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貧困街での2人の邂逅


翌朝。


ルナヴェルの平民街は、いつもと変わらない朝を迎えていた。通りには朝食を買い求める人々の姿があり、店先からは焼きたてのパンの香りが漂っている。


「おばちゃん、おはよー!」


「おや、ルシアちゃん。今日は早いねぇ」


「朝ごはん、これ!」


ルシアは笑顔でパンを受け取り、代金を置いて店を出た。昨夜、屋根の上で出会った男のことなど、忘れてしまえばいい。


そう思っていた。


なのに、頭の中にはあの穏やかな声が残っている。


『君が、本当に悪い人には見えなかったから』


「……なんであんなこと言うかな」


パンをかじりながら、ルシアは頬を膨らませた。


暗殺者に向かって、悪い人には見えない。


普通なら、そんなことを言うはずがない。まして、あの距離で自分の動きを見切った男なら、なおさらだ。


「変な人」


そう呟いたところで、ルシアは足を止めた。小さな広場で、数人の子どもたちが騒いでいる。


「おい、返せよ!」


「嫌だね」


年上らしい少年が、小さな男の子から何かを取り上げていた。


「それ、母ちゃんの形見なんだぞ!」


「知るかよ」


少年の手の中で、銀色の小さなペンダントが揺れる。


銀の鎖。古びた月形の飾り。


それを見た瞬間、ルシアの笑みが消えた。胸の奥に、理由の分からない痛みが走る。


────それを、奪われてはいけない。


考えるより先に、身体が動いていた。


「ねえ」


「あ?」


少年が振り返る。ルシアはにっこりと笑った。


「それ、返して」


「なんだよ、お前」


「聞こえなかった?」


笑顔のまま、目だけが細くなる。


「返してって言ったの」


「嫌だって言ったら?」


「そのときは、返してもらうだけ」


ルシアが一歩近づく。少年が腕を引くより早く、彼女の指が手首の急所を捉えた。


「痛っ!」


力を込めたようには見えなかった。


それでも少年の指はあっさり開き、ペンダントが宙へ跳ねる。ルシアは落下する前に、それを掴んだ。


「はい」


何事もなかったように、男の子へ差し出す。


「ありがとう……」


「どういたしまして」


少年たちは何も言えず、その場から逃げていった。


ルシアは背中を見送りながら、無意識に胸元へ手を伸ばした。


服の下には、同じ形の月飾りがある。


ただし、彼女のものは半分に割れていた。


指先でそれをなぞった瞬間、胸の奥に別の痛みが走る。けれど、その理由を思い出すことはできなかった。


「……まったく」


ため息をついた、その直後だった。


「相変わらずだね」


「っ!」


背後から届いた声に、ルシアは振り返った。そこに立っていたのは、昨夜の男だった。


「……クロード」


「覚えていてくれたんだ」


「忘れるわけないでしょ」


「それは嬉しいな」


クロードは穏やかに笑った。


だが、その視線はルシアの顔ではなく、ペンダントを掴んだ指先に向けられている。


「今の動き、ずいぶん手慣れていたね」


「子どもの喧嘩に、いちいち口を出すの?」


「喧嘩なら、あんなふうに急所は取らない」


穏やかな声だった。


けれど、逃がすつもりのない問いだった。ルシアはパンを握り直す。


「……見間違いじゃない?」


「昨夜も?」


短い言葉に、ルシアの笑みが消えた。


やはり、この男は覚えている。自分の動きも、正体も。


「あなたこそ、こんなところで何してるの?」


「話を逸らすんだね」


「答えたくない質問には答えない主義なの」


「僕と同じだ」


「一緒にしないで」


即座に返すと、クロードは小さく笑った。


「君は、警戒しているときのほうがよく喋る」


「あなたは観察しすぎ」


「君が分かりやすいだけだよ」


腹立たしい。なのに、その声を聞いていると妙に落ち着く。


それが、もっと腹立たしかった。


「それで?騎士団の副団長が、平民街で何をしてるの?」


「仕事だよ」


「具体的には?」


「君を見つけたことも、その一つかもしれない」


冗談めいた口調だった。


だが、目は笑っていない。


ルシアの指先に力がこもる。


「私を探してたの?」


「探していたら、君はどうする?」


「逃げる」


「正直だね」


「捕まるよりはいいでしょ」


「そうだね」


クロードは否定しなかった。


その素直さが、かえって不気味だった。


「昨日、どうして私を捕まえなかったの?」


ルシアが先に切り込む。


クロードの笑みが薄れた。


「君は、あの男を殺さなかった」


「殺せたけど、殺さなかっただけ」


「なぜ?」


「必要がなくなったから」


「それだけ?」


「それ以上、何を聞きたいの?」


ルシアはまっすぐに見返した。


クロードも視線を逸らさない。


互いに隙を探りながら、どちらも一歩も引かなかった。


「殺せるのに殺さない。暗殺者としては不自然だ」


「騎士が、その理由を知りたがるのも変じゃない?」


「理由のない力を警戒しているだけだよ」


「私も、理由のない親切は警戒してる」


クロードの目がわずかに揺れた。


「親切のつもりはなかった」


「じゃあ、何?」


「興味だよ」


ルシアの胸が、小さく跳ねた。


クロードはその反応を見逃さなかったが、追及しなかった。


「君が何者なのか、知りたい」


「知ってどうするの?」


「危険なら止める。そうでないなら────」


「見逃す?」


「君が、僕の判断を信じられるならね」


ルシアは目を細めた。


「信じろって言うの?」


「まさか。君にそんなことを言うほど、僕は無謀じゃない」


思わず、笑いそうになる。


警戒している。


けれど、一方的に追い詰めるつもりもない。


その距離感が、妙に心地よかった。


「あなたの言う正義は、誰に教わったの?」


今度はクロードが尋ねた。


「君は、暗殺者なのに何でも殺すわけじゃない。自分なりの基準があるんだろう?」


「……自分で決めた」


ルシアはわずかに視線を逸らした。


「誰かに教えてもらったものじゃないよ」


クロードは黙って彼女を見つめた。


その言葉の奥に、失われた過去の気配を感じ取ったのだろう。


「そう。それなら、大切にするといい」


「……変なこと言うね」


「君に言われたくはないな」


ルシアは思わず笑った。ほんの一瞬だった。


けれど、その笑顔を見たクロードの表情がわずかに和らぐ。


その変化に気づき、ルシアはすぐに顔を引き締めた。


────今、少し嬉しいと思った。


それが悔しかった。


「……じゃあ、私は行くから」


「引き止めないよ」


「本当に?」


「引き止めたら、君は逃げるんだろう?」


「たぶんね」


「なら、今は見送る」


ルシアは数歩進み、ふと振り返った。


「クロード」


「何かな?」


「次に会ったときも、私を捕まえるつもり?」


「君が何かを隠したままなら」


「じゃあ、隠していればいいんだ」


「そうすれば、僕は追い続ける」


淡々とした言葉だった。なのに、ルシアの胸に妙な熱が残った。


「……変な人」


「君にだけは言われたくないな」


今度こそ、ルシアは笑った。


そのまま背を向ける。


数歩進んだところで、胸元をそっと押さえた。服の下で、割れた月形の飾りが肌に触れる。


その瞬間、脳裏に白い部屋がよぎった。


冷たい石床。


鉄の匂い。


誰かの声。


『四つ目が目を覚ました』


「……何これ」


記憶のはずなのに、自分のものではないような感覚だった。ただ、その言葉だけは妙に鮮明だった。


四つ目。何を指しているのかは分からない。


それでも、胸元の飾りに触れたときだけ、同じ言葉が浮かぶ。


心臓が、少しだけ速い。別に、何かをされたわけじゃない。


ただ話をしただけだ。


なのに、クロードの声を聞くと忘れていたはずの言葉が浮かんでくる。


「……変なの」


昨夜と同じ言葉を呟いて、ルシアは小さく笑った。


その笑顔の奥で、銀色の瞳が一瞬だけ冷たく光った。




ルシアが去った広場に、静寂が戻った。


その背中を見送っていたクロードは、笑みを消していた。


「……四つ目、か」


彼の視線は、遠ざかっていくルシアを追っている。


昨夜、彼女が屋根から飛び降りたとき。


着地の直前、月明かりの中で見えた銀髪の奥に、淡い光が四つ浮かんだ。


瞳ではない。


彼女の周囲に一瞬だけ現れた、細い魔力の輪。


それは古い記録に残る、禁じられた術式の兆候とよく似ていた。


クロードは、その術式について知っている。


古い記録には、四つの核を持つ器について記されていた。


四つの核。


それぞれ異なる力を宿す、四つの器。


ただし、記録に残されているのは三つまでだった。


四つ目の器は、王都の地下に封印されたとされている。


その名は《四番目》


クロードは、昨夜から何度もその可能性を否定していた。


銀髪。異常な身体能力。傷を負っても乱れない呼吸。


そして────


相手の急所を線として見る、未知の魔眼と今朝、ペンダントに触れた瞬間の反応。


それぞれは、単独なら偶然で片づけられる。だが、すべてが一人の少女に重なっている。


「普通の暗殺者、じゃない」


クロードは低く呟いた。ルシアが去った広場には、もう彼女の気配すら残っていない。


それでも、彼の脳裏には彼女の胸元に隠された半月の飾りと、あの一瞬の記憶が焼きついていた。


────四つ目が目を覚ました。


もし、あの言葉が彼女自身を指しているのなら。


もし、あの少女が本当に《四番目》なら。


彼女は何者なのか。


誰が目覚めさせたのか。


そして、残る三つの器はどこにあるのか。


クロードは空を見上げた。


昼間の空に、月はもう見えない。


それでも、昨夜見た銀髪の少女の姿だけは、妙に鮮明に残っていた。


「……君はいったい、何者なんだろうね」


その問いの答えを知る者は、まだ誰もいなかった。


ルシア自身でさえ、まだ知らない。

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