交わる刃
ルシアは短剣を握ったまま、屋根の上で身じろぎもしなかった。刃先だけが、月明かりを細く返している。
向かいの屋根に立つクロードも同じだった。剣の柄に手を伸ばす気配すらない。
「……どうして、ここにいるの?」
「それは僕の台詞じゃないかな」
「私は仕事」
「暗殺か」
「……そう」
風が吹き抜け、ルシアの銀髪を揺らした。
彼女は片足を半歩引く。屋根の端。背後には逃走経路がある。左手の路地には梯子、右手には隣の建物へ渡る細い板。
クロードの視線が、彼女の手元へ落ちた。
細身の刃。その鍔には、かすかな赤い染みがある。甘い薬品の臭いも残っていた。
「標的は?」
「言わない」
「そうだろうね」
クロードは笑った。
だが、目は笑っていない。
「でも、今夜の君は少し焦っている」
ルシアの指が柄を締めた。
「……何で分かるの?」
「君は普段、もっと周囲を見ている」
ルシアは黙った。
図星だった。
建物の配置。人の気配。逃走経路。いつもなら、すべてを同時に確認している。だが今は、クロードから視線を外せない。
「……騎士って、みんなそんなに人を見るの?」
「僕が特別なんじゃないかな」
「自分で言う?」
「事実だからね」
「……やっぱり変な人」
ルシアが息を吐いた。
その直後だった。
遠くで金属が鳴り、次いで馬の蹄の音が響いた。
カツ。カツ。カツ。
ルシアの顔から表情が消える。
車輪が石畳を擦り、一定の間隔で軋んでいる。蹄には布が巻かれているらしく、音は妙に鈍い。
灯りは見えない。
明かりを隠した車が、闇の中を進んでいる。
ルシアは屋根の端へ一歩近づいた。
「……来た」
「標的?」
「たぶん」
クロードも通りの向こうへ目を向ける。
闇の中から、黒塗りの車が現れた。
窓には厚い布。側面には商会の紋章を削った跡があり、その上から黒い塗料が雑に塗られている。隅には、数字のような印も残っていた。
クロードの目が細くなった。
「……あれか」
「知ってるの?」
「騎士団が追っている車と同じだ」
ルシアは答えなかった。
黒い塗料。削られた紋章。
手元に残る甘い臭い。
《夜影》から渡された情報と一致している。
車は南区へ向かっていた。
ルシアは膝を曲げた。
屋根から飛び降りようとした、そのとき。
「待って」
クロードの声が飛んだ。
ルシアは止まらない。
「何?」
「一人で行くつもり?」
「そうだけど」
「なら、忠告しておく」
クロードが一歩踏み出した。
「あの車には、騎士団も目をつけている」
ルシアは振り返った。
「……騎士団も?」
「南区で子どもが何人も消えている。あれが、失踪した子どもたちを運んでいると考えているんだ」
「証拠は?」
「側面の数字。削られた紋章。失踪現場で見つかった黒い塗料の剥片」
クロードは車から目を離さない。
「それから、君の刃についている臭いも気になる」
ルシアは反射的に得物を袖へ隠した。
クロードの目が、その動きを追う。
「君も同じものを追っているのか」
「……答えない」
「でも、顔に出ているよ」
「うるさい」
車が近づき、車輪が石を踏んだ。
ガタン。
ルシアの肩がわずかに揺れる。クロードは声を落とした。
「一つだけ聞く」
「何?」
「君の標的は、人身売買に関係している?」
ルシアは答えなかった。
ただ、柄を握る指に力がこもる。
革が、ぎしりと鳴った。
クロードの表情から、軽さが消えた。
「……そうか」
車が二人の前を通り過ぎる。
ルシアは屋根の端へ向き直った。
「なら、僕たちの目的は同じかもしれない」
「私と騎士団が?」
「正確には、君と僕だね」
「一緒にしないで」
「嫌かな?」
「当たり前でしょ」
「そう言うと思った」
クロードが笑った。
その瞬間、車の前方にある路地から人影が現れた。
一人。
二人。
三人。
男たちは無言で道を塞いだ。
御者が手綱を引く。
馬が前脚を上げ、車輪が止まった。
男の一人が側面へ近づき、拳を上げる。
コン。
コン。
コン。
短い三回。
続けて、二回。
ルシアの呼吸が止まった。
その合図を知っている。
《夜影》から渡された帳簿に記されていた。南区の倉庫へ車を通すための合図だ。
「……あれは」
「どうした?」
「合図」
ルシアは刃を抜いた。
鋼が鞘を擦る。
「この車を待っていた」
男たちは車体を囲んだ。
一人が御者の横に立ち、別の男が後部へ回る。残りの二人は通りの両端を見張った。
逃げ道を塞いでいる。
「何してるの……?」
ルシアは目を細めた。
《死線》が発動する。
男たちの身体に、淡い光の線が浮かんだ。
首。
手首。
膝。
心臓。
だが、男たちは御者を殺そうとしない。車を奪うつもりでもない。
後部に回った男が扉を開けた。
蝶番が鳴る。
中から、鎖の擦れる音がした。
男は床板を外し、隠し場所から小さな木箱を引き出した。
箱の側面には、車体と同じ数字が書かれている。
「……おかしい」
クロードが隣へ来た。
「何が?」
「この人たち、子どもを狙ってない」
木箱を抱えた男が、路地へ向きを変える。
クロードの視線が、その腰へ落ちた。
運送組合の札。
南区の倉庫街で使われている印だった。
「帳簿かもしれない」
「証拠を消すつもり?」
「その可能性が高い」
木箱を持つ男が走り出す。
ルシアの足が動きかけた。
そのとき。
車内から、かすかな声がした。
「……助けて」
ルシアが振り返る。
子どもの声。
続いて、鎖が鳴った。
ジャラリ。
男の一人が舌打ちし、懐へ手を入れる。黒い布を巻いた刃物を抜いた。
その柄に刻まれた印を見て、ルシアの胸が冷えた。行方不明者の家々に残されていた印。
《夜影》から見せられたものと同じだった。男が扉へ向き直り、刃を持ち上げる。
「……っ!」
ルシアは屋根から飛び降りた。
靴底が石畳を打つ。
「ルシア!」
クロードの声が響く。ルシアは止まらない。得物を逆手に持ち替える。
一歩。
二歩。
男との距離が縮まる。
「その子から離れて!」
男たちが一斉に振り返った。
一人が腰を落とし、一人が木箱を地面へ置く。別の男は扉を背にした。
退路を塞ぐ構えだ。
ルシアの《死線》に、幾筋もの光が走った。
首。
手首。
膝。
胸元。
男たちの懐にある小袋から、甘い臭いが漂う。
眠り薬。
クロードも屋根から飛び降りた。
着地と同時に剣を抜く。
鋼が月光を弾いた。
「分かってる!」
ルシアの前に立つ男が、刃を構えた。
切っ先が、子どものいる車内へ向く。
「邪魔をするなら、あの子と同じ場所へ送ってやる」
ルシアの瞳から迷いが消えた。
車内の子ども。
黒い塗料で隠された印。
眠り薬の臭い。
奪われようとしている木箱。
断片だった手がかりが、目の前でつながった。ここで逃がせば、子どもも証拠も失う。
ルシアは腰を落とした。
左足を前へ出す。
刃を逆手に構える。
クロードも剣先を下げた。
踏み込む。
男たちの靴が、同時に石畳を蹴った。
戦闘が始まった。




