なもんじゃ……ただの選手とマネージャーですって」
「そんなことないよ。一茉里、LINEで篠原君のことで相談したら何時間でも語り続けるんだよ? 好きじゃないとできないよ」
先輩?
今なんて言いました?
「篠原君も一茉里のこと、好きなんでしょ?」
……な。
…………ん。
「でえええええええええええええええええええええ!?」
「わっ」
思わず出た奇声で先輩を驚かせてしまったけど、こんなん自制できるか!
「いやないですよないですってないない! そんな事実はないです!」
「そんな無理に否定しなくても……」
「だってないんです! ホントに! 絶対! マジな話!」
まさか。
先輩が急にペア解消を訴えた理由って……
「そ、そうなんだ。私の早とちり……だったのかな」
「じゃ、じゃあ男子同士でやった方がいいってあのLINEも……」
俯いたまま、先輩はコクリと頷いた。
ああ、やっぱりか。
俺と天和がお互い好き合ってるって勘違いして、天和に配慮して俺から離れようとしてたのか。
……なんだろうな。今俺の心の中に渦巻くこの感情は。複雑すぎて訳わからん。
「でもね、それだけじゃなくて」
まだ何かあるのか。気持ちの整理が追い付かない……
「男子のキャプテンと組んで試合してた時、篠原君のプレーがどんどん良くなるのを見て……やっぱり私じゃ釣り合わないって思ったから」
あー……そっちか。
そうだよ。先輩ならそっちだよな。なんで気づかなかったんだ俺。
……俺も早とちりだった訳か。お互い様ってだけでなんか嬉しい。
「ダブルスって、同じくらいのレベルの選手同士じゃないと楽しくないと思う。私もそれで、中学の頃から何度も迷惑かけてきたし……」
「一般的にはそうかもしれません。でも今の俺の考えは違います」
いや、実際は俺もそうだった。
自分より明らかに格下と組むのは嫌だった。そいつが真面目だったら尚更だ。
やる気がなくて、ふて腐れたようなプレーでポイントを落とされるのはムカつくけど、それはまだ一般論と自分の感情が一致するだけマシ。一番キツいのは、真面目にプレーしてミスを連発する相手に、それでも苛立ってしまう自分の小ささを自覚する時だ。
足を引っ張られて負けて、それを周りから同情される。『後衛勝負では勝ってたのにな』と言われることに優越感を抱く。
そんな自分が嫌で嫌でたまらなくて、同レベル以外の前衛とはたとえ練習試合でも一切組まなくなった。
でも今は違う。
一旦モチベーションが極限まで低下したことで、却ってフラットにダブルスと向き合えるようになった。
自己顕示欲を満たすことよりも、やってみたいことができた。
「新聞部でも話しましたけど、俺はこれからも先輩と混合ダブルスを続けたいです」
月坂先輩の、ソフトテニスを好きになりたいっていう切実な願いを一緒に叶えたい。
「私で本当に良いの……?」
「はい」
「下手だよ? どんなに練習に付き合って貰っても上手くなれないかもしれないよ?」
「なれます。万が一ダメだった時は、一緒に負けましょう」
「でも、それだと篠原君が……」
「混合ダブルスは地区大会すっ飛ばして最初から県大会ですから。一回戦で負けても県大会敗退。全盛期と大体同じ成績なんですよ」
そんな俺のとっておきの冗談は、先輩を満面の笑顔にはできなかった。
構わない。その楽しみは後に取っておくから。
それに――――
「……もう」
はにかむように笑う先輩は今までで一番可愛くて、今までで一番近くに感じた。
このあとメチャクチャ練習した。




